部誌8 | ナノ


珈琲党と紅茶党



耳鳴りが止まらない。
まるでこめかみを金槌で打ちつけられているかのような頭痛に、眩暈さえ覚える。
頭痛と同時に襲いくる吐き気に口元を押さえた。
周囲の声が雑音にしか聞こえなくて、おれは歪んだ視界のなか、ボーダー本部の屋上へと足を進める。

いつからだろう、頭痛に悩まされるようになったのは。
慢性的な頭痛は偏頭痛と呼ばれるもので、医者に通っても回復には時間がかかるらしい。規則正しい生活や食事に気を遣えば治るらしいが、ボーダーに入っている現状では難しそうに思えた。
おれは正義感に溢れている訳でもないし、B級に辛うじて引っかかっている程度のしがないソロ狙撃手だ。いつ辞めてもよさそうなものだが、最早ボーダー隊員としての生活が普通になってしまっていて、辞めたあとどんな風に生活すればいいのかも忘れてしまった。手持無沙汰になるに違いないので、こうしてだらだらと防衛任務についていたのである。

しかし最近のおれといえば、防衛任務に出るので精一杯で、合同訓練にも長いこと参加していない。このままではいけないと思いつつも、どうにもならないのが現状だ。換装しているため体力的には問題ないが、精神的な疲れがたまると雑音がうるさくてたまらなくて、頭痛がする。誰かの話声ですら耳障りで、今みたいに人気のない場所へと逃げ出してしまう。
ソロのおれが防衛任務に出るときはどこかのチームと組まされることになるので、コミュニケーションが重要なのだとわかっているが、いかんせん頭痛に耐えるために眉間に皺を寄せまくっているせいで、睨まれていると思われがちだ。痛みのせいで集中できず、言葉少なになってしまうのもまずい。狙撃手だから基本アシストメインになるが、信頼されないのはまずいだろう。

ああでも、やっぱり。
頭痛がひどい。

夜風も寒い冬空の下、おれは現世と切り離されたような心地になりながら、静けさの中で眠りについたのだった。




ボーダー本部内は施設が充実している。トリオンという未知の物質によって場を作成すれば天候すら操れるので、屋上に来る人間は稀だった。たまに太陽を求めてやって来るけど、そういうのは訓練室とかでも味わえる。冬のこの寒い時期に屋上に現れる馬鹿は滅多にいない。だから、おれにとってこの場所は天国そのものだったのだ。そこには「誰もいないから」という但し書きがついているからこそ、だったのだが。

太陽が真上にあっても肌寒い中、いつもの頭痛で苦しみ、のろのろと屋上に続く扉を開けると、哀しいかな、そこには先人がいた。
誰だったか、顔に覚えはあるが名前も所属も出てこない。扉を開けた音に驚いたのか、こちらを見てくる少年の目は赤く、もしかして泣いていたのかもしれない。少年を視界に入れた途端、おれも嫌そうな顔をしてしまったが、頭痛のせいなので仕方ないと思って欲しい。
大きくて真っ赤な目を見開き、硬直してしまった彼を、年上のおれは慰めるべきなんだろう。しかしおれは耳鳴りが鳴りやまなくて、ここ最近で一番ひどい頭痛に苦しんでいた。そんな余裕などさらさらなかった。

見なかったことにして立ち去るべきか否か。
そんな疑問の答えは一瞬で出た。立ち去るだけの体力がない。

「ごめん」

それだけを告げると、おれは屋上の扉を潜り抜けた。泣いていたらしい少年の横を通り過ぎ、こっそり隠していた毛布を取り出し、建物の陰で、隠れるようにして包まって寝転がる。
どうかこの場所にいる彼の泣き声が、おれを苦しめませんように。
我ながらひどい願い事だ。ずきりと痛んだのが、頭か胸かなんて分からなかったけれど、ひとまず目を閉じ、おれは雑音を払うべく集中する。

気づけばおれは寝てしまっていて、空を見上げれば夕日は沈みかけていた。
喉が渇いていて、痛みにけほりと空咳が漏れる。いつもであればペットボトルを用意していたのだが、持ってくる余裕もなかったのだから、仕方ない。重い体を起こすと、頭痛はマシになっていた。今回の頭痛は睡眠不足のせいだったのだろうか。気絶するように眠ってしまったから、原因が何なのか分からずじまいだ。
毛布に体を包んだまま座り込んで息を吐くと、少し離れた場所にスポーツドリンクの缶が置いてあった。未開封のそれの下には一枚の紙が敷かれていて、手に取ると「秘密にしてください」の一言。

「ああ」

そういえば、誰かいたっけ。
最早姿形もおぼろげな彼が置いて行ったのだろう。律儀なことだ。見ず知らずのおれにこんな頼みごとをするくらいには切羽詰っていたのか、誰にも言われたくないのか。

「別に、気にしなくていいのに」

誰かに言うつもりもないし、哀しいかな、言う相手もいない。
手の中の紙と缶を見つめ、溜息を一つついて、紙を胸ポケットに突っこんで缶を開ける。せっかくの好意だし、喉の渇きには勝てなかったからだ。
少しぬるくなったスポーツドリンクは、なんだか胃に優しい気がした。

まあ、それで話は終わりだと思っていた。
相手の顔も覚えていないから、本部で彼を見かけても気付けるはずがない。おれは防衛任務以外は基本的には屋上にいるし、誰かとつるむ訳でもない。接点らしい接点もないのだから、会うはずもないのだ。

「え、猫?」

学校終わりに寄ったボーダー本部で、到着早々頭痛の予兆を感じ、いつものように屋上に避難しにきたら、隠していた毛布が猫2匹に占領されていた。ぬくぬくと心地よさそうに寝ているもんだから、起こすに忍びない。

「どこの猫だよお前ら……」

ボーダーに猫なんか連れてきて大丈夫なんだろうか。勝手に本部に入ってくるってのは難しそうだ。猫は入り込んで来たら結構な騒ぎになっていそうだが、そんなこともなかった。いや、おれが気付いてないだけか?
近くにおれの気配を感じているだろうに、逃げようともしないこの猫どもは、飼い猫なんだろう。甘やかされて育ったのか、警戒心てものがなさすぎる。試しに撫でてやれば、気持ちよさそうに鳴くばかりで、毛布から離れる様子はない。やっぱり、誰かが連れてきたんだろうな。

動物は嫌いじゃないし、こんなに気持ちよさそうに寝てるのを邪魔するのも忍びない。えど、おれも寝たいのだ。眠れなくてもいい、とりあえず横になりたい。
どうしようか、迷っていると猫2匹が起き上がった。どこかに行くのかと様子を窺っていると、何故だかおれの膝の上に乗ってくる。おいおいおい。慌てるおれにも構わず膝を占領してくる。恐る恐る1匹を抱き上げると、ぐずりはするが抵抗らしい抵抗はなかった。

そうなればおれはすることはひとつだ。ごめんな、と謝りながら片手で1匹ずつ抱き上げ、足で毛布を整えると、猫を抱いたまま横になる。仰向けになったおれの上で2匹は寝やすい場所を探すようにもぞもぞして体勢を整えた。まじか。そのまま猫ごと毛布を被る。なかなかの重量で苦しいけど、寝れないこともない。
何より自分以外の温もりが心地よくて、気付けばそのまま眠っていた。

次に起きたのは誰かに揺さぶられていたからで、気遣うような揺さぶりに、おれは比較的すんなり目を覚ますことができた。
おれを起こしたのは、おかっぱ頭の少年だった。赤い隊服って、どこの隊だっけ。見覚えのある顔に既視感を覚えて仕方がないが、寝ぼけた頭では正常にものを考えられない。体を起こせば胸に何か重いものが乗っかっている。不機嫌そうな鳴き声は猫のもので、1匹は少年の腕の中で大人しくしているが、もう1匹はおれの胸の上で優雅に伸びをしていた。

「すいません、みょうじさん」

「……? え、おれの名前……?」

「嵐山さんから聞きました。先日といい今日といい、ごめんなさい」

「今日?」

「俺の猫なんです、2匹とも」

こら、アーサーと腕の中から逃げ出し首の上に乗ろうとする猫を叱りつけている姿は慣れた様子で、なるほど彼の猫なのだろう。動物病院に連れて行った帰りに召集がかかってしまって、という彼の言い分を聞きながら、おれは胸の上でまた落ち着いて寝そべってしまったもう1匹の背中を撫でていた。ケージに入れていたはずだが、別の隊員がケージを開けてしまい、そのまま隊室から逃げ出してしまったのだという。
何がどうなって屋上までやってこれたのか謎すぎるが、ようやく見つかった猫2匹に安堵する姿に、なんだか申し訳なさを覚えた。飼い主を探すこともなく一緒に寝てしまった。見つからない間、さぞ気を揉んだことだろう。

「ん、嵐山?」

いまや疎遠となった同期の名前に今更ながら思い至り、彼の着ている隊服が嵐山隊のものだと気付く。
おれの様子に気付いたのか、猫を抱いたままではあるが、かしこまった様子で頭を下げた。慌てておれも猫の体を支えながら体を起こす。

「先日から嵐山隊となった、時枝充です。この間は、その……秘密にしてくれて、ありがとうございます」

「こないだ」

そういえば先日、なんてことも言っていた。何のことかわからず首を傾げ、しばらく考えてそういえば、と思い至る。ここで泣いてた少年が彼なのか。もう会うこともないと思っていた少年に再会してしまい、おれは驚きに目を瞬かせるしかない。

「え、いや、おれこそなんかごめんな? 猫のことといい、こないだといい」

「……みょうじさんがどうして謝るんですか?」

「いや、飼い主も探さず一緒に寝てたし、こないだはおれも頭痛ひどくて……睨んだってよく勘違いされるくらいには目つき悪くなってたと思うし、慰めもせず放置しちゃったし」

痛みに耐えるのが日常的になってしまって、おれの眉間の皺は最早デフォルトだ。今だって皺を寄せてしまっていて、せめて今だけはと眉間に指を置いて伸ばしてみるが、無駄に終わった。慰めるように猫が鳴いて、有り難いけどちょっと虚しい。

「気にしないでください、大丈夫です。その、こないだのは忘れて貰えるほうがありがたい、ですし」

「あ、うん、ごめん」

男だもんな、そうだよな。おれだってそんなとこを見られるのはいやだ。
思わず頷いていると、あの、と少年――時枝くんに声をかけられた。

「ケージ、隊室にあるので……申し訳ないんですが、一緒に来てもらえませんか」

「え?」

「その、とみおが、みょうじさんから離れそうにないので……」

申し訳なさそうな顔で言われて、腕の中を見下ろす。とみおというらしい猫は、おれの腕の中で腹を出して寝こけている。ちょっと揺すっても逃げ出す気配もなく、下ろそうとすれば前足で顔を押された。肉球気持ちいいな……。

「とみおは結構好き嫌い激しいし神経質なとこが、あるはずなんですけど」

え、どこに?
声に出してしまったほどにはだらしなくくつろいでいる。懐かれて悪い気はしないが、それにしても大丈夫なのか本当に心配になるぞ、とみおよ。
ここで無理に下ろせば機嫌を悪くしてまたどこかに逃げ出してしまいそうなので、という時枝くんのお願いを、おれは了承した。夕日はすでに落ちて、辺りも暗い。その中でまた猫が逃げ出したとなれば、大変どころの話じゃないはずだ。
おれは本部であまり評判がいい方じゃない。時枝くんに絡んでるとイチャモンつけられそうだが、猫を抱いてれば大丈夫だろう。きっと。

片腕で猫を抱き、毛布をぐちゃぐちゃに畳んでいつものところに隠す。その様子を見ていた時枝くんに、そうだ、と声をかけた。

「ここに毛布隠してること、内緒にしといてな」

ボーダー本部の屋上には基本的に誰も来ないし、何もない。
はっきりと言われた訳でもないし、看板らしいものもなかったけど、多分立ち入り禁止だろう場所に、おれは毛布や毛布を隠す棚、毛布が濡れないようにとビニール袋やらなんやら、色々持ち込んでいる。ばれたら絶対に怒られるやつだけど、ソロのおれには隊室なんてものがないんだし許して欲しい。仮眠室を私物化する訳には行かないし、救護室は常勤医が口うるさくて行く気になれない。おれの逃げ場所は、ここにしかないのだ。

「交換条件、ですね」

「そうそう。頼むな」

「はい」

よかった。
安堵の息を吐いて、屋上をあとにする。訪れた嵐山隊の隊室で嵐山に絡まれたが、そう悪いもんでもなかった。


それからというもの、屋上に時枝くんが訪れるようになった。
頻繁に来る訳ではない。本部にいるときは大体屋上にいるおれだが、常駐している訳でもない。防衛任務がない以外で本部には寄り付かないので、いい逃げ場所になっているのだろう。おれが目を覚ましたときにそこにいるときもあれば、時枝くんがいるときにおれが鉢合わせるときもあった。
それは大概時枝くんが泣いてるときや苦しそうなときで、鉢合わせたおれは気まずくて仕方がないのだが、時枝くんは気にした様子もない。「一度みょうじさんに見られているから」という言い分は、何かがおかしくないだろうか。そういうもんなのか?

どう慰めればいいのか分からないおれは、とりあえず時枝くんに飲み物――ロイヤルミルクティーが好きらしい――を奢ることにしている。つまり、その場から逃げ出してる訳なんだけど。情けないと言うなかれ、この対応であながち間違っていないらしい。本人から聞いたから間違いない。屋上の扉を開けて、時枝くんがいれば飲み物を買いにUターンし、目覚めて時枝くんがいれば起き上がって飲み物を買いに行く。その間に時枝くんは自分を落ち着かせている訳だ。
嵐山隊は広報もこなすらしいし、おれには判らないストレスとか、なんかこう色々あるんだろう。男の子だもんな、意地とか見栄が大事な時もある。嵐山に相談しにくいこともあるのかもしれない。おれごときでは頼りにならないことは判っているので、たまに疲れた顔をしていたりした時は、毛布を進呈することもある。

時枝くんは、泣くときも静かだ。頭痛で苦しむおれにとっては素晴らしい人物だけど、たまには頼ってくれてもいいのにな、なんて最近は思ったりもする。
まあ、おれみたいなB級ギリギリの人間に頼るはずもないか。そもそも俺は偏頭痛もちで、他人に構っていられないことがよくある。時枝くんが屋上に来た時に、毛布に包まったまま、蹲って動けないことがそれなりの頻度であるのだ。そういう時、時枝くんは自分も辛いだろうに、おれの背中を撫でたりして宥めてくれる。後輩にそんなことをさせている辞典で、おれが頼れる人間でないことは確かだ。一度起きたら膝枕されていたこともあったくらいだし。あれはびっくりした。

このままでは、多分駄目だ。情けないにも程がある。こう、もうちょっとなんとかならないだろうか。
そう考えてもおれのできることなんて限られていて。学年も違えば学校も違う。ボーダーの顔としてテレビ出演なんかもしちゃう時枝くんは、おれより立派な、A級隊員で。広報も大変だろうに、防衛任務までこなしているんだから頭が下がる。そんな彼におれがしてあげられることなんて、何もないんだろうけど。
せめて少しでも頼りがいのある先輩になろうと、思って、まともに合同練習や個人練習に出ることにした。そこで成績残したら、少しはマシになるんじゃないかな、と。

「お、ようやく出てきたのか、みょうじさん」

「当真」

久しぶりの合同練習は知らない人間ばっかりで、戸惑っていればようやく見知った顔がいて息を吐く。A級でも上位に食い込んできた当真はおれの弟弟子だが、おれより知名度も高ければテクニックもすごい。

「頭痛がひどいからここには来たくないって言ってなかった?」

「たまには出てみようかなって」

「偏頭痛持ちのひきこもり狙撃手って有名だったんだけど、俺の中で」

「うるさい」

当真が有名なもんだから、周囲からの視線が痛い。ざわめきがおれを取り囲んで、こめかみの少し後ろがぴりりと痛んだ。思わず眉を寄せ、目を閉じたおれの肩を当真が軽く叩いた。

「まじで大丈夫かよ? 免除されてるんだし、止めといたら?」

「そういう訳にもいかないだろ。最低でも月1は出ろって言われてるし……」

「顔色やべえけど」

「うん」

偏頭痛がひどいせいで、おれは合同訓練を免除されている。その代わり結構な頻度で防衛任務が入るのは、もう仕方のないことだと諦めている。おれは一応は東さんの弟子で、東さんの口利きでそういうことにしてもらったのだ。
狙撃手になりたての頃はそうでもなかったけど、続けるにつれ頭痛に苦しむようになった。狙撃手としてはそれなりの腕だと本部には認めて貰えているらしいけど、実際はどうなのか分からない。狙撃手には明確なランク戦はないし、おれは合同訓練にも出なくなってしまったから。

何かに集中すれば、それだけあとで頭痛に苦しむことになる。サイドエフェクトの副作用らしいけど、よくわからなくてちゃんと聞いてない。サイドエフェクト(副作用)の副作用って、へんなダジャレみたいだなーと思ってたら説明が終わってしまった。
まあつまり、命中度が上がる代わりに頭痛で苦しむことになる。そんな体質なもんだから、防衛任務だけで、他のことは免除してもらっている。昔はB級としてチームも組んでたけど、チームメイトが市外に家族で引っ越してしまって、解散になった。頭痛持ちで常時不機嫌に見えるらしいおれは他の隊に馴染める気もせず、B級のままソロで細々とやってきたって訳だ。

最近ではサイドエフェクト以外でも頭痛に悩まされるようになって、今では立派な偏頭痛もちだ。今は精神的な疲労はないはずだけど、予兆が出てきている感じがする。やばいかな、と思っていたら東さんの声が聞こえた。訓練開始だ。訓練について説明しながらおれの姿を認めたような素振りをしていたので、軽く頭を下げておく。

「無茶しない方がいいんじゃねえ? 東さんも心配そうにしてるけど」

「うん」

「いや、うんじゃなくて」

「とりあえず一回撃ってみてから考える」

ちょうど当真の隣が空いてたので、ブースに入る。狭い空間は変な圧迫感を覚えて嫌だ。愛用のイーグレットを抱え、構える。

「はじめ!」

感覚が研ぎ澄まされる。
“視える”。
何もかも、すべて。撃った弾丸の、その先まで、そのすべて。
あらゆるものを察知できるほど鋭敏になって――そこから先の、記憶はなかった。


*****


そのひとは、いつも一人だった。
誰も彼に話しかけようとしないし、誰かに彼が話しかけることもない。

不思議だった。孤高そのもののように思えた。不機嫌そうに、でも誰を気にするでもなく、ただそこに在る名前も知らないそのひとに、憧れた。

「みょうじじゃないか」

時枝がその背中を見つめるしかできないひとを見て、嵐山がそう零した。

「みょうじさん、ですか?」

「ああ。いい奴なんだが、勘違いされやすくてな」

それに、と嵐山は続けた。人を避けているきらいがあるから、声をかけづらいのだと。
嵐山がそんなことを言うのは意外で思わず視線を嵐山に向ければ、苦笑していた。

「まあ、あいつがああなるのも、仕方がないのかもしれないが」

呆れたような笑みを浮かべ、嵐山が行くぞ、とみょうじが進んだ先とは別の方向に歩き出す。つられるようにその後ろを追いながら、横目でみょうじの背中を見つめる。

彼のように、強くなれたら。
こんな風に思い悩むことも、ないのだろうか。

時枝充にとって、嵐山隊の一員であることは、まだいささか荷が重いように感じていた。
入りたてということもある。嵐山という人間に、まだ慣れていないからというのもある。けれど一番の理由は、広報としてテレビ出演させられることにある。時枝自身愛想がいいとは言えないことを自覚している。どうして自分が選ばれたのか分からないのだ。
自分の戦い方は嵐山に似ていて、彼のフォローをすることも苦ではない。防衛任務に置いて、文句など出てこない。時枝にとって、広報活動だけが、違和感を覚える仕事だった。

テレビに出れば、クラスメイトたちがはやし立てる。どうしてあいつなんかがと、僻みにも似た囁き声が、本部にいれば聞こえてくる。けれどあの快活な嵐山に、こんな悩みや、広報活動したくないなんて、言えるはずもなくて――

屋上でみょうじと出会ったのは、偶然だった。
したくもない仕事のせいで辛く当たられて、言い返せない自分が悔しかった。けれど弱みを見せたくなんかなくて、適当にやり過ごした振りで、誰もいないだろう屋上に逃げてきたのだ。

歯を食いしばり、声を漏らさないように涙を零していると、屋上の扉が開いた。
入隊日に屋上は基本的に出入り禁止だと言われていたために、誰も来ないと思っていたのにと振り返れば、そこには顔色の悪いみょうじがいたのだ。驚きに涙を隠すことも忘れていれば、みょうじは「ごめん」と一言告げると、時枝の前を通りすぎ、本部の備品か何かだと思っていた鉄製の棚から毛布を引きずりだし、包まって眠ってしまった。毛布の隙間から見えた寝顔は苦しそうで。思わず近寄った時枝の足音に反応したのか、「うるさい」と唸るように譫言を呟く。

ああ。
完璧のように見えていたみょうじの弱点を見たと思った。
孤高であると感じた彼は、孤高にならざるを得なかったのだと、理解した。

その時時枝が感じたものは、失望だったのかもしれない。安堵、だったのかもしれない。
完璧なものなどないのだと、誰しもに弱点はあるのだと、思った。
苦しそうに眠るみょうじだって、こんな風に痛みと戦いながらでもボーダー隊員として頑張っている。その苦しみは時枝には知り得ないが、この様子だと相当苦しいものに違いない。

もう少し、頑張ってみようと思えた。
目の前のこの人だって、苦しみながらも戦っている。同じように、もう少し。頑張ってみようと、思えた。

なるべく音を立てないように移動する。後で飲もうと思っていた、嵐山から貰ったスポーツドリンクを鞄から取り出し、少し離れた場所に置いて、その場から立ち去った。メモを挟んだのは、泣いたことを誰にも知られたくなかったからだし、もしかしたら彼との接点になれば、と思ったからだった。

けれど、その後彼からの接触はなかった。変な噂も立っていないから、頼んだ通り秘密にしてくれたのだろう。
時枝とみょうじに、接点なんてない。もしかしたら嵐山が接点足りえたかもしれないが、みょうじからの接触も、嵐山から接触することもなかった。なんとなくそれに物足りなさを覚えながら、日々は過ぎていった。

次に彼と再会したのは、愛猫の脱走が原因だった。
動物病院に連れて行った帰りに緊急招集がかかり、本部に連れて行かざるを得ない状況になってしまった。嵐山や忍田本部長に許可を得たし、隊室で留守番をさせておけば大丈夫だと、そう思ったのに――任務を終えて隊室に戻れば、一足先に本部に戻っていたらしい佐鳥が、猫を逃がしてしまったと涙目で訴えかけてきた。
時枝の愛猫は気難しく、好き嫌いが激しい。言っては何だが、佐鳥は愛猫にとって好ましくない人物像そのものだ。どうしてケージを開けたんだと怒鳴りつけたい気分だったが、猫の存在について佐鳥に説明していなかった自分も悪かったし、そんなことを言っている場合でもなかった。佐鳥や嵐山、綾辻の手を借りて愛猫2匹を探す。

どれだけ探し回っても聞きこんでも見つからず、もしかしてと一縷の希望を抱きながら屋上の扉を開けば、そこには眠るみょうじと、愛猫2匹がいた。あんなに好き嫌いが激しい2匹が、穏やかな様子でみょうじの胸の上で寝ているなんて信じられない。嵐山に猫が見つかったと一報を入れながら、そっとみょうじに近づく。
いつもであれば時枝の姿を見れば近寄ってくる2匹は、時枝を視界に収めても動きもせず、ちらりとこちらに視線を寄越すだけだった。そのことに衝撃を覚えながら足を進めれば、そこには穏やかな寝顔のみょうじがいて。先日見たのとは全然違う寝顔に、確かにこれは動けないなと思わず納得してしまった。このまま寝かせてやりたい気もしたが、辺りももう暗くなってきている。このまま寝ていては風邪を引くだろうからと、申し訳ない気持ちになりながらも、みょうじを揺り起した。

目覚めたみょうじは不機嫌そうにしていたけれど、それがデフォルトなのだと、本人の口から聞けたときには驚いた。頭痛はどうやら頻繁に起きているらしく、人の声や雑音のせいで悪化するからと、よくここで寝ていることも知った。
初めてまともに話すみょうじは、時枝の想像とは全く異なっていた。優しいし、いいひとだ。孤高そのもののように思えていたのに、全然違う。けれど、悪くはなかった。むしろ好ましかった。時枝の願い事を2つ返事で引き受けてくれるくらいには、イイヒトだ。
猫を抱いた状態で嵐山隊の隊室まで行く姿は注目を集めていたが、ちょいちょいちょっかいを出す猫のせいか、気にした様子がないのに安心する。足を運んだ先にいた嵐山に絡まれていたが、二人とも楽しそうで――なんだか、もやもやした。何故かなんて、判らなかったけれど。


いつもいるように錯覚していたが、みょうじは常に屋上にいる訳ではないらしい。それはそうだ。みょうじにも学校があるし、家もある。本部に住んでいる訳ではないのだ。
これ幸いと、時枝は屋上に通うようになった。屋上は一人に慣れる場所でもあったし、みょうじにあえる場所でもあった。悔しさに涙を流しているとき、みょうじはいつも紅茶を差し入れしてくれる。慰めるのが苦手なのだと、その表情が語っていた。

時枝が泣いていることに気付いたとき、みょうじは何も言わず、ミルクティーを差し出してくれる。一番初めに色んなジュースを差し入れしてくれ、その時の気分でミルクティーを選んだら、それからずっと同じ銘柄のままだ。そしてみょうじが飲むのは毎回ブラックコーヒーだった。

屋上でみょうじと過ごすことは、楽しかった。
お互いお喋りという訳でもないので、沈黙ばかりのときもある。けれど嫌じゃなかった。穏やかな時間だった。みょうじが頭痛で苦しんでいるときもあって、その時は背中を撫でてあげることしかできないけど、多少はマシになるようだった。時枝と二人でいるとき、みょうじはよく眠るようにもなった。気付けば眠っていることが増えた。傍にいることを許されたようで、なんだか誇らしかった。

隣に座っていたみょうじがいつのまにか眠っていて、そのまま倒れこんできたこともあった。膝枕をする形になって驚いたけれど、それだけ時枝の存在に慣れたという証拠のように思えた。誰にも懐かない猫を懐かせた時を思い出す。

「充? ここか?」

その状態で嵐山が屋上の扉を開けたときですら、みょうじは目覚めなかった。そのことに驚きながらも、口元に人差し指を当てて静かにするように頼めば、嵐山は心得たと口元を手のひらで覆った。

「みょうじと仲良かったんだな」

「はい……多分」

「こんな風に穏やかな寝顔は久しぶりに見た」

嵐山がその頭を撫でても、やはりみょうじは起きなかった。連絡事項を告げ、屋上から嵐山が立ち去っても。この眠りと与えているのが自分だということが、やはり時枝には特別誇らしいことのように思えた。


だから。
みょうじが合同訓練で倒れたとき、救護室に駆けつけたのはうぬぼれではないと思いたかった。事実、うぬぼれなんかではなかった。救護室で眠るみょうじは耳を塞いだ状態でベッドに蹲っていた。苦しげに唸る様子は、初めてあった時のようで。

「みょうじさん」

宥めるように何度も呼びかけ、その背中を撫でる。大丈夫です、ここにいます。大丈夫ですよ。名前を呼んで、呼びかける度に、みょうじの体から力が抜けていく。耳を塞いでいた手から力が抜けたのを見計らい、その手を握って再度呼びかけると、みょうじは落ち着いたように見えた。目の端に残る涙を拭ってやりながら人払いを頼むと、付き添っていたらしい当真が率先して動いてくれた。

「すげえな、どんな魔法を使ったんだ?」

みょうじと時枝、当真の3人だけになった救護室で、当真が声を潜めてそう呟いた。誰かのそばで落ち着くような人間じゃなかったのに、と。感嘆の溜息は、時枝にとっても誇らしいものだ。

「さあ」

その時自分の顔に笑みが浮かんでいたことなど、時枝は気付かなかった。
この後、「頼られる先輩になりたかった」と自分のために無茶をしたというみょうじにある感情を自覚することになるのも、この時の時枝は気付かないのだった。



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