部誌6 | ナノ


幸福の必須項目



すきだよ、なんて言えるはずがない。

声を荒げて叫びたかった。お前が好きだよと、声が涸れるくらいに。誇りを持って、胸を張って告げたかった。

だけど、ごめんな。俺は俺の夢のために、お前を捨てるよ。




「実際に学校に通い出すのは9月通いなんだけどな」

渡航の準備をしながら語るみょうじを手伝いもせず、黒尾と、孤爪研磨は眺めていた。笑顔のみょうじとは異なり、二人の顔には笑みなどなかった。孤爪の目は赤く、泣き腫らしたあとさえ窺える。
当然それに気づいているだろうみょうじはそのことに触れもせず、笑顔で訪れるフランスでのことを語る。どれだけ自分が楽しみにしているのかを伝えるように。

止めても無駄なことなんて判りきっていた。みょうじは、夢を叶えに行くのだ。寂しいからといって、彼の将来を邪魔するわけにもいかない。
それでも、分かりきっていても、感情は別物で。寂しいと泣いた孤爪のように、黒尾も泣いてしまいたかった。妙なプライドが邪魔をして、結局は泣けずにいたけれど。

「9月からなら、まだ日本にいればいいのに」

「おれ、フランス語駄目だからさ、語学の勉強をまずはするんだよ」

ずっ、と鼻を啜りながらの孤爪の進言を、苦笑しながらもみょうじは拒否した。
嘘つき。センセイとやらとツアーと称して世界中飛び回って、英語もフランス語も、日常会話には困らないくせに。

意志は変わらないのだと、叩きつけられる方がましだった。孤爪の細やかな抵抗は呆気なく散った。
楽しみだと準備に勤しむみょうじの笑顔はキラキラと輝いている。薄情ものめ。少しくらい寂しさを見せてくれれば、まだ納得できたかもしれないのに。尤も、寂しさを見せられたら、きっと孤爪も黒尾も引き留めただろうけど。

どこかの家から聞こえる、テレビの音が耳触りだった。
孤爪と黒尾は、みょうじの口からフランスへ留学することを伝えられてから毎日、みょうじの家へ通い詰めていた。夕飯とシャワーを浴びればすぐにみょうじ家へ向かう。事情を聴いているのか、孤爪の親も、黒尾の親も、何も言わない。息子との時間を減らされているだろうみょうじの親もだ。

「ずっと、三人一緒だったものね」

そう涙混じりに微笑んだみょうじの母に、泣くほどなら行かせなければいいのに、と思う。行くなの一言すら憚られてしまう黒尾がいえた立場ではないが。

渡航の準備は、少しずつ進められた。相変わらずみょうじは窓を開け放してピアノを弾く。毎日の日課は変わらない。ただ、ピアノを弾く時間が少し減り、その分荷造りに当てられるようになった。
少しずつ少しずつ片付いていく部屋に、涙が出そうだった。みょうじの部屋はみょうじの帰る場所で、ベッドやクローゼットはそのままだ。それでも、例えば衣類、例えば机のうえの筆記用具、何よりたくさんあったはずの楽譜が無くなっていくことで、みょうじがいなくなるという事実を突きつけられてしまう。

いつ戻るかも知れない、ピアニストになるための海外留学。クラシックの主流はヨーロッパだから、日本に本当に戻ってかるかも疑わしい。このまま離れてしまって、疎遠になってしまう可能性は高い。
だって、みょうじだ。クラシックなんて聞いたことがない人々だって魅了してしまうピアノを弾く、みょうじなのだ。ヨーロッパで彼の魅力に気づくものはきっとたくさんいて、そうした人々はみょうじから離れたがらないに決まっていて。孤爪が泣くのも仕方ないことだと、黒尾ですら思う。

黒尾だって孤爪だって、みょうじが大好きだ。
みょうじに対する感情は種類が違うだろうが、好きには変わりない。幼い頃から一緒にいて、おじいちゃんになるまで、関係は変わろうとも連絡すればすぐにあえる距離にいるのだと思っていたし、そう願っていた。

みょうじが、ピアノを始めなかったら。

みょうじ のピアノが好きなくせに、そんなことを考えてしまう。ピアノじゃなかったら、今までと同じように、そばにいられたのだろうか。国内と海外の距離は全く異なる。みょうじに何かあっても、すぐに気づけない距離にみょうじが行ってしまう、その事実が何より恐ろしい。

永遠を願っても、世の中は無情だ。
同じくらい、みょうじだって。

黒尾や孤爪の感傷や願いなど意にも介さず、夢へと向かう。
当然のことだと、理性では理解している。黒尾や孤爪の感傷に付き合って、みょうじの将来を台無しにすべきじゃない。クラシック音楽の世界は月日が物を言う。幼い頃から英才教育を受けている人々と比べれば、みょうじのキャリアは短く、不利なのだとずいぶん前に聞いた。
曲を奏でるために必要な音感は、幼少時に形成される。小学生からピアノを始めたみょうじではあるが、それでも足りないのだと悔しがっていた。だからきっと、いまだ本場のヨーロッパに行かず、日本で勉強を続けていたみょうじは、同年代の人間と比べて足りないものがあるに違いない。

みょうじを見いだした恩師が日本に滞在していたとはいえ、切磋琢磨する人間が近くにいないことには、意気込みや成長にも影響していただろう。何より恩師以外で音楽を語り合える同士が、みょうじには必要だ。ライバルとも仲間とも言える人間の大切さを、バレーをしている黒尾だからこそわかる。

けれど、それでも。
みょうじのために喜ぶべきとわかっていても、諸手をあげて喜べるはずがなかった。
だって、みょうじは黒尾の、孤爪のそばからいなくなるのだ。離れてしまうのだ。もう毎日のようにみょうじのピアノが聴けない。みょうじのピアノが、みょうじが。日常のものではなくなってしまう。

想像するだけで、心臓が凍えるようだった。突然ではないはずの別れだ。こうなることを予想してもいた。
それでも現実が迫ってくると、はじめの頃の覚悟など無意味でしかなかった。

「……楽しみか」

声が、掠れる。
聞き取りづらいだろう黒尾の一言を、耳のいいみょうじはなんなく拾い、ニカリと笑った。

「おう。ずっと本場で暮らしてみたいと思ってたからな!」

ヨーロッパで暮らすことで、曲の理解が深まるのだと、みょうじは言う。日本では体験できないこと、感じられないこと、そういったものを体感し、曲に活かしたいのだと。
日本と西欧では、文化も風習も何もかも違う。知識だけでなく、それを体験したいのだと。そして実感し、自分のものにするためには、旅行のような短期間では足りない。体に習慣が染みつくほどじゃないと。

「基本的にはフランスに住む予定だけど、慣れてきたらウィーンにも行きたいし、イタリアとかの美術館巡りもしなきゃなんだよなあ……先生に、時代背景とかも勉強するようにって言われてさ。それには同時代の芸術品を見た方がいいって……学校始まる前からやることがいっぱいだ」

不安なんて感じさせもしない様子で、みょうじは手元の雑誌を手に取った。フランス語だろうメモ書きのある付箋が、所狭しと貼られている。ヨーロッパ名所と書かれた旅行雑誌だ。ほらこことか、と指された場所がどこなのか、知りたくもない。黒尾も孤爪も知らない場所へ、知らない誰かと行くかもしれないことなんて、知りたくもなかった。

「そんなのいいから、ピアノ弾いて」

「え?」

「ピアノ。なまえのピアノが聞きたい。どうせ片付けはもう飽きたんでしょ」

孤爪が拗ねたように唇を尖らせた。ばれたか、と笑うみょうじは立ち上がり、部屋を出てピアノ室に向かった。
みょうじの背中を追うように黒尾と孤爪も続く。幼い頃から変わらない立ち位置。何かあればみょうじが先を歩いて、孤爪をはさみ、黒尾が殿を務める。黒尾が先頭に立つ場合は、みょうじが殿を務める。そうやって、黒尾をみょうじは、孤爪を挟んで行動してきた。

昔は隣り合うこともあった。孤爪は一つ下で、黒尾とみょうじは学年が同じなのだ。隣り合うことが当然な時も、あったのだ。
それもこれも、みょうじがピアノの選ぶ前までだったけれども。

みょうじがピアノを選び、孤爪や黒尾を優先しないようになってから、どんな風にみょうじと接すればいいのか、黒尾にはわからなくなってしまった。隣にいたり、孤爪の向こうにいたはずのみょうじが、ピアノの練習があるから、指を痛めてはいけないからと、すぐに立ち去ってしまう。
いつもは微笑んで黒尾の願を受け入れてくれるみょうじが、ピアノを理由に断った、あの時の感情を、黒尾はまだ整理しきれないでいた。

「何がききたいの?」

「ええと……わかんない。あれでいいよ、エリーゼのために」

「なにそれ。研磨はおれのピアノ聞きたがるくせに適当だよなあ」

「なまえのピアノが聞ければなんでもいいんだよ」

「ほうほう、嬉しいことを言ってくれる。弾き甲斐がありますなあ」

ピアノ室のドアを開けて、なまえは一直線にグランドピアノへと向かった。うきうきしているのが背中を見るだけでわかる。慣れた仕草で孤爪がピアノ室の窓を開け、ピアノの前に座ったみょうじの足元に腰を下ろす。黒尾はといえば、いつも外で聞いていたので、はじめはどこに身を置けばいいのかわからなかった。今となっては慣れたもので、ピアノから少し離れた場所にある壁に背中を預け、床に座る。みょうじの母の気遣いからか、いつしかそこや、孤爪の座る場所にはクッションが置かれるようになっていた。

「エリーゼのために、もポピュラーでいいけど、こんなんどうよ」

「何?」

「幻想即興曲」

そう、指ならしにピアノの鍵盤に指を滑らせたと思えば、みょうじは高速で指を動かして音を紡ぎ出した。スピード感のある曲に、孤爪も黒尾をびくりと体を動かし、背筋をただす。驚いたのもつかの間でメロディーはゆっくりなものへと変化し、最初の力強さよりも繊細さを表現するようになる。
一瞬で引き込まれた。気付けばみょうじのピアノに聞き入っている。みょうじのピアノは、そういうピアノだ。
静かな住宅街で騒がしかったテレビの音も、いつの間にか消えていた。きっと夜空に響くみょうじの紡ぐ微かな音色と聞き取ろうとしているに違いない。ご近所中が、みょうじのピアノのファンだからだ。
冒頭の力強いメロディーが戻ってくる。みょうじは奏でながら噛みしめるように告げた。

「ピアノをさ、こうして弾くのも、楽しいんだ。こんな風にひとりで弾くだけなら、おれは日本でピアノやっててもよかった」

でも、とみょうじは微笑む。譜面すら見ず、ただただ鍵盤を見つめながら、孤爪と黒尾に語りかける。

「でも、おれは、オーケストラと演りたいんだ。鉄朗や研磨が仲間を信じてバレーするみたいに、おれも、指揮者やオーケストラを信頼して、委ねて、たまにおれがみんなをひっぱったりして。そういう経験がしてみたかった。そうなるには、ソリストになるしかない」

不意に、曲が終わる。みょうじはそこで言葉を区切り、少し考えるような素振りをして、また鍵盤を指で撫でるように叩く。ゆっくりと紡がれていくメロディーは、恐らく先ほどとは違う曲だ。

「日本でも音楽の勉強はできる。おれよりレベルの高いやつだっている。そいつらも結局、海外のコンクールに出場する。そうやって箔をつけないと、ヨーロッパはもちろん、日本でだって聞いてもらえない。オーケストラと共演なんか、夢のまた夢だ」

悲しげなメロディーラインは、どこかで聞いたことのあるものだった。どこで聞いたのかなんて覚えてはいなかったが。

「どうせ世界に出るなら、早め出たい。ただでさえおれはスタートが遅かったし、同年代のやつに負けたくない」

ピアノの音が止む。太ももに両手を置き、みょうじは孤爪に目を向け、そして黒尾を見た。
決意に満ちた瞳だった。

「だからおれは行くよ。全力でやりきって、後悔しないでいたいから」

――どうせ。
どうせ止めることなんてできないとわかっていた。どんなにごねたって、わがままを言ったって、みょうじは結局、ここぞというときに黒尾や孤爪に譲ったことはなかった。譲れないものに関してだけは、己の意志を貫き通した。
結局黒尾も孤爪も、みょうじに敵いやしないのだ。

「馬鹿野郎……」

「うん」

「ほんとだよ、なまえの、ばか」

「うん、ごめんな」

もう子供では居られないのだと、突きつけられた気分だった。子供の頃のようには、いかないのだ。
明日。
みょうじは、日本を発つ。その事実は決して、変えられやしないのだ。



その日の夜は、黒尾も孤爪も、みょうじの部屋に泊まった。かつての子供の頃のように、三人で雑魚寝をした。布団を出してもらって、床で三人並んで寝ころび、学校であったことや、バレーやピアノの話をして。夜通し話すつもりだったのに、部活もあった黒尾と孤爪は疲れからか早々に寝入ってしまったようだった。

肌寒さに目を覚ませば、みょうじが窓の近くに椅子を寄せ、腰掛けていた。桟の部分に肘をつき、外の景色を眺めているようだった。窓が少し空いているので、寒さの原因はこれかもしれないと、黒尾は目覚めきらぬ頭で思う。

白んだ空が段々と青みを帯びていくのが、みょうじ越しに見える。
こちらからみょうじの顔は見えなかった。一体何を考えているのだろう。当分は見ないだろう街並みを、惜しんでいるのだろうか。

気づけば、涙を流していた。泣くまいと決めていたのに。ほとほとと、いつの間にか、涙が次から次へと零れ落ちてくる。胸に去来したのは、どうしようもない喪失感だ。
ひくり、喉が鳴る。無意識に鳴らしてしまったことを悔やみ、頼むから気づいてくれるなと、黒尾は思う。けれどみょうじの耳はよく、なんなくその音を聞きつけた。

「……鉄朗?」

気づかれぬように眠ったふりをする。
閉じた瞳から一筋、涙がまた零れた。

「……泣いてんのか」

囁かれた言葉に体が震えないよう、必死に制御する。平たくてかたい指の腹が、頬をなぞる。みょうじの体も冷えているのか、みょうじの熱を頬に感じることはなかった。あまりに優しく触れるので、まるで夢なんじゃないかと、そう思った。

「ごめんな、鉄朗」

みょうじがどうして謝ったのか、何に対して謝ったのか、黒尾にはわからなかった。
夢の中に引き込まれていく。遠くなりゆく意識の中で、黒尾が知覚したのは、己の呼吸音と、研磨の寝息と、そして。

瞼にあたたかい何かが触れる。濡れた感触がしたのは、黒尾の涙のせいなのか。
眠りの中に落ちてきながら、黒尾はうっすらと重い瞼をこじあけた。
辺りは薄暗く、夜明け前だからか、紫がかって見えた。その中で、みょうじが泣きそうな顔で微笑んでいる。

「夢だよ……これは、夢だ」

夢なんだよ。優しい声が黒尾に深く浸透していく。手のひらで目元を覆われて、黒尾は誘われるままに眠りに落ちた。
かさついた感触が唇に触れた気がしたが、それがなんなのか、それすら夢なのか、わからないまま。





美しい晴天の日だった。
旅立ちに相応しい日だ。
今日という日、みょうじなまえは、フランスへと旅立つ。
その事実を噛みしめ、黒尾鉄朗はすこし泣きたくなった。

休日だからか、飛行場は混雑していた。笑顔で「またね」とやりとりする人々を横目に、黒尾と孤爪、みょうじの三人は、展望デッキへと来ていた。飛行機が飛び立つ瞬間を見て、子供たちが歓声を上げる。その様子を微笑ましげに見守るみょうじとは反対に、黒尾も、孤爪も、眉間にしわを寄せていた。
出発までは随分と時間があるらしい。どんだけ気が早いんだ、と毒づく黒尾に、みょうじは笑った。

「楽しみなんだ、仕方ないだろう?」

心の底から楽しそうに笑うから、黒尾の胸はずきずきと痛んだ。
飛行機に機体トラブルでも起きればいいのに。
孤爪の呟きは不謹慎だったが、賛同したかった。そうすればみょうじは、少しでも近くにいてくれるに違いない。

子供たちだけでまずは、と放り出されて展望デッキまで来てはみたものの、無邪気に出発を楽しみにするみょうじの姿は、見ているだけで辛かった。相変わらず、泣きそうな孤爪にも不機嫌な黒尾にも構わない。あえて二人の様子に触れないみょうじは、とても残酷だ。
残酷で、優しい。

「あれが多分、おれの乗る飛行機かな」

飛行場に車輪を着け、ゆったりと旋回し移動する飛行機を指差し、みょうじが言う。フランスの航空会社のロゴマークを、孤爪が睨みつけていた。黒尾もきっと、同じような目をしているんだろう。あれが、みょうじをフランスへと連れて行くのだ。
無言で睨みつける二人に、みょうじは苦笑した。

「手紙を書くよ。メールがいいかな。電話もしよう。時差の計算は得意だから、大丈夫」

指でひとつひとつ数えながら提案していくみょうじを、孤爪も黒尾も信頼していない。ひとたびピアノに没頭すれば、みょうじは携帯の存在を忘れてきた。電子音は嫌いだからと、普段はマナーモードにしているし、メールですら筆不精だった。日本にいてもそうだったのだから、海外での慣れない生活の中で、メールや電話を期待できるはずがない。

「それに、年末年始は帰ってくるよ。あとバケーションも」

それも、信用できない。師匠のニューイヤーコンサートがあるから、と年始を海外で過ごした数は片手ほど。ピアノを始めた月日のことを考えると、決して少なくない。むしろ多いくらいだ。
バケーションはどうだが知らないが、きっとみょうじが言っていた通り、勉強のためにヨーロッパ中を巡るに違いない。

ずっと一緒にいたのに、これからは、ずっといない。離れ離れだ。会わない日の方が少なかったのに、逆に会う日の方が、少なくなる。

どうしてみょうじは笑っていられるのだろう。黒尾も、孤爪だって、こんなに泣きそうなのに。みょうじにとって二人の存在は、そんなに軽いものだったのだろうか。

黙っていないと、恨み言を口にしてしまいそうだった。離れていくみょうじを詰って、責めて。
みょうじの夢を、否定してしまいそう。出立を喜んでやれないのは、みょうじが好きだからだ。ずっとそばにいて欲しいからだ。だけど同じくらい、みょうじの夢を応援したいと思うし、みょうじの邪魔になりたくない。相反する感情が渦巻いていて、言葉にできない。

「ばか」

孤爪が俯いて、小さく詰った。
飛行機の飛び立つ音がうるさくて聞こえなかったかもしれない。けれどみょうじが困ったように笑うから、届いたのだろう。

「うん、ごめんな」

昨夜の繰り返しのように、みょうじが言葉を返す。ずっ、と鼻を啜った孤爪を抱きしめ、頭を撫でた。

「有名にならなきゃ許さない」

「うーん、それは約束できないけど、後悔だけはしないようにするよ」

「そうして」

みょうじと孤爪のそんなやりとりを、黒尾はぼんやりと眺めていた。みょうじがピアノをはじめてから、三人はずっとこんな立ち位置だったのだ。黒尾は、孤爪のおまけのようなものだった。

不意に、昨夜の夢を思い出した。夢か現実か曖昧な、幻のような夜明けのできごとを。

キィン、と耳鳴りのする音を立てて、飛行機が滑降する。風と騒音に目を眇めた黒尾に、みょうじが孤爪を抱きしめながら何かを告げている。

「鉄朗! ―――!」

「なに? 聞こえねえ!」

怒声のような声を上げて黒尾が返す。みょうじはどこか晴れ晴れとしたような笑顔で、孤爪を開放しながら告げた。

「なんでもない!」

そうして黒尾に近づき、孤爪にしていたように黒尾を抱きしめた。背中をバンバンと叩いて、すぐさま黒尾を開放する。

「じゃあ、もう時間だし行くよ」

みょうじの行動に戸惑いながら、黒尾は颯爽と歩き出したその背中を、おぼつかない足取りで追う。

両親と合流し、別れを交わすみょうじの姿を、黒尾は現実味のないまま眺めていた。
別れがすぐそこにあることが悲しくてならないのに、離れ離れになることが夢なのではないかと、そう思ってしまう。
じゃあまた。そう簡単な別れの言葉ひとつで、みょうじは出国ゲートへと向かう。

「……なまえってほんとばかだよね」

「まあな!」

呆れたような孤爪の呟きに、ニカリと笑ってみょうじはそのまま、振り返りもせずにフランスへと旅立った。ひらりと背中を向けたまま振られた手に、黒尾は今更悟るのだ。

みょうじが好きだ。
どうしようもないくらいに。

でももう、どうしようもなかった。






ファーストクラスに乗れるような御大尽でもないが、ビジネスクラスの席に座れたのは、ひとえに両親からの愛だ。好き勝手やらせてくれている両親には、感謝の念しかない。大した親孝行もできなかったことに悔いを感じてはいるが、それ以外の後悔はなかった。みょうじなまえにとって、ピアノの弾くということは、それほど価値のあることだからだ。

(いや、まったく後悔しない訳でもないかな)

今はまだ、悔いはない。でもあと数年もすれば悔いになるんだろうなあ、とは思う。最後に幼馴染ふたりに聞かせた曲――『悲愴』を鼻歌で歌いながら、暇つぶしになりそうな前席のポケットに備えられている雑誌を物色する。救命具の説明は覚えているから見なくて構わない。フランス語で書かれた雑誌を手に取り、勉強がてらに、とパラパラとページをめくる。
ふと目についたページに、苦笑が漏れた。その一文の指先でなぞる。

幸福になるための必須項目。そう書かれたページの一番に記載されている言葉。
愛するひとと共にすごすこと。

「……わかってるよ」

自分にとっての一番の幸福を、みょうじはすでに放棄した。きっと後悔するのだろう。悔やんで仕方ないに違いない。彼が、自分以外の誰かを愛し、愛され、幸福になることを、祝ったりできないと、今の時点でも思う。

でも、それでも。
みょうじは、ピアノを選んだ。
選んでしまったのだ。

指先で唇に触れる。
この思い出だけで充分だと、みょうじは思った。
それだけで生きていこうと心に決めた。

あの美しい夜明けを、一生忘れないだろう。
あの哀しくて美しい、終わりの姿を。
みょうじは生涯、忘れることはないのだ。




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