部誌8 | ナノ


日常の隙間



「こんなはずじゃなかった」
 ライブラのメンバーとして、HLの裏社会、その最深部に立ち入る仕事を終えた帰りだった。スティーブンが運転する車の助手席で、組んだ膝を苛々と左の中指で叩きながら、なまえが興奮気味に吐き捨てた。窓の外を流れるHLの夜景にまで仏頂面をさらに険しくする同乗者、それを横目に、スティーブンは呆れと同情を含ませた笑いを漏らす。
 本日の仕事は少々厄介で、異界側の重鎮に、とある事件についてライブラへの協力を要請するというものだった。代表として交渉の場に赴いたスティーブンとなまえであったが、協力の報酬としてあちらが「なまえの眼球」を提案したことを要因に、今回の話は決裂した。命辛々退散した結果、コレクターのお眼鏡にかなってしまったらしい虹彩は、なんとか現在でもなまえの眼窩に収まっている。可哀想に、老獪の異界存在に獲物として認識されてしまったらしい彼は、不機嫌なふりをして恐怖から起こる震えをやりすごしているのだろう。
「こんなはずじゃなかったんなら、どんなはずだったんだい
「少し……少し黙っていてくれ。俺はHLに住む羽目になった時点から『こんなはずじゃなかった』んだ……!」
 からかい半分に投げた言葉は、棘々しい声音に切り捨てられた。あまり構うのも趣味が悪いかと、スティーブンはなまえの言う通りに口を噤む。事務所を出発したのは正午を過ぎた頃だというのに、既に日付も変わろうかという深夜 。暗い車内に沈黙が落ち、窓を流れていく騒がしいネオンサインばかりが色とりどりに騒がしい。
 なまえがHLに来て、もう2年は経つだろうに、彼は異界と接触するたびに処女のような反応を示す。今日だって、『永遠の虚』に近づけば近づくほど異界の色が濃くなり、普通の人間が滞在するには危険が大きくなることは理解していたはずだ。こんな常識外れの街にいちいちまともな感性で相対していたらこちらの身が保たないだろうが、なまえは律儀にリアクションをしてしまう。それが異界存在をより歓喜させることに気付いていないのは、彼が天然だからか。
「君も早くこの街に慣れた方がいい。環境へ順応することも、身を守るために大切なことだ」
 ハンドルを握り正面の安全を確認しながら、『まとも』であり続ける助手席の男へさりげない忠告をする。常に命の危険と隣り合わせ、毎日天地がシャッフルされるかのような非定型の非常識。毎日のように起こる天変地異を受け入れて、取るに足らない日々の出来事としてラベリングしてしまえれば、こうしてなまえが受けるストレスだってだいぶ軽減されるはずなのだ。
 けれども、スティーブンの親切に、なまえは舌打ちを返した。神経質に組んだ足のつま先を揺らして、低く己の言い分を主張する。
「俺の日常は、ここの『外』だ。こんなクソッタレな毎日なんて、死んでも許容してやるもんか」
 死んでしまったら外も中も常識も非常識も関係なく なってしまうだろうに、自分の言葉の愚かさになまえが気付くことはない。頑固すぎるあまりに狭窄した視野が命取りになることも、この男は気付いていまい。スティーブンは肩を竦めて、無数の灯りが煌めく夜のHLでアクセルを踏み込んだ。



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