部誌9 | ナノ


今夜の月は美しい



スッキリと晴れた夜空に、月が浮かんでいた。市街地だから、星がきれいに見えるわけではないが、月なら十分に見えた。特にその日は満月で、夜釣りには向かない日だっただろう。
月がきれいな満月の日は、月の光で釣り糸が魚に見えてしまうから、釣れないのだそうだ。釣り糸をみて、釣られると思うだけの知能が魚にあるのか、真偽の程はわからないのだけれども。
そんなことを考えながら、ふらふらと歩く。片手にはレジ袋。鈴鳴支部の買い出しだ。ちょっとしたおやつやら、事務用品やら消耗品やら。
なまえの鈴鳴支部での仕事は、こんな雑用やら、その他諸々。もともとは防衛の方もやっていたのだが、今はしていない。
もともとは本部所属のボーダー隊員だったなまえが鈴鳴支部に転属になったのは、大学を卒業したなまえが一般企業に就職したからだった。
もう、ランク戦にも出なくていい、なんてことは少し気が楽ではあったが、少し寂しいものだ、となまえは思っていた。
そんななまえの隣を、同じく鈴鳴支部に所属するボーダーの、村上鋼が歩いている。なまえのレジ袋が少なめで、村上の分が少し多い。本当はなまえ一人で持ち運びができる量なのだが彼が勝手についてきて、勝手にもっているのだ。こんな夜の時間に、高校生を連れ歩くのは気が引けたのだが、ついてくるという文には仕方がなかった。
彼は少し頑固だとなまえは思う。
頑固でなければ、個人ランク4位になんて、なれないだろうな、とそこそこに活躍できるだけの力はあったものの、個人ランク一桁に食い込めるほどの才能に恵まれなかったなまえは思った。
「月が綺麗ですね」
声がすこしかたい。緊張の色が伺える声の調子から、多分、彼はあの話をきいたのだろう、と推測した。
どこかの文筆家が、I love you.をそう、訳したのだそうだ。
犬のようになまえについてくる村上が、そういう思いを自分に対して抱いていることを、なまえは多分知っていたと思う。ついてくる犬は可愛らしい。なまえの言葉に一喜一憂して尻尾がみえそうな犬なら、尚更。
でも、なまえにとってはLOVEではなくて、多分これからもずっとなまえは可愛い女の子が好きなのだと、そう思っていた。
「……いつも通りじゃないかなぁ」
なまえは一度も村上の顔を見ないで、そう答えた。村上の返事は無くて、ただ、がさがさというレジ袋の音だけがなまえの後ろをついてきた。



「テンプレメール?」
聞きなれない言葉を鋼は復唱した。その言葉を発したのは今結花だった。黒髪美人の今結花は、鈴鳴第一の頼れるオペレーターだ。面倒見もよく、なにかとそそっかしい別役にヤキモキしているのを見るのは、すこしだけ、不謹慎ながら鋼にとって楽しかった。
「そうなの、みょうじなまえさんから、テンプレメールが届いたのよ」
「……はぁ?」
うまく事情が飲み込めない鋼は、みょうじなまえという名前に関する動揺を抑えながら、それが?と聞いた。
「なまえさんね今一人暮らしなの知ってるわよね。あの人、一年に一回、必ずすっごく風邪をこじらせて、動けなくなるんですって」
「……なまえさんが?」
意外だった。なまえはいつも、仕事もなんでも完璧にこなす。そして容姿もきれいで、お洒落だ。そんななまえに、鋼は憧れて、好きになったのだ。
この間の告白はあっさりと玉砕したけれども。まだ、直接言っていないだけ見込みがあると鋼は思っている。
「それで、動けなくなるときに、送るおやすみのメールのテンプレを用意してあるんだけど、それが今日届いたのよね」
「……ってことは、動けなくなった、ってことですか?」
たぶん、と答える結花にもどうやら確信がないようすだった。もし、なまえが寝込んで動けないのだとすれば、鋼は何があっても助けに行きたいのだが鋼はなまえの家を知らない。
「で、鋼くんに頼みがあるの」
結花の頼みは鋼にとって渡りに船だった。

鋼に渡されたのは、なまえの部屋の住所が書かれた紙と、合鍵だった。なまえの部屋の合鍵が支部に預けられていたのは、なまえの手によるものではないらしい。
『本部に居たときは、二宮さんが行ってたらしいのよね。なまえさんの両親にお願いされて。二宮さんとなまえさんって、家が近所で幼馴染なんですって。それで、なまえさんがこっちにうつるときに、隊長が渡されたんだそうよ』
二宮となまえが親しいらしいことは知っていたが、まさか、合鍵を持つほどだったとは思わなかった。そして、あの二宮が、誰かの風邪の看病をしているらしいというのも、意外中の意外だ。
二宮はこれを渡すときに『自分の支部の人間の面倒は自分で見ろ』と言ったそうだ。プライベートなことの面倒までボーダーが見ることは普通無く、これは二宮が個人的にやっていたことだと思うのだけれど、と結花は言っていた。
ただ、なまえが心配だという点は彼女にも共通しているらしく、買っていくべきもののリスト作りを手伝ってくれた。
そんなわけで、鋼は今なまえの部屋の前にいる。思ったより普通。ごくごく普通のアパートの一室。部屋番号を数度確かめて、鋼はインターホンを鳴らした。
きんこん、と電子音が部屋の中で響く。中から人の気配はしない。もう一度、きんこんと鳴らして、鋼は控えめに「なまえさん」とドア越しに呼びかけた。
返事はなかった。
倒れているのではないか、と思いながら鋼ははやる気持ちを抑えながら、「あけますよ」と念の為声をかけて、鍵穴に鍵を差し込んだ。
がしゃり、とシリンダーが回る音がする。渡された鍵は確かに、この部屋の鍵だった。

ドアを開けて、その惨状に鋼は息を飲んだ。

靴が散乱している。玄関に靴下が脱いでそのまま落ちている。入り口からすぐに見える流しに、コンビニ弁当の空が積んでいる。脱ぎっぱなしの服が散らかっている。ビニール袋が置いてあって、酒の空き缶が転がっていた。
物取りにあったかのような惨状の部屋に、めまいがした。
ここは本当になまえさんの部屋なのだろうか。いや、風邪を引いて、そのせいなのかもしれない。風邪を引いたら酒は飲まないだろうという前提には取り敢えず目をつむって鋼は部屋の中に踏み込むことにした。
「なまえさん、入りますよ」
大きめの声をかけても、返事はない。よく見ると、コンビニ弁当のひとつの比較的新しいものが、大部分残されたままになっている。食欲がなくて、明らかに手をつけてそのまま置いた、というような食べ残しに鋼は不安になった。この部屋のどこかになまえが埋もれていることが心配だった。
「なまえさん、」
声をかけながら決心して踏み込んだ鋼は、なるべく散乱している服やら、書類やら、何やらを踏まないようにしながら、中に進んだ。それほど広くない和室に、読みかけの本やら、衣類やらがごっちゃに積まれていて、えらく狭い。その上に遮光カーテンが引かれていて中の様子がわからない。埃っぽいその部屋に風邪の感染対策にマスクをしてきた鋼は、少しだけ安堵した。
部屋の明かりのスイッチを探し当てて、部屋に光を入れる。古びた蛍光灯がぽつぽつと点滅しながらついて、その部屋の惨状とともに、部屋の隅にしかれた布団の塊を発見した。周囲に、ポカリスエットのペットボトルと、風邪薬の空き箱が転がっている。どうやら、このごちゃごちゃの部屋の中に食べ物は持ち込んでいないようで中で何かが腐っているのではないかという鋼の懸念は解消されて、安堵すると同時に、布団をかぶったまま動かないなまえに急に不安になった。
「……なまえさん」
なんとか本を踏まないように近づいて、鋼はおそるおそる、布団を引いた。
「……ん、」
小さなうめき声が、ガラガラになっている。枕元に落ちている携帯端末は、充電切れのマークを点灯させていた。この部屋の中から充電器を探すのは重労働に違いない。危うく救急車も呼べないところだったと、鋼はひやりとした。些細な現実逃避をすませてから鋼はなまえの様子をたしかめるために、布団を引き剥がして、更に驚愕した。
流しでコンビニ弁当の食べ残しにカビが生えていたのを見た以来の驚愕だった。
何しろ、なまえは服を着ていない。風邪を引いて、この時期にしては厚手の布団を被りこんでいるのに。
何を考えているんだこの人は。
鋼は抱えたくなる頭を上げて、なまえの肩を揺すった。
「なまえさん、」
「……まさ?」
のそ、と起き上がったなまえは、多分、二宮の名前を呼んだ。さむい、と言いながらなまえは鋼の引き剥がした布団をかぶる。
「いえ、村上です」
「……え、」
かなり、寝ぼけていたのか風邪の熱で朦朧としているのか、多分両方だ。頬が赤くて、触れた肩はかなり熱っぽかった。
「…………村上、くん?」
なまえは顔を上げて、村上を見た。熱で潤んだ目が、少しだけ赤い。髪の毛はぼさぼさで、酷い有様だったが、それでもなまえはきれいだった。
「………ああああ、」
今度は寒気とは違う理由で、なまえは頭から布団をかぶる。
「なまえさん、大丈夫ですか」
「……だいじょうぶじゃ、ないです」
ありとあらゆる意味で全然大丈夫そうじゃなさそうななまえに、鋼はわずかに同情しながら、彼の自分の理想とのギャップに、意外に幻滅していない自分に気づいた。
そう。鋼は、まだ、なまえのことだ好きだと思えた。
「……とりあえず、薬と、食べ物持ってきたんで食べて、それから寝ましょう」
鋼はそういいながら、布団の塊をぽんぽんと叩く。
「……はい」
小さな返事が布団の中から聞こえた。
ごそごそと芋虫のごとく布団から顔を出したなまえは、風邪でやつれている以外にかなり、落ち込んでいる。多分、鋼にこの部屋の惨状を見られたことがショックだったのだろう。
なまえが、自分に対して見栄をはっていて、気にしていてくれたことが鋼には少し希望に思えた。
幸い、鋼が心配していた下着について、なまえはきちんとつけていた、が、白い肩から布団がずるりと滑り落ちるのを見て、鋼は居心地が悪くなる。
「……なまえさん、寝間着は着ないんですか」
「あつい、から」
「……布団、もう少し薄いの無いんですか」
「……さむいから」
適温の概念をこのひとはどう考えているのだろうか。鋼はそんなことを思いながら、先に、服着てください、とため息を吐いた。それから、なまえのかわりに着替えを出そうと振り返って、散乱する衣類から視線をそらした。
「……なまえさん、どれが、着ていないパジャマですか」
先行きの不安を、高校生の鋼は感じていた。

結局なまえの衣装ケースから出てきた寝間着らしきものをなまえに着せたが、どうにも、上下の柄が違う。
揃わなかったのだ。なまえは着ているものもなんでもお洒落だったから、これまた鋼の理想のなまえ像とは遠い。遠すぎる。
そのなまえが、微かに口を開ける。鋼が一応と持たされたおかゆの入ったタッパーにスプーンを差し込みながら、鋼はたじろいた。
なまえが何も食べたくない、と言ったから、少しだけ口に入れるだけでいいですから、口を開けてください、と懇願したのだった。
なまえの口に、スプーンを運ぶ。
思っていたのと、違うけれど、妙に胸がドキドキする。戦闘で昂るのとも、流しで積み上がった何かの入ったゴミ袋を見たときの胸騒ぎとも違う。いつも、完璧できれいななまえに感じていた胸騒ぎ。
銀色のスプーンを、唇の隙間に差し入れた。薄い唇が、受け入れる。鋼は自分の思い描いていた恋のイメージを再構築し始めていた。
「……む、」
「あ、」
唇の端から、とろ、と白粥が一粒たれた。それを手で拭こうとするなまえを制して、鋼は近くにあったティッシュでなまえの口元をふいた。
この場所に不釣り合いな不埒な妄想が、頭をよぎる。
「……ありがとう」
「いえ」
妄想を振り切りながら鋼は短く答えた。
「……ごめん、村上」
次のひとくちを用意しようとした鋼に、なまえが言った。
「何がですか」
もう一口が必要ないというのであれば、無理にでも食べさせようと決意をかためる。
「お前の、前では、もうちょっと、……かっこよくしてたかったんだけど」
顔を上げた。なまえは、うつむいていて、その表情が見えない。
「……お前が、おれのこと、好いてくれてるの、うれしかったから」
ぼた、と、なにか液体が、落ちて、なまえの上下の揃わないパジャマの脚の部分にシミを作った。
「……なに、言ってんだろ、おれ」
ごしごし、と目を擦ろうとしたなまえの手を、鋼は掴んだ。弾かれたように前を向いたなまえの顔が見えた。
熱っぽい顔に涙が流れている。
「……好きです」
ぽろり、と口から、その言葉が溢れた。
風邪の感染予防のためにつけているマスクが、邪魔だった。もっと、ダイレクトに、この思いを伝えたかった。なまえの手は離したくなくて、そっと、溢れないようにタッパーを横においた。マスクを引き下げた。
「……どんななまえさんでも、好きです」
まっすぐに目を見て伝えた言葉は、きっと伝わったと、確信した。
ぼろぼろと、なまえは泣いた。そして、なまえはその顔を隠しながら、もう一度、ごめんと、そう言った。
「……おまえの、告白、……無視したのに、……好きになる、つもりないのに、」
彼は、あの言葉の意味をやっぱり、知っていたのだと、鋼は思った。不思議と腹が立たなかった。
「……嬉しくて、」
ごめん、と彼はそう言った。
衝動だったと、そう思う。
勝負を決める瞬間、というのは確かに存在する。その一瞬を知るのは、嗅覚であると、鋼はそう思う。それが、今だった。
「……っ」
唇を奪った。かさかさと乾いた唇を奪って、舌を絡める。微かに甘い口の粘膜を貪って、味わう。なまえが硬直していたのはほんの数秒で、あっという間に引き剥がされる。
「……っ、風邪!!感染るぞ!?」
なまえはそんなことを言いながら、憤慨した。キスをされたことを怒らないのが、愉快だった。
「……今、押せば、落ちる気がしたので」
正直にそう言うと、なまえの顔が赤くなる。熱っぽさの熱さ以外の熱に鋼は満足して、わらう。
「あとで、感想と返事は聞きますので、今はこれを食べて、薬を飲んで寝てください。そうしてくれたら、オレもうがいをします」
鋼が交換条件を出す。耳まで赤くなったなまえが、鋼の脇に置いたおかゆを自分の手で取るのを見ながら、鋼は手応えを確信した。


微かな水音がした。洗濯機の回る音だ。もうしばらく洗濯をしていなくて、着る服に困っていたことを思い出した。
よく寝た、と思う。部屋が少しだけ、明るい。玄関の方にある明かりが差し込んでいるのだ。
夜か、昼か、判断に迷って、なまえはざっと遮光カーテンを開けた。遮光カーテンはお前には向いてないと、そういったのは二宮だ。多分それは正しい。外の光がないと、昼も夜もわからなくなる上にカーテンを閉めっぱなしにするなまえに遮光カーテンは向いていなかった。
なまえの予想とは別に、外は暗かった。夜だ。おまけに、月が見えた。多分満月。まんまるに太った月が、雲と建物の間から器用に顔を覗かせていた。
「……起きましたか」
自分一人だと思っていた部屋に、誰かがいることに、なまえは驚いて、慌てて振り向いた。
部屋の、少し暗くなっているところに村上鋼がいた。月をみてちょうど彼を思い出していたために、心臓が止まるかというほどに驚愕した。
「ずっと、いたのか」
「いえ、一度戻って、それからまた来ました。一度ですべて洗濯できなかったので」
洗濯機を回しにくる高校生。それってどうなんだとそんなことをさせてしまっているなまえは思いながら、そうか、とだけ答えた。
よくみると部屋がかなり片付いている。彼が片付けたのだろう。それってどうなんだ、となまえはもう一度自分に問いかけながら、まだまだ、重い体にため息を吐いて、窓の外に逃避することにした。
寝る前に、村上がいったことを思い出す。頭が割れそうなくらいに痛くて、あのときは正常に考えられなかった。今は頭痛は少しおさまっていて、少し、考えられた。
「……村上」
「はい」
返事が聞こえる。少しだけ緊張しているのは、多分、なまえが起きたら返事を聞くと言ったからだろうか。
「……今夜の月は、きれいだな」
多分まだ、熱があるのだろうと、なまえは思う。人恋しくて、寂しいのだと、思う。
彼がきっとその言葉でよろこぶだろうという、自分の傲慢さに嫌気がさした。
「なまえさんと見る月は、いつでもきれいですよ」
彼の声が、とても嬉しそうだったから、多分、いいことをしているのだと、そう思うことにした。



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