部誌7 | ナノ


その胸に抱く星の名は



例えば、運命があるとして。
それはどうしようもなく無情に、僕らを引き離すものなのだと思っていた。
君は強くて、ぼくは弱かった。
ぼくは強くなろうと無理をして、結局すべてが駄目になったと、そう思った。
心は折れてしまって、いつしか君の傍にいるのが苦痛になった。
君は悪くない。悪いのは、間違いなくぼくだった。
相談もせず君のもとを離れたけど、辛さは変わらず、ぼくを苛んだ。
これは罰なのだと、そう思った。
君がいなきゃ呼吸すらうまくできないことに、離れてから気付いたんだよ。




冬のHLはとてもよく冷える。
なまえ・みょうじはマフラーに鼻を埋めながら、夜空を見上げた。そこに広がるのは霧にまみれた灰色の空だ。星なんか見えるはずもない。それでもなまえは、空を見上げることを日課にしていた。ロマンチストにも程がある。この空は彼に続いていると、そう思えば見上げずにいられなかったのだ。
いつかの夜を思い出す。ベッドの上で2人、窓の外、カーテンの隙間から見えた星のこと。
あの星の名は、なんだったっけ。

「もう、思い出せなくなっちゃったな……」

彼と別れて、どれほどの時間が経過しただろうか。
置き手紙一つで彼のもとから去った自分のことを、どう思っているだろう。憎んでいるだろうか。それともこんな薄情な人間のことなんか、忘れてしまった?
できるなら、憎んでいてほしい。今でも好かれているなんて、そんな傲慢なことは考えない。けれど、できるなら、忘れ去られるよりは、憎んでいてほしかった。彼の記憶に、刻み込んでいて欲しかった。けれどこれも、傲慢なのだろう。自嘲し、冷めつつあるコーヒーのカップを両手で包み込む。

死と隣り合わせの街、HLに来て、もう半年ほどになる。紐育がHLになって3年。渡航制限がかけられているために、そう簡単に来れない街で生きようと決めたのは、1年ほど前。HLがどんな街なのか、ようやく世界で認知されはじめた頃だった。異界人と共存する街は、驚くほどに命が軽い。だからこそ、HLで暮らそうと決めた。
彼から離れても、彼を忘れることなんかできなかった。誰かの手をとることもできず、でも独りで生きていくには辛すぎた。幸福な記憶は目を閉じればすぐそこにあり、現実とのギャップに、いつも眩暈がしそうだった。

忘れられれば楽だったのかもしれない。けれど何かにつけて彼と結び付けてしまうくらいには、彼を深く愛していたのだ。愛して、いるのだ。今も変わらず、彼だけを。思い出だけをよすがにして、なまえはこの街で生きている。
彼の家族からの忠告ひとつで別れを決意したなまえの愛が、軽いものだったと彼は思うだろうか。けれどあの時は、ひとつの世界が終わった、そんな心地さえしていたのだ。彼は貴族で、なまえは庶民だった。彼は男で、なまえも男だった。世間の同性カップルよりも、障害は多かった。
愛さえあれば、なんとかなるとなまえは思っていた。けれど突きつけられる現実は無情だった。いつしか彼となまえはすれ違い、なまえは離れる決意をした。

死ぬ勇気もなければ、彼に会いに行く勇気もない。一度だけ勇気を振り絞って彼と暮らした街を訪れたが、彼はもうそこにはいなかった。貴族の三男坊だという彼の行先を、恋人でもない人間が知ることなんかできず、なまえは失意の中でHLで生きることを決めた。
命が軽く、死と隣り合わせの街、HL。自分で命を絶つ勇気がなくても、いつか何かの拍子で、殺されるかもしれない街。平和な町で無為に生きるよりは、よっぽどいいと思ったのだ。

幸か不幸かなまえはまだ生きていて、明るくもない夜空を見上げている。
死ぬつもりで訪れた街で仕事を得、こうして生活できているから、人生ってやつは未知数だった。餓死する根性もなくて、働いて糧を得て、緩慢に生きている。
死ぬのは怖い。痛いのも苦しいのも嫌いだ。でもこんな世界、生きていても仕方がない。そんな矛盾を抱えながら生きてきた。住めば都とはよく言ったもので、死と暴力にまみれた街でも、なまえは快適に暮らせている。HLに来る前よりは、生きやすかった。

爆音。
HLでは日常的なものであるそれは、深夜であっても関係ない。静かな夜の方が稀なのだ。なまえがとうに慣れ親しんだその音は、思ったより近くで聞こえた。
もしかして、と思い、ベランダから身を乗り出す。もしかして、今日がなまえの最期なのだろうか。それも悪くないかもしれない。近づいてくる爆音に、胸が高鳴る。バクバクとうるさい心臓は、なまえの緊張を示していた。喜んでいるのか、恐れているのか。自分でも判らない。いつ死ぬかもわからない毎日だった。あわやという時もあった。思わずとった防御反応に、体は死にたくないのだなと思った。
死ぬ覚悟なんてない。そんなものがあればなまえはとっくにこの世からオサラバしている。

土煙。音は更になまえに近づく。
段々と近づいてくるそれらに眉をしかめ、咳をこぼす。死がそこまで迫っている気がして、なまえの瞳から涙が零れた。死にたいのか、死にたくないのか。判らないけど、逃げる気力もなくて。恐怖でか、ベランダで立ちすくんでしまう。
頭の片隅に、愛しい彼が浮かんだ。できれば最期に、彼に会いたいと思った。もう会う術なんかないのに。どこにいるのかも、わからないのに。馬鹿みたいに、会いたいと思ってしまう。
だって、ねえ。やっぱりぼくは、君が好きなんだ。

「――クラウス」

最愛のなまえを口にした瞬間に、目の前を異形が通り過ぎた。巨大なそれは粉塵と騒音ともに、なまえのアパルトマン近くの大通りに倒れ伏す。その巨体の上にいるのは。

「……なまえ?」

目があった。名前を呼ばれた気がした。それが夢なのか、思慕からくる幻なのか、なまえには判別がつかなかった。
何度も夢見た。彼の仕草、声、熱、優しいライムグリーンの瞳。思い出す度に、涙が零れた。愛していると思った。彼と過ごした出来事が過去になり、少しずつ忘れてしまっていくことに、恐怖すら覚えた。

なまえの切望が、そこに存在している。

「うそだ……」

茫然と立ちすくむその姿は、なまえの記憶の中の彼と相違なかった。いや、少し痩せたのかもしれない。シャツとベスト姿は相変わらずで、なまえは彼が乱雑にそれらを脱ぎ捨てる、その時の瞳が好きだった。紳士が獣になる、その瞬間が。
ベスト越しでもわかるしなやかな体、太い首や腕、赤い髪、前髪と眼鏡の奥の瞳、とがった牙。彼だ――彼が、そこにいた。なまえの愛したひとが、クラウス・V・ラインヘルツ、そのひとが。

「……っ」

息を飲む。手の中のカップが落ちて、割れた。硬質なその音すらなまえの耳には届かない。足の力が入らず、カップの破片の上にも関わらず膝から崩れ落ちた。その場にうずくまり、自らを抱きしめて嗚咽を堪えた。

クラウス、クラウス、クラウス。
夢か幻か、そんなものはどうでもよかった。クラウス。もう一度彼を視界に収めることができた、それだけで。それだけで、幸福だった。嫌われてもいい。憎まれていてもいい。殺されたって、いいんだ。クラウス――君を、愛しているから。

「あっ……ぅ、あ」

ぼろぼろと涙が止まらない。涙で溺れそうだ。肩口に顔を擦りつけ、何度も拭っては涙を零す。呼吸がうまくできない。ひくりひくりとしゃくりあげ、この幸福を貴ぶ。何かの音がして、誰かの声がした。遠くの出来事のようなそれは、もしかしたら大通りでの出来事なのかもしれない。
あれは、本当にクラウスだったんだろうか。確かめる勇気もなくて、なまえはその場でうずくまったままだ。例えば彼が本物だったとして、なまえの存在に気付いていなくてもよかった。ひどいことをしたなまえをないものと扱い、そのまま立ち去ってくれてもよかった。何が起こっても不思議ではないHLで、今見た彼が偽者でもよかった。なまえはクラウスという存在に飢えていて、彼がそこにいた、それだけでよかった。

「なまえ」

サイレンの音がする。警察車両がこちらに向かっているらしい。その音にまぎれて、懐かしい声がした。懐かしくて――とても恋しい。

「顔を、あげてくれないだろうか」

肩に乗せられた手のひらが、そこから伝わる熱が、なまえの体を動かす。ゆっくりと顔を上げれば、そこにいたのはまさしく、クラウス・V・ラインヘルツだった。気遣うように背中を撫で、腰あたりのシャツをクン、と引かれた。
背筋を正したまえ。自信がなく、猫背になりがちななまえに、クラウスはそう告げて腰あたりのシャツを下に引っ張ったものだった。懐かしい仕草は、なまえにとって慣れたもので、引っ張られるままに体を起こし、背筋を正した。顔を上げれば灰色の空が広がっていて、視線を横に滑らせると、クラウスの顔がある。

2人の間に、言葉はなかった。クラウスの瞳になまえが映り、なまえの瞳にはクラウスが映っている。それだけで充分な気がした。
どれだけの間見つめあっていただろう。まるで永遠のように思えたけれど、たった一瞬だったような気もする。行動を起こしたのはクラウスからだった。なまえの腕を掴み、支え、ゆっくりと立たせた。落としたカップの破片が足に刺さっているようで、痛みに顔を歪めると、クラウスが眉をへの字になる。
なまえへの気遣いだろう、何かを探すように、クラウスが視線をなまえから部屋へと移した。彼がなまえを見ていない、それだけで不安を覚え、クラウスの腕を掴む。

何か。何か、声をかけようとして口を開いても、彼に何を告げるべきか、なまえにはわからなかった。縋るように、クラウスの腕を掴む手に力が入る。段々と視線が落ちていく。見えるのはクラウスの、磨かれて美しい革靴と、カップの欠片ぐらい。
クラウスはなまえの言葉を辛抱強く待ってくれた。掴まれていない腕で、縋るなまえの腕を摩ってくれる。それに勇気を得て、顔を上げた。ライムグリーンの瞳とかち合う。混乱でごちゃごちゃしていた思考が取り払われて、なまえは抱えていた感情をそのまま、舌に乗せた。

「あのとき、ぼくらは別れるしかなかった。そうだと思い込んでいた。でも、ぼくは、君を、ずっと忘れられずにいて、君がいない寂しさに、死にたくなるくらいで、でも死ぬ勇気もなくて……ここには、HLには、死にに来たようなものなんだ。緩慢な自殺ってやつ。ああどうしようクラウス、ぼくは」

「私は」

「っ、」

言葉を遮られて息を飲む。勢いを殺され、怯むなまえの視線を、ライムグリーンの光が縫いとめる。

「私の世界は、あの時確かに輝いていた。世界はこんなにも美しいのだと思った。……君が私の世界から去ったとき、輝きも美しさも、君がもたらしてくれてのだと知った。世界を守りたいと願い、行動するのは、君がいるからだ。君が生きる世界だから私は守りたいと、守ると誓ったのだ………私は」

存在を確かめるように、クラウスがなまえの手を取った。どこかでぶつけたのか、血が出ている手の甲に口づけ、そのまま戴くように額に押し付ける。

「私は、今でも君を……愛している。愛しているのだ」

クラウスの閉じた目から、一筋涙が流れて、なまえの壊れきった涙腺がまた決壊する。また涙で溺れそう。喘ぐように息を吸い、クラウスに抱きついた。クラウスは腕を広げ、なまえをその大きな胸に迎え入れた。息もできないほどに強く、強く抱きしめられる。負けじとなまえもクラウスの広い背中に腕を回す。伝わる熱が、抱き寄せる力の強さが、クラウスの存在を主張していた。夢でも幻でもないのだと、伝えていた。

「ぼくも……ぼくも、愛してるんだ。君を、君だけを――クラウス」

やっぱり、どうしようもなく、君が好きだった。離れていても忘れることなんかできなかった。苦しみも、悲しみも、喜びも、幸福も。すべて君に直結している。君がすべてもたらす。
君は、ぼくの生きる理由、ぼくの愛、ぼくの世界、ぼくのすべてだ。

抱き合ったクラウスの肩越しに、流れ星が見えた、気がした。
灰色の空の向こうから、星が飛び出してなまえの胸に飛び込んでくる。
きっとそれは、愛だった。

ぼくのもとに戻ってきた、君そのものだった。



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