部誌8 | ナノ


約束



 ボーダー隊員が近界民討伐の任務中に一般市民に重傷を負わせたというニュースは、あっという間に三門市内を駆け抜けた。しかも昏睡状態に陥るほどの怪我をしたのは小学生で、常に記事のネタに飢えているマスコミがこのセンセーショナルな不祥事に、ここぞとばかりに飛びついたのはごく当然のことだろう。ボーダー側は件の隊員が未成年であること、これは不運が重なった上での事故であることを理由に隊員の名前を伏せた。けれども、人の口に戸は立てられぬ。事故を起こしたのはみょうじ隊隊長のみょうじなまえだという噂――いや、事実であるなら、噂ではなく情報と呼ぶべきだろう――情報が、市民の間に流布するにはそれほど時間はかからなかった。

 丸三日の自宅謹慎を終えて出勤したボーダー本部は、あちらこちらでひそひそ声と好奇の視線が行き交い、それがちくちくと肌を刺すようだった。ここまであからさまでは、影浦でなくてもわかるというものだ。隠す気もない嫌悪、同情、野次馬的な興味に、廊下を一歩進むごとにぎりりと拳へと力を込める。俺はいまにもくずおれてしまいそうな足を叱咤して、どうにか嵐山隊の作戦室まで辿り着いた。
 ノックをすると、返事よりも先にドアが開いた。迎えてくれたのは嵐山隊の隊長で、俺の中学校からの友人である嵐山准だ。
「約束通り来たな。よかった」
 ほっとしたように破顔した嵐山は、「入ってくれ」と俺を招き入れる。彼について入った部屋には、他の隊員たちの姿はなく、きっと彼が人払いをしておいてくれたのだろうことが伺える。いまの俺にとっては、その気遣いが重石であると同時に、とても嬉しいものだった。
 ソファに腰掛けた俺に、嵐山が湯気の立つ湯飲みを差し出す。濃い緑茶がなみなみと注がれたそれを受け取ると、温かさが疲弊した精神にじわりと染み入る。正面に座った嵐山が、俺と視線を合わせた。
「隠してもしょうがないから言うが、一部週刊誌でおまえの名前が書かれている」
「ああ、うん……コンビニで見た」
「でも、そんなもの気にするな。あのことについておまえが責められる謂われはない」
 ここに来る途中に寄ったコンビニ、そこに陳列されていた雑誌の表紙を思い出す。ボーダーの安全管理に疑問を呈し、事故に抗議するという建前の、実際は火種があれば面白可笑しく油を注ぎ、燃え上がらせたいだけの下劣な紙面。彼らは話題性のために過激に書き立てているだけだと分かっていても、いまの俺にはそれを笑って受け流す余裕はなかった。雑誌の表紙に踊る、煽り文句。実の兄に傷つけられた弟、ボーダーは本当に正義の味方なのか?――ぎらぎらひかる黄色のインクで印刷された悪意に満ちたゴシック体を思い出すだけで、吐き気がした。
「それで……弟くんの容態は」
「……まだ意識が戻らなくて、母さんもずっと病院に詰めてる」
 父を大規模侵攻で亡くした俺の家は、母が息子二人の面倒を見てくれていた。弟が病院に運び込まれてから、母は一度も家に帰らず、叔母が母や弟の荷物を取りに我が家と病院をたまに行き来するだけだ。でも、それでいいのだろうと思う。母さんだって、可愛い次男を死の淵に追いやった人間の顔を見たくはないだろう。
 もう四日前になるだろうか。日曜日だったその日、弟と公園で遊んでいた俺は、緊急召集を受けて近界民を迎撃するために直接警戒区域へと赴いた。俺について行きたいと駄々をこねる弟をなだめすかして別れ、俺は嵐山と合流して近界民への対処にあたったのだ。俺はメテオラを得意とする銃手で、低い命中率をメテオラの威力と範囲でカバーしている。故に、戦闘中に周囲を爆撃に巻き込むのは日常茶飯事で、嵐山には常々「もうちょっとドンピシャ狙う努力をしろ」と叱られていた。そのときもいつもと同じように近界民を狙ってメテオラを撃ち込んだところ、隣接していた民家の一部が崩壊した。
 近界民は砲撃によって四散、任務は終了だと思ったときに、俺の耳が微かな声を捉えたのである。崩れた家屋の瓦礫の下から、弱々しい泣き声。どうして、なぜ、ここは警戒区域だ。一般人の立ち入りは原則禁止されているはずなのに。混乱しながら瓦礫をどけると、そこには頭から血を流して倒れる弟の姿があった。
「……くそっ」
 鮮明に浮かび上がる鮮血の色に、動悸が速まり、脂汗が滲む。ここは嵐山隊の作戦室、目の前に瀕死のあの子はいない。
「落ち着け、みょうじ。深呼吸をするんだ」
「嵐山……俺、おれ、あの子がボーダーに憧れているの知ってたのに、こっそり俺の後をつけてきたのにも気づかないで、あの子を傷つけてしまって……!」
「ああ」
 おもむろに立ち上がった嵐山は、俺の肩を軽く数度叩いた。心配してくれているようだが変に慰めずにいてくれる嵐山の態度が、ありがたい。
 嵐山は軽い調子で、「そうだ」と声をあげた。
「模擬戦をしないか。三日も謹慎してたんじゃ、体なまってるだろ」
 模擬戦。戦う。武器を使う――そう考えるだけで手が震えてくるほどに恐ろしかったが、ボーダー隊員であるかぎり、戦闘を避けることは不可能だ。しかも俺は隊長で、隊員を率いる立場である。それなら、もう二度とあんな事故を起こさないために、訓練をして、トリガーを使いこなせるようになるべきだ。
 気は進まなかったが、俺は堅い表情のまま頷いてみせた。嵐山は一瞬心配げに曇った表情を見せたが、すぐに快活な笑顔になっていた。いつでも気持ちを切り替えて前向きに笑えるのが、彼が広報担当部隊の隊長である理由の一つなのだろう。
 嵐山に促されるまま、嵐山隊の訓練室に入る。市街地のマップが作られたそこで、俺はトリガーを握りしめた。頭から血を流してぐったりする弟の姿を脳裏から振り払い、換装すべくトリガーを起動する。
「……トリガー、オン」
 呟いた。俺はトリガーを起動する意志を持って、それを示した。
「ト、トリガーオン。トリガーオン!」
 異変に気づいた嵐山が駆け寄ってくる。それにも構わずに、俺はトリガーを起動させるために意志を示すが、手中のトリガーは自らの役目を忘れてしまったかのごとく沈黙し、俺の呼びかけに応えることはなかった。



 カーテンを閉めきった暗い部屋で、俺は壁に背を預け、膝を抱えて座り込んでいた。フローリングの冷たさが、全身を凍らせているみたいだ。ベッドの上に放り投げられたスマホは充電が切れ、トリガーと一緒に放置されている。
 俺はトリガーを起動できなくなった。発覚した日に簡易検査をしてもらったが、トリオン能力の異常やトリガーの故障ではなく、起動できないのは俺自身に問題があるらしい。専門家曰く、俺自身が自分でも気づいていない心の奥底で、トリガーを使いたくないと思っているのだそうだ。そうなった原因など、説明されなくてもわかる。トリガーをつかって、弟を傷つけてしまったから。
 部屋に籠もってから、もう何日まともに眠っていないのか。微睡むたびに夢の中でメテオラの閃光と爆風が俺を包み、次の瞬間には瓦礫の下敷きになった弟の姿。目が覚めたときには嫌な汗がじっとりと背中を濡らし、フルマラソンを疾走したみたいに喉がカラカラに乾いていた。もはや眠るのが恐ろしくて、横になることさえ避けている。
 ちらりと見たテレビとネットでは、俺の名前も顔も出て、ボーダーの安全管理体制と隊員の責任について取り沙汰されていた。新聞や週刊誌は見ていないが、そちらも同じようなものなのだろう。未だに重体である弟や、病院に泊まりっきりの母にまで言及されていて、それ以降テレビのコンセントを抜いてしまっている。
 弟は、ボーダーに入隊した俺のことを誇らしく思っていたようだった。いつも家の中でトリガーを使って戦う真似をして、俺もたまにごっこあそびに付き合っていた。弟は俺のことをヒーローだと言ってくれた。父を殺した近界民から、自分や母や、街のみんなを守ってくれるのだと。そんな俺のせいで自分の未来が奪われることになるかもしれない事態に追い込まれるなんて想像もしないで、「戦ってるおにいちゃんはかっこいい!」なんて無邪気に笑っていたのだ。
 ボーダーはここ数日無断欠勤、うちの隊員たちも心配しているだろう。嵐山だけが忙しさの合間を縫って毎日のようにうちを訪ねてきた。インターホンを鳴らし、玄関の外から声をかけ、大学の講義の資料や差し入れを置いて帰って行く。
 今日も嵐山は律儀にインターホンを鳴らし、来訪を告げる。
「みょうじ、いるんだろー」
 重い体を引きずるように部屋を出て、無言で玄関に立ち尽くす。子どもを傷つけ、戦うことに怯え、こんな顔を嵐山に見られたくないという妙な自尊心ばかりが残って、俺は毎日、玄関の扉一枚開けることができないでいた。
「みょうじ、俺さっき病院まで行ってきたんだ。久しぶりにおばさんと会ったぞ」
 びくり、肩が揺れた。母と会った嵐山が、彼女とどんな会話をしてきたのか、知りたい気持ちと知りたくない恐怖がせめぎあう。俺は母に対して、まだ謝っていないのだ。
 俺が聞いていることを知ってか知らずか、嵐山は世間話でもするような気軽さで語り続ける。
「おばさんな、」
「……っ、いやだ、聞きたくない、言うな!」
「はは、やっぱり居たんじゃないか」
 俺は臆病者だ。ボーダーに入隊して、B級に上がって、隊員の中でもそこそこのランクになって自惚れていたけれど、今回のことで思い知らされた。俺は聞きたくないもの、見たくないもの、向き合いたくない現実から逃げる、どうしようもない奴だ。それでも嵐山は言葉を止めない。飾りのない彼の声は、俺の築いた壁を易々と通り抜けて響く。
「おばさんな、おまえに申し訳ないって言ってた。弟を怪我させて一番苦しいのはおまえなのに、最初に慰めてやれなかったって」
 ――胸を鷲掴みにされたような気分だった。ひゅ、と喉が鳴る。俺は知らぬ間に息を詰めて、嵐山の言葉に耳を傾けていた。
「リビングの本棚に置いてある文集、読んでほしいっておばさんから。じゃあ、また明日」
 それだけ言い残すと、人気者の友人は去っていった。俺はしばらく呆然と立ち尽くし、それからふらふらと暗いリビングへ向かった。カーテンから透ける薄明かりを頼りに本棚を見れば、アルバムの収められた棚に、弟の学級文集が一冊あった。表紙の年度は昨年のもので、そういえば弟の前年度の担任はマメな人だと母が言っていたきがする。
 ぱらぱらとページを繰ると、出席番号順に収録された作文が一人一ページあった。辿りついた弟の作文、拙いけれど飾らない文章。それを目にして、俺はその場にへたりこんだ。
「……こんなの、卑怯だろ」
 作文のテーマは、俺だった。街を守るために戦う兄はかっこいいと、大規模侵攻で父が死んだときに、兄弟で母を守ることを約束したのだと、溌剌とした文字が、升目いっぱいに綴られていた。母を守るために、家族が住むこの街を守るために戦うという約束を、いまの俺は。
「守れてない、よなあ」
 情けなさに、涙が出る。俺は家族の帰ってこない家で、溢れる涙に暮れた。



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