初夢
男の指だ、武骨なものに決まってる。
更に言えば、バレーを始めてから突き指やらなんやらで一般の人間より多少太くなっている指だ。その指でキラキラと輝く、プラチナのシンプルなリング。美しい輝きに絶句していると、目の前の男は呆れた顔で言った。
「でぇ? 誰の愛が足りないってぇ? トールくんよぉ」
愛が足りない。
それが、及川徹の口癖だった。
本当に愛を感じていなかった訳ではなかった。今の時代、文明の利器がある。電話やLlNE、Scypeなんて便利なものが、二人の距離をないもののように演出した。
けれど結局は演出でしかなくて、ビデオ通話でお互いの顔を観ることができても、熱まで感じることはできない。大学生の恋人―-みょうじなまえは、その見目のよさからファッション誌のモデルのバイトをしている。時間に融通がきくはずのそこらの大学生より、よっぽど忙しい身の上だった。及川自身も受験生という身の上であることもあり、以前よりずっと、お互いのための時間は少なくなっていた。
抱き合う熱の心地よさを知ってしまっていた及川は、寂しくて仕方なかったのだ。自分は宮城、恋人は東京。新幹線で二時間ほどの距離は、それでもやはり、頻繁に会うには遠かった。お互い学生であるため、金銭的な理由から何度も通うことは困難で。遠距離恋愛の難しさを痛感しながら、寂しさを誤魔化すために、「愛が足りない」なんて憎まれ口を叩いてしまう。
愛が足りないなんて、嘘に決まってる。疲れているのが画面越しからでも伝わるのに、それでも及川のために時間を取ってくれる。綺麗好きなはずの恋人の部屋が散らかっていて、それが彼の忙しさを伝えると同時に「片付ける誰かがいない」と証明してくれている。及川の恋人は誠実で、信頼に足るひとだ。その事実をもっと有り難く思うべきだと、わかっているのに。
バイトがあるからクリスマスには戻れない、と話には聞いていた。だから友人たちと楽しいクリスマスを過ごしたけれど、やっぱり、とても寂しかった。隣にいて欲しかった。
年末年始も危ないかもしれない、という言葉に、及川は力なく頷くことしかできなかった。バイトで忙しかった分、積み重なった大学の授業のレポートやゼミで慌ただしく暇を作れなさそうだ、と。浮気をするような性格ではないし、他に好きな人がいればすぐに言ってくれるような誠実さを持っているひとだ。無精ひげの生えた疲れた顔に、何を言えるだろう。
「ほんとうに、なまえくんは愛が足りないねえ」
そう笑って、仕方ないね、とその場では言えたのだ。
夢を見た。多分、遅い初夢だった。
白いシーツの上で、及川は恋人の目覚めを待っていた。素肌の感触が心地よかった。指先を握れば、握り返すような反応をくれるのが嬉しかった。しばらく見つめていると、日の光にか眩しそうに眉を顰めながら身じろいだなまえが、及川を瞳に映し、柔らかく微笑んでくれるのだ――もうそれで、限界だった。
なまえが足りない。足りないのだ。もう何か月あっていないだろう? 計算するのも億劫なくらいの日数だ。夏の長期休暇だって、なんだかんだ帰省は短かった。その分いちゃいちゃしてチャージしたはしたけれど、足りるはずがない。及川はいつも、なまえに飢えている。
なまえが好きだ。どうしようもなく。きっとなまえより及川の方が惚れぬいていて、この枯渇した苦しい状態なんて理解していないに違いない。
「もうやだ、つらい」
泣き言が漏れたのは、初夢を見た翌日のことだった。元気にしてた? 風邪引いてない? なんて定型文なやりとりをして、近況をScypeで話し合っていた。
不意に、夢のことを思い出した。触れ合った肌から伝わる体温、耳に届く呼吸音、及川を映す瞳、愛おしげな微笑み。画面越しではない、リアルなみょうじなまえという存在に、触れたかった。
「なんで平気なの、俺全然平気じゃない……あいたいよ」
顔を伏せて泣き言を漏らす及川にかけられる言葉はなかった。なまえの顔も見れず、震える唇でもう無理、と告げた。
「会いた過ぎて顔を見る方がつらい」
「徹」
「やだ、呼ばないで。なんで平気なの? 苦しくないの? 俺に会いたくないの? 電話とかメールとかScypeなんかじゃ足りない。なまえくんに会いたい。足りない。全然足りない。苦しくて何も手がつかないのに、なまえくんはそうじゃないの? 俺のことそんなに好きじゃないの? やっぱり」
「徹!」
「やっぱりなまえくんは、俺がなまえくんのこと好きだって思う気持ちほど、俺のこと好きじゃないんだね」
「話聞けよ、徹――」
「ごめん、今日は切るね」
ブツン、と通話を終了させて、及川は机の上に顔を伏せた。ゴンゴンと額を押し付けて、肺の中の空気を出し切るように、息を吐く。
「あー、もう、やっちゃった」
我慢してたのになあ。
机の上のスマホが物凄い勢いで震えている。電話やメール、LlNE通知がひっきりなしにきているが、出る勇気なんか微塵もない。
愛が足りないね、なんて口にしてはいたが、我儘らしい我儘は多分、言ったことがない。冗談でいろんな要望を告げて、その中に本音を隠すぐらい。だから及川の希望が叶えられるかはなまえの気まぐれ次第だった。我儘を言って嫌われるのが怖くて、冗談の中でしか言えなくなってしまった。
ほんとうは、ずっと。逢いたくてたまらなかった。寂しくて仕方がなかった。バイトや大学が忙しいのもわかっている。及川自身が受験生ということもあるし、春高の予選もあった。東京に何度も行けるほどの財力もない。
我儘を言っても、叶うはずのない願いだと、わかっているのだ。でも、それでも。
「あいたい」
ツン、と鼻の奥が痛い。熱くなる目頭に逆らわず、及川はひとり、机に伏せたまま涙を零した。
明日。明日、謝ろう。ちょっと参ってたんだって、謝れば許してくれるだろうか。
「もうだめなのかなあ」
思わず漏れた言葉を否定するように首を振る。
いつの間にか、携帯は震えもせず静かになっていた。
机に顔を伏せたままうっかり寝入ってしまった及川は、鼻水をずびずび啜りながら布団に潜り込んでいた。目覚めたばかりのころは変な体勢で寝たからか体がバッキバキで、動くのも一苦労だった。熱いシャワーを浴びて人心地ついたものの、もうすぐセンター試験だというのに風邪を引くわけにもいかない。早々に風邪薬を飲んで、今である。
携帯は変わらず、動く気配はない。昨夜見る勇気もなかった通知の内容は、電話に出ろだとか話がしたいとか、そんなものばかりで。
『おれだってお前にあいたいよ』
催促のメッセージの中、一度だけ送られたそのメッセージが、涙が出るくらい嬉しいのに。今更どう反応すればいいのかわからなくて、唸り声しか出せないでいた。太陽が昇って久しい。昼も過ぎた時間なのにメッセージをくれないということは、及川の行動に呆れてしまったのだろうか。怒ってしまったのだろうか。
及川から行動すべきだとわかっていても、どんな反応が返ってくるのかわからず、恐れで返信できない。このまま自然消滅も嫌だし、別れを告げられるのも嫌だ。
めんどくさい人間であることはなまえにバレてはいるものの、それでもなまえは付き合ってくれた。そんななまえに呆れられたくないと、及川はこれでも抑制していたのだ。抑制していた分、積りに積もって、こんな現状を迎えているあたりが情けないところだ。
「もお、どうしよう……」
はあ、と溜息をついて額に携帯を押し当てれば、スパン、と勢いよく障子が開く音がした。
「んだよ、起きてんじゃねえか」
溜息つきたいのはこっちだっての、という声に聴き覚えがありすぎて、及川は布団から顔を出した。そこにいるのは、紛れもなく、みょうじなまえそのひとで――
「わあああああっ!?」
目があった瞬間驚きすぎて再度布団の中に引っ込むと、障子の閉じる音がして、こちらに近づいてくる足音もして、なまえの呼吸音すら、聞こえそうで。
「おい」
布団の上から揺すられても反応できない。混乱しながらも包まる布団を手放さない及川に舌打ちし、なまえは布団の上から及川に覆いかぶさった。
「早く顔見せろよ、徹」
間近に聞こえる声にびくんと体が震えた。及川の行動を待つつもりがないらしいなまえは、ずぼりと布団の下に手を突っ込むと、布団ごと及川の体を抱えてひっくり返した。
「ぶっ、ブッサイク」
及川は身長も体重もなまえよりある。力の差だってあったのだが、簡単にひっくり返されてしまって唖然としてしまう。少し見ない間に、なまえの体はかつてとは異なり、みっしりとした筋肉に覆われていた。敷布団の上に座り、布団ごと及川を膝に乗せてもびくともしない。Scypeのときは上半身ばかり映っていたし、顔を見てしまうし、冬なので着込んでいるからわからなかったようだが、これは一体。
「え、なまえくん……?」
「他に誰に見えるってんだ」
「だ、だって……」
「だってもクソもあるか。あんな切り方しやがって」
気になって来ちゃっただろ、なんて冗談めかして言うから、及川は思わずなまえに抱きついていた。隙間もなく抱きつくには布団が邪魔だ。それでも首に回した腕を解く気になれないでいれば、なまえは器用に及川から布団を剥ぎ取り、抱き返してくれた。その腕の強さや温もりが夢ではなく現実だと伝えてくれる。
「なまえくん、なまえくん、なまえくん……っ!」
「ハイハイ」
「なんで、こんな……っうえ」
「泣いてんの? まじ? 顔見せろほら」
「泣いてないし! 及川さん泣いてないから!」
「いいからほら」
肩を優しく叩かれて、少しぐずったあと体を離す。離れる熱に名残惜しさを感じたが、すぐにそれも消えた。愛おしいのだと隠しもしない笑みを浮かべたなまえがそこにいたからだ。
「お前、ほんとおれのことが好きだなあ」
「当たり前じゃん……っ」
頬に触れる手が、及川を引き寄せる。乞われるままに顔を寄せれば、唇が落ちてくる。顔中に触れた唇が及川のそれに触れたとき、体ごと心が揺れた。
好きだ。
こんなにも、どうしようもないくらいに。
なまえが、好きだ。
は、と吐き出した息が熱い。久しぶりのキスは、どうしようもなく心地よくてとろけそうだった。力の抜けた体をなまえに預けていると、なまえは及川の腰に片手を置き、もう片方の手は持ってきたらしい鞄の中を漁っていた。肩口に寄せた頬から振動が伝わる。それすら2人でいるときにしか感じられないものだと思えば、感動がいや増す。
「おれだって、一応気遣ってはいたんだぜ?」
あれ、どこやったっけ、なんて言葉を零しながら、なまえは及川に語りかける。
「お前も春高あったし、何より受験だし。近くにいたら触らずにはいられないからって逢うの我慢したりしてたんだからな」
「え」
「お、あったあった」
思わぬ言葉に体を起こせば、なまえが及川の左手を取った。薬指に伝わる冷たい感触に、まさか、と目を見開く。
「でぇ? 誰の愛が足りないってぇ? トールくんよぉ」
呆れた顔で、左手の甲になまえがキスをする。その左手の薬指には、銀色に輝く指輪がひとつ。そして――及川の左手の薬指にも、同じものが。
「言っとくがおれの愛はべらぼうに重いぞ」
覚悟しろよ、とにやりと笑うなまえに、及川は再度、惚れ直したのだった。
「お前、東京の大学うけるだろ?」
新幹線の駅のホームで、まるで決定事項のように問いかけてくるから、及川はこくりと頷いていた。
「一応推薦はいろんなとこから貰ってたけど、勉強したいこともあるし、それに」
傍に行きたかったから、という言葉まで口に出すことはなかったが、もちろんなまえには伝わっている。そうだよな、と頷くなまえは、鞄からA4のファイルを取り出して及川に渡した。
「それ。それがバイトが忙しい理由」
中の書類を取り出すと、部屋の物件情報だった。様々は場所がピックアップされていて、どれも独り暮らしには不向きな広さだ。
「これ……?」
「大学どこ受けるのかわかんねえから適当に探しといた。合格決まったらどこにするか決めろよ」
「え、それって」
じわじわと熱くなる顔に、なまえの手のひらが触れる。にっと笑ったなまえは、じゃあなと新幹線に飛び乗った。車内から手を振ってくれたなまえに振り返し、なまえの乗る新幹線を見送りながら、及川はしばらくそこから動き出せなかった。
つまりは引っ越し代金とか指輪とか、及川のために忙しくしていた訳で。
ホームに置いてきぼりを食らいながらも、及川の心は満たされていた。
初夢は叶うという逸話も、あながち迷信ではないのかもしれない。
prev / next