部誌7 | ナノ


秋の夜長



 多の邸には楽の音が絶えぬ。
 どこからか風に乗って流れてくる琵琶の音に、庭の秋虫が健気に歌う調べが重なり、月が白々と照り光る夜に響いている。まるで昼のように煌々と降り注ぐ月光を余さず愛でようと、季史は邸の広縁に出ていた。いや、季史には大きな月を愛でる風流はわからない。月見は隣に座す男の趣味だった。
 たいそう家柄が良いらしい男は内裏でも噂の公達である、と多の兄から季史は聞いていたが、興味もないのでよくは知らない。しかし、宮中の宴席に招かれて舞った際、春宮のそばに彼の姿を見たので、きっと兄が言っていたことは正しいのだろう。家柄も容姿も申し分ない、帝のお覚えもめでたい才気煥発の男は、なぜか季史を随分気に入り、ことあるごとに目にかけていた。華美で優雅な立ち居振る舞いの彼は、皆を愛で皆に愛でられて。舞の才があるというだけ、気の利いた世辞の一つも言えない季史が個人的な関わりを持てるような相手ではなかったはずだ。舞と雅楽について以外のことにはどうにも気が行き届かない季史は、人の名前も覚えていられない。だが季史を目にかける男が「中将」殿であるということだけは知っており、彼もそう呼ばれることに不都合はないようだった。
 中将は広縁に座し、酒を片手に膝の上の猫を愛でていた。彼の懐に忍び込んできた小さな猫は、中将の膝こそ我が御座とも言わんばかりの顔で、毛皮を撫でる骨張った白い手にはしたなく体をなすりつける。その姿を目にした季史は、自分の感情を識るより前に、宮中でもてはやされる端麗な顔を顰めた。そのとき、中将は肩を震わせ、クックッと喉を鳴らして笑った。なにがそれほど面白いのか。
「季史殿は猫がお嫌いか」
「……嫌いというわけでは。ただ、興味がないだけです」
「これはうちの可愛い子でね、一緒に月を愛でたかったのだろう。秋の月夜を放っておくなど、罪にも等しいことをよく知っている」
 ねえ? と微笑みかける男に、媚びるように鳴いて答える三毛の猫。三毛ということはおそらく雌なのだろうが、それを意識したとたんに胸のつかえが大きさを増したように思えた。季史はそっぽを向いて、手元の杯を呷った。こんな気分になるのならば、中将が訪ねてきた時点で追い返していればよかった。彼から多家が多大な援助を受けていることを考えれば、それは不可能な想定だけれども。
 季史は中将のほうを見もせず、言い放った。
「秋の夜は嫌いです」
「どうして?」
「……言い方を間違えましたね。私は夜そのものが嫌いなのです。だから」
 闇夜というのは孤独感を増長させる。母と別れて多に預けられ、多の兄たちからはよく思われず、友人と呼べる人はいない季史にとって、夜は寂しく冷たい時間だった。舞っていれば一時憂いは忘れるものの、その分舞をしていないと、心が昏い虚に飲まれるような恐れを抱いてしまう。だから、夜が早く朝が遅い秋を季史は好んでいなかった。
 あまり触れてくれるなと、季史は理由を述べずに口を閉じた。分を弁えない態度に彼が呆れて出て行ってくれないものかと期待する一方、言葉にならない思いが「早く中将に非礼を詫びろ」と己を叱責する。だって彼は、季史に執着してくれている人なのだ。幼稚な嫉妬心ごときで手放してしまうには惜しすぎる。
 ふわりと丁字の香りが鼻を掠め、気づけば季史の顎は中将のほっそりした指に捕らえられていた。季史の意思に関わらず、強引に合わせられた視線は、宮中で見た貴公子とは似つかぬ、凶暴さを孕んでいるように見えた。
「私は、秋、好きだなあ」
 ふふ、と目を細め、季史の泣きぼくろに唇を落とす。
「だって、季史と長くこうしていられるからね」
 手入れの行き届いた滑らかな手の甲が、当代一の舞い手の頬を、輪郭を確かめるように撫で上げる。ぞわ、と首筋が震えたような気がした。どうにか彼の目から逃れたくて視線を彷徨わせれば、中将の膝に居座る猫の琥珀色の瞳とかち合う。にゃあと一鳴きした声がお前も自分と一緒だと嘲弄しているように聞こえたが、季史はそれを意識の外に追いやった。



prev / next

[ back to top ]



「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -