部誌7 | ナノ


運命の選択



気温というのは不思議なものだと思う。エアコンが効いていて、こんなに涼しい室内なのに、何処か暑くてたまらないという気がする。
こぽこぽと音を立てるコーヒーメーカーの音を聞きながら、逸身顕彦はシャープペンを置いた。春にクラス全員が購入した、無駄に良い紙をつかったカラー印刷の教材を眺めながら、可もなく不可もなくというような進捗具合を見なおした。その様子を、目の前にいる祖父がちらりと見遣った。
カウンター越しに寄越された視線が、咎めるものではなく、心配しているものだと知っているから、顕彦は慌ててシャープペンを握り直すようなことはしない。
レトロな雰囲気の店内にはオルゴールの音が流れている。その物静かなBGMと良いコーヒーの匂いと良い、勉強にはうってつけの場所で、顕彦のお気に入りの席だった。特に何の注文をするわけでもなく、居座ることが出来るのは、顕彦の祖父がやっている喫茶店だからだった。
ちょうど客足が途絶えたところだが、夕方の4時を過ぎる頃になると、またぱらぱらと常連客が見え出す。混みあう時間さえ外せば、顕彦はこのカウンターにずっと座っていられた。
中学生最後の年。その夏に顕彦は父と母のいる実家を離れて、喫茶店を運営する祖父のところに来ていた。祖父は、顕彦の来訪を歓迎して、見守ってくれている。
『どうして、お母さんの言うことが聞けないの? 顕彦はお母さんが嫌いなの?』
その言葉を思い出しながら、顕彦は言いようのない気持ちの悪さにおそわれて胸のあたりに手をあてた。何に対して言われたか、思い出せないくらい繰り返された言葉を負担に感じ始めたのはどれくらい前のことだっただろうか。
ひとつひとつはとても些細なことだった。だから、それくらい、仕方ないと顕彦は思ってきた。進路という壁に突き当たるまで、と言う話だ。
父は不干渉だった。
多分、些細な悩み事なのだろうと、そう思ってはいたが、どうしても、どうしても腑に落ちない部分があって、顕彦はそれを言葉にすることが出来ない。その顕彦に、祖父は『夏休みはこっちに来ないかな』と言ったのだった。
「……顕彦」
祖父が名前を読んだ。顔を上げると、祖父が少し眉を下げて笑って、コーヒーカップを一つ差し出していた。
「ありがとう」
そのコーヒーを受け取って、顕彦はすんとその香りを嗅いだ。この香りが、顕彦は好きだった。
それを一口飲んだ時、祖父が「なあ、」と顕彦に語りかけた。
「この近くの高校の、オープンキャンパスがあるんだが、行ってみないか」
祖父は、そう言った。

その日はよく晴れていて、とても暑かった。ちりちりと鳴る風鈴が、弱々しく聞こえるくらいに、暑かった。あまり汗をかく方ではないのだが、じっとりTシャツに汗が滲んでいる。首元の汗を手のひらで拭いながら、顕彦は休める場所を探した。
祖父がそういう話をするのは初めてだったし、毎日他にすることも思い当たらないせいで勉強ばかりしていた顕彦は、それも良いかもしれない、とそう思ったのだった。一応祖父は、申し込みが必要なさそうなことや、制服で行かなくてもいいらしいことを前もって調べてあった。
かなり心配をかけていたらしいことを知って、顕彦はふっと息を吐いた。
校庭を見に出たのは良いが、道場やら何やらを見ている内に集団とはぐれてしまったようだった。校舎脇に置かれたベンチを見つけて、風の通りそうな物陰にあるそこに座ることに顕彦は決めた。
思った通り、風がよく通って涼しい。顕彦は祖父が持たせてくれた水筒を取り出して、お茶を飲むことにする。自販機が近くにみえるから、多分飲んでも構わないのだろう。
自由そうな校風が、顕彦には少し新鮮で、そして、この学校に通えたらばいいのに、とそんなことを思いながら、三階建の校舎と校舎の隙間に見える青空を見上げた。
「……隣、良いか」
すっかりとアイスティーが美味しいことに夢中になっていた顕彦は、目の前にいる人間に、声をかけられて初めて気付いた。
「……うん、」
少しだけ横にずれながら、顕彦はその人間を見上げて、大きい、と思った。かなり身長が高くて、痩せ型。すこしだけ顔色が悪そうなのは、あまり太陽が似合わないタイプだからだろうか。それとも、顔色が悪そうだから太陽が似合わないのだろうか。そんなことを考えながら、この人も、中学生なのだろうか、と考えた。眼鏡が、線の細そうな印象によく似合っている。
そんなことを思いながら、顕彦は水筒のカップに残ったアイスティーを飲み干した。それから隣からの視線に気付いて、ふと隣を見た。先ほど隣に座った男が、顕彦の水筒を凝視していた。
「……俺のつかったコップだけど、飲むか」
「飲む」
即答か、と思いながら、思春期を患っている顕彦は間接キスという言葉を頭から払いながら、コップの中にアイスティーを注いだ。おずおずと差し出すと、ささっと伸びてきた手が顕彦の手からコップを奪っていく。彼が何の躊躇いもなく紅茶を飲み干すのを見ながら、顕彦はぱっくりと口を開けた。
「……いきかえった」
男はそう言って大きく息を吐く。どちらかと言うとその格好は燃え尽きたボクサーの格好だけれど、と思いながら顕彦は「それはよかった」と言った。彼からコップを受け取って、蓋に戻して、スポーツタイプのリュックに戻した。
「俺、行くよ」
すっかり汗の引いた顕彦は、さっさと集団に合流しようと腰を上げた。頭を上げて男が、ありがとう、と言った。それに、短く相槌を打ってから背中を向ける。
「……借りは、今度返すな。お前もここの高校だよな」
かけられた言葉に、顕彦は足を止める。顕彦は、ここの高校に通うことは無いだろうと、そう思っていたから。
「……うん」
何故、肯定したのか、顕彦にもよくわからなかった。


「……宮都、飲め」
引きこもってばかりでもやしのようになっている宮都を天日干しにしてやろうと思って外に連れだしたのだが、彼には少し、太陽光は厳しかったらしい。おまけに、ギンギンと輝く白い砂浜は、照り返しが厳しい。海の風は心地よいが、連れはその限りではなかったようだ。
そんなことを思いながら、顕彦は用意してきた水筒を取り出して、そのコップに中身を注いだ。その中身は、アールグレイの香りの紅茶だ。アイスにしてよく冷やしてある。
コップを受け取って、一息に煽った宮都は項垂れながら「生き返った」と言った。それに少しだけおかしくなって吹き出して、もう一杯と差し出されたコップを受け取る。
宮都は、あのことを覚えているだろうか。
ふっと思い出しながら顕彦はカチンと水筒の蓋を開けた。覚えてなくても無理は無いだろう。なにせ、宮都はあのとき、顕彦の顔を見ていたかも謎だった。
高校に入ってから、何故か顕彦も忘れていたから、お相子だろう。
並々と注がれたコップをうけとって、酷く慌てたようにひとくちふたくち煽る。
あのとき、宮都に出会わなければ、あの言葉がなかったら、自分はきっと、ここには居ないだろう。
そういう確信が顕彦にはあった。
覚えてなくても構わない、と顕彦はそう思う。空になったコップを受け取りながら、自分の分を注ぐ。魔法瓶の中でカランと氷が音をたてた。
「……そういえば、あの時の借り、返せてなかったな」
隣の彼がそう言った。



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