部誌6 | ナノ


幸福の必須項目



「もう駄目だ、おしまいだ……今すぐ煮え立つマグマに飛び込んで、骨も残さず消え去りたい……」

刑の執行を待つ死刑囚のように絶望し、土気色の顔で頭を抱える男を前に、オーシャンはやれやれとため息をついた。切れ長の瞳と凛々しい眉毛、高く通った鼻筋で彩られた精悍な面立ちも、こうなっては台無しである。
控え室としてあてがわれたホテルの一室、ファッションショーの目前にして、今回一番の注目モデルは、今にも胃の中身をぶちまけるのではと危惧してしまうほどに追いつめられた様子であった。既に衣装も身につけ、ヘアもメイクもばっちりに仕立て上げられているというのに、往生際の悪い男だ。呆れを滲ませてオーシャンがため息をついたのも、彼は気づいていないらしい。わざわざ彼のコンディションを確かめに来てよかった、このままステージに出していたらどうなっていたことか。

「何がそんなに心配なのさ」

ソファーで沈んでいる男の隣に、オーシャンは軽やかに腰掛けた。激励をこめて情けなく丸まった背中を叩いてやれば、覇気というものを地底に忘れ去ってきたらしいしょぼくれた瞳が、縋るようにこちらを見る。顔立ちやスタイルは申し分ないし、一級のパフォーマンスを披露できるポテンシャルはあるというのに、この男はどうやらプレッシャーにとことん弱いようだった。

「何がってオーシャン、もう分かっているんだろう……。私なんかが先生の新作、一番注目の服を着るなんて、恐れ多いにもほどがある!」

うわあああと再度頭を抱えて(それでもヘアが崩れないように気をつけているのはやはりプロなのか)、ヒューゴーを師と仰ぐファッションモデルは自分が背負った期待の重さに悶えている。
男があの堅物引きこもりデザイナーを盲信する姿を見せつけられているのは、オーシャンにとってはあまり面白くないことだ。唇を尖らせて、目の前の緊張しいに事実を思い出させてやる。

「一応訂正させてもらうと、君の衣装は僕とヒューゴーの合作で、今回のショーのコンセプトはアクアポップとスチームパンクの融合だからね! ついでに一応主催は僕、P・A・オーシャン・シーマリン――」
「だ か ら だ! ヒューゴー・ヴェルジュールが新しい作風に挑戦した、七つの海が大注目する新作衣装を、私が着るなんて!」

こっちの言葉を遮って叫ぶ彼の言葉には、きっと緊張や不安だけじゃない、抑えきれない興奮が感じられた。この男はあのヒューゴーに憧れて、あんな岩とマグマばっかりの辺鄙な火山に十余年もいたというのだから、その入れ込みは本物なのだろう。強すぎる憧れのあまりに、ハイを通り越して少々不審なことになっているのだが。
彼の仲間のモデルたちから、この男はいつでも本番前は不安定だからあまり気にしなくて大丈夫だ、ステージに上ったらそれまでが嘘みたいにかっこよく決める天才だから、と聞いていたし、オーシャン自身もそれを理解していた。だから本番でヘマをされる心配は欠片もしていない――のだけれど、ここまでこのP・A・オーシャン・シーマリンが無視されるというのも面白くない。
オーシャンは男の頬を両手で挟むと、ぐい、と引いて無理矢理顔をこちらに向けた。彼の耳たぶ、貝殻を模した耳飾りが揺れることに、満足感を抱く。

「ね、僕とアイツは、着てくれる人を幸せにしたくてこの服を作ったんだよ。それなら、モデルの君がそんなこの世の終わりみたいな、嵐の日の海面のような顔してたら、駄目じゃないか。ハピネスは笑顔じゃないと届かないぜ?」

険しい顔のほっぺをむにむにと伸ばして、最後に軽く、べちんと叩く。仕上げに鼻をつまんでやると、男は目を丸くして、ぽかんとオーシャンを見つめた。一拍ののち、強ばっていた肩から余計な力が抜け、へらっと気負わない微笑みを浮かべた。オーシャンもにやりと。なんだ、ちゃんと笑えるんじゃないか。

「先生の思いを、私を通してゲストに伝える。そうだな、その為には私が笑顔でなければならないな!」
「その意気! よっしゃ、ゲストの視線を全部かっさらってきてよ!」

部屋に入ってきたときと同じように、力強く彼の背中を叩けば、今度は快活な笑顔が返ってくる。これこそ、自分が求めていた彼の表情だ、とオーシャンは確信した。
四人のデザイナーが一堂に会し、お互いのファッションに変革がもたらされたあの日、謎多き火山の島からやってきたモデルたちの一人に、オーシャンは目を奪われた。他とは一線を画した力強く爽やかな雰囲気、ずば抜けたルックス。アクアポップとは似ても似つかない男だったけれど、自分のデザインした服を、彼に着てもらいたいと思ったのだ。
目の前の青年は知らないけれど、彼を是非にと起用したのはヒューゴーではなくオーシャンで、会ってみたらまあ、性格は思っていたのと少々ちがったけれど。要するにオーシャンは個人的にこの男をとても気に入っていて、今度は絶対にアクアポップの新作を彼にあつらえてやろうと心に決めていたのだった。



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