部誌8 | ナノ


カサブランカと落ちない汚れ



 ずっと目を閉じていればいいのに、と思った。
 思っただけのはずだったが、それは知らずの間に口からまろび出ていたらしい。出窓に置かれたガラス製の花瓶に一抱えの白百合を活けていた後ろ姿が振り返って苦笑を寄越すので、私は「いや、」とつい否定するような言葉を吐きかけて、続く言葉を引っ張り出せずに結局まごまごと声にも音にもならない空気をただ噛み潰した。

「それは、もしかして僕のことですか?」

 文末の疑問符はほとんど申し訳程度という感じで、ただその声が普段と変わらずやわらかなままだったので少しほっとしながら、けれどあおい双眸が答えを待つようにじっとこちらを見ていたので何かしらの反応を返さざるを得なくなり仕方なく頷いた。
 ふうんと呼気に僅かに声が乗ったような曖昧な相槌で彼はまた花に向き直り、白百合の塊をそれぞれがきちんと花弁を隠すことなく見える角度になるよう調整する作業に戻った。出窓に一番近い席に座っている私からは、彼の横顔がよく見えることになる。
 水平よりもほんの僅か笑みの形に引き上げられた形のいい唇と、クリームがかったブロンド、キャラメルのような褐色の肌。甘やかな見目の青年だと、思う。

 喫茶店ポアロ。
 こじんまりとした外観に見合った静かで慎ましやかな時間とそれなりに美味しい軽食、なによりとびきりとはいかなくとも落ち着く味のコーヒーを提供してくれるこの店は、休日の朝、仕事もないのに自分で朝食を準備するのは怠いが何か食べたいしあわよくば食後もしばし入り浸ってゆっくりしたいという怠惰な望みを抱く私にとって恰好の場所だった。
 彼、がアルバイトとして入ってくるまでは。
 安室透と名乗る彼の本業は胡散臭くも私立探偵などという代物らしく、今は同じく胡散臭くはあるが昨今人口に膾炙するようになった巷の名探偵・毛利小五郎氏に師事しているという話だった。しかし、探偵業だけで食べていける人間ばかりではないのだろうか、ついでとばかりに毛利探偵事務所の真下に位置するこのポアロでもアルバイトを始めたという次第で。
 さっぱりとした私服にシンプルなエプロン姿でコーヒーを入れたりオーダーを取ったり軽食を作ってサーブしている様はまるで以前から彼がこの店で働いていたかのようにしっくりと馴染んでいた。馴染み過ぎていると言ってもいいほどに。
 何しろ何でも出来る。彼が煎れるコーヒーは本当に今まで使われていたのと同じ豆かと疑うほど薫り高く味わい深く、客の好みに応じてアメリカンからエスプレッソまで一通り網羅している。料理の腕も良く、中でも彼がレシピを考案したハムサンドは正直休日といわずモーニングに毎日通いたいくらい絶品だった。さすがに毎日は通っていない。というか彼も別に毎日いるわけではないし。
 そう、そこが問題だった。彼が毎日いないこと、ではない。いるかいないかはシフト次第なのでさておき、ここ最近、彼を目当てに客足が増えている。それが私のもっぱらの悩みだった。
 贔屓にしている店が繁盛するのは喜ばしいが、休日の静穏なブランチタイムが喧噪に塗り替えられるのは少々憂鬱だ。私とて客の一人に過ぎないのだから文句を言う筋合いはないのだが。それでも、朝からひそひそきゃいきゃいと黄色い囀りをBGMに落ち着く気には到底なれない。
 開店直後のモーニングからブランチまで厚かましくも文庫本など持ち込んでまったりと過ごさせてもらう、という数年来の習慣は、おかげで途絶えている。もっとも、その代わりにモーニングを食べたあとはそそくさと店を出るが人が比較的少なくなる八つ時あとから夕食時前の時間になるとまた戻ってきて入り浸るというルーティンがこのところ続いている。今がまさにそういう状況だった。

 中天をほんの少し過ぎて角度のついた陽射しが、大きな窓から射してテーブルに光と影のコントラストを作っている。私はぎりぎり陰になる席に座って、先日発売されたばかりの推理小説の新刊を読みながらコーヒーを傾けるために顔を上げた拍子、ふと光差す窓辺に花を活けにきた彼に視線が吸い寄せられていて、気付いたら先のような台詞を漏らしていた、というわけだ。
 僕のことですか、などと聞いておきながら思考の大部分を白百合の見栄えに気を取られている風だった彼は、ややあって満足する出来栄えになったのか花弁から手を離し、少し体を離して花瓶と活けられた花全体を眺め、良し、と頷いた。
 彼が活けていたのは豪奢な白百合で、確か、名前は「カサブランカですよ」「そうそれ」ぽんと手を打ってから、僅かに眉間に力が入った。

「……口には出していなかったと思ったが」
「今のはね。でも、花をじっと見たあと、無意識に顎に手を当てて上を向いているのを見れば、花の名前を思い出そうと考え込んでいる、くらいのことは誰でも分かりますよ」

 そう事もなげに言って、安室透はにこりと微笑む。
 誰でも、というが、たった数秒の仕草から事細かに論理立てて説明できるほどの洞察力は誰にでもは無いだろう。時折彼と話す機会を得る度に、こういうところが探偵たる所以なのだろうかと思わされる。ただの料理とコーヒーの腕がいいウェイターではないのだ、と。
 今のは、などと暗に先程は口から出ていたようだけれどとやんわり指摘された気がして半眼のまま小さく溜息をつくと、くすくすと小さく笑い声が降る。
 立っている彼を見上げれば、午後の麗らかな陽射しを背に受け、彼の髪が光を透かして蜜色にひかっている。甘く煮詰めたキャラメルのような褐色の肌と淡いきんいろの髪に、凛としたカサブランカの純白は誂えたようによく似合っていた。
 ただ、一点だけ、穏やかで人当たりのいい甘やかな青年の印象をそれだけに留めない部分を見つめながら、口を開く。

「……やはり君は、目を閉じていた方が良い」
「どうしてか、聞いても?」

 訊ねる声は、ほんの少し悪戯っぽく弾んでいる。こちらは客は彼は店員で、彼のほうが下出に出ているはずなのに、彼の口調には何を言い出すのか聞いてやろうとでもいうような面白げな響きがあった。
 更に促すように首を傾げられ、逡巡のあと、結局私は続きを舌に乗せた。そもそも最初から口など滑らせっぱなしだ。今更止めようもない。

「何だか見透かされそうで、落ち着かないんだよ」

 何をかは、自分でもよく分からないけれど。
 髪も肌も声も蜂蜜でも掛けたような甘い色をしているくせに、彼の瞳だけはいつも、薄氷を張ったようにうすあおく冷えている。冬の朝、池に張った氷の上に立てるだろうかとそろりと足を伸ばす気持ちに似て、彼のあおい双眸はいつも私を惹きつける。と同時に、踏み込んだが最後冷たい水底に引きずり込まれるような予感が、いつもひたひたと私の背後にあった。
 そんなはずはないのに、と私の中の冷静な部分は言う。
 ただの私立探偵で、ただのウェイターだ。少しばかり勘が働くからといって、何を恐れることがあるだろう。
 慣れた贔屓の店と、長閑な時間、芳しいコーヒーの香り。朗らかな店員の笑み。その何を恐れることが、あるだろう。

「――すまない。気を、悪くしただろう」

 大人げない、というより、子供じみたことを言ってしまった自覚はある。緩慢に首を振って謝辞を述べ視線を上げようとして、思わず息を呑んだ。
 テーブルの上に乗せた私の手の、その指先にぎりぎり触れるか触れないかというところに手をついて、安室透が、私の顔を覗き込んでいた。
 少しばかり垂れ目がちな灰がかった青い双眸に、さらりと淡い金髪がよぎる。
 形のいい薄い唇は、うっすらと笑みを浮かべているように見えた。

「目で見て分かることなんて、ほんの些細なことですよ」
 それでも、こわいですか。
 面白がるような、宥めるような、曖昧な笑みを刷いたまま、形のいい唇が動いて言葉を紡ぐ。指先は触れない。いやに、甘い香りがする。
 なんと答えるべきか、そもそも答えになるものを自分が持っているのかも分からず、私の唇は岩のように固く引き結ばれたまま。やがて、かち合っていた視線がふと逸らされて、彼がテーブルから体を起こしたことでやっと私は解放された。
 解放された? 何も別に、拘束されていたわけでもあるまいに。
 自問自答も気を紛らわせるための逃避でしかない。うろうろと彷徨った視線が窓辺のカサブランカに引き寄せられて、さっき彼からした甘い香りの正体を悟ったからといって、何になるだろう。
 無様な私を彼は表面上こそ穏やかに、けれど私に言わせれば大層面白がっている風に見ていたが、カラン、と入店のベルが鳴るとぱっと店員の顔になって「いらっしゃいませ」と入口へ足を向ける。
 いっそほっとしたような心持ちで、もう彼の方は見るまいとカサブランカを眺める振りをする私の前を通りすがりざま、甘やかな声がひっそりと爆弾を落とす。

「すみません。隠されると、つい探りたくなるんです」
 探偵、ですから。

 ひっそりと笑みを含んだ声を残して、ポアロの新人ウェイターは新しく入店した女子高生三人組をにこやかに席へと案内する。
 その後ろ姿をけして見るまい、と白百合の清らかさに心洗われることを願って、ふと気付いてしまった。
 見栄えを気遣ってか雄しべも雌しべも除かれ、純白の裾を翻すカサブランカの、ほんの一輪にだけ、ぽつりと茶褐色の花粉が落ちている。
 白百合の花粉は、一度つくと落ちないのだ。
 真っ白な花のキャンバスに、却ってありありと目立つそれに、無視することはできないのだと言われているような気がして、とうとう私は俯いた。

 俯いた視線の先、真っ白な陶磁器のカップは底を覗かせている。読みかけの文庫本はまだ半分も読めていない。
 一見甘やかな風貌の、けれど底知れぬ彼に、彼が手ずから煎れてくれるコーヒーのおかわりを頼むべきかどうか、今度はそれが悩みになりそうだった。



prev / next

[ back to top ]



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -