夢から覚めた夢
ふ、と目覚めた。
心地よい微睡みの中で、ぼんやりと天井を見上げる。体温が移ったシーツはサラサラしていて気持ちいい。一瞬己がどこにいるのか判らなくて、スティーブン・A・スターフェイズは思考をぐるりと巡らせた。
ええと、ここは、どこだったかな。
見上げた天井は、スティーブンの寝室のものではない。ならばどこだと考えて、不意に鼻をくすぐる甘いバニラの薫りに、ああそうだと悟る。一体何を寝ぼけているのか。ここは、この部屋は、このベッドは。スティーブンの恋人のものだ。
ごそりと寝返りをうつ振りで体勢を変え、シーツの隙間から部屋の様子を窺う。部屋の主は煙草とコーヒーを持ち、窓の桟に腰かけ、ベランダから外を見下ろしていた。
白いシャツが光を反射して眩しい。シャツのサイズが合っていないから、恐らく着ているのはスティーブンのシャツだろう。裾からすらりとのびた白い足も、同じようにまぶしかった。
(また見てる)
スティーブンの恋人であるなまえ・みょうじは、同じベッドで睦み合い、夜を過ごした次の朝、スティーブンの腕の中にいたことがない。同じベッド眠ってはいるが、目覚めを同じくしたことがない。いつだって彼はスティーブンよりも先に目覚め、早朝のヘルサレムズ・ロットを煙草とコーヒーをお供に見下ろしている。
ベッドに横たわるスティーブンからは、その表情が確認できない。どんな顔をしてるんだろう。毎回気になるが愛欲に負け、ベッドでくたくたになるまで愛を交わしてしまう。
(受け手の方がつらいって聞いたんだけどね)
どれだけ熱い夜を過ごしても、なまえは涼しい顔で今のように早朝から一息ついている。余裕のあるはずのスティーブンは心地よい脱力感にまだベッドに懐いているというのに、なまえはすでにベッドから出ている。体力やテクニックに自信をなくしそうだ。
なまえ愛飲の煙草の甘いバニラの薫りは、甘い夜の名残であるような気がするが、まあ幻想である。スティーブンもなまえも、そんな甘ったるい感情は抱いていない、はずだ。
早々にベッドから抜け出すなまえに寂しさを覚えたこともあったが、付き合いが長くなるにつれ、なまえの習慣なんだと納得するようになった。なまえの従兄であり、スティーブンの親友でもあるクラウス・V・ラインヘルツのお墨付きなのだから、相当前からの習慣なのだろう。
そして、そんな彼の後ろ姿を盗み見るのが、スティーブンの習慣となり、趣味となった。
「ん。起きたのか、スティーブン」
そう、スティーブンが目覚めたことに気づいたなまえが振り返り、柔らかな微笑みを向けてくれる。その一瞬が、たまらなく好きだ。
「おはよう、なまえ。またカフェオレかい?」
「心配しなくてもお前のためにちゃんとブラックも置いてあるよ」
「君のことだからね、心配なんてしてないさ」
スティーブンの横たわるベッドに足を向けるなまえにつられるように、スティーブンも体を起こす。枕をクッション代わりにして腰の下に敷くと、なまえに向かって両手を伸ばした。ベッドの横のサイドテーブルにカフェオレの残るマグカップと灰皿を置いたなまえが、当たり前のようにベッドに乗り上げて、スティーブンの腕の中に収まる。
甘いバニラの薫りに、くらりとめまい。誘われるように唇を重ねれば、ミルクの甘さが舌先に伝わる。
どうしてだかとても泣きたくなって、情けない顔を見られまいと、抱き締める腕の力を強めた。
「どうしたんだ、スティーブ。甘えてるのか? 珍しい」
「たまには俺も、そんな気分になるさ」
なまえを腕に抱いたまま、ずるずると体を滑らせる。そのままベッドに横たわり、なまえのサラサラの赤髪に口づけた。
「まだ眠いんだ?」
「ん? んー。なまえももう少し寝よう」
頬をぐりぐりとなまえの頭に押しつければ、くすぐったいのかくすくすとなまえが笑う。
「寂しかったのか?」
「そうかもね」
「そうかそうか、寂しかったのか」
スティーブンの腕の中から身を乗り出し、顔中にキスを落とすと、なまえは満足げに息を零した。そうして体を元の位置に戻し、裸のスティーブンの胸に頬を寄せる。
「仕方ないから、一緒に寝てやろう」
上目遣いでにんまりと笑うなまえに苦笑が漏れる。
好きだ。なまえが、好きだ。
この幸せが、いつまでも続けばいいのに。
ずっと――永遠に。
「旦那様?」
バチリ。
音が立ったかと思うほど、勢いよく目を見開く。見上げた天井は見知ったもので、のぞき込んでくる顔も、よく知るものだ。
「……ミセス・ヴェデット」
「申し訳ございません。気持ちよく寝てらしたようだから、起こすつもりはなかったのですけれど……」
おずおずと差し出された白いハンカチに、スティーブンは己が涙を流していることに気づいた。呆然としたままハンカチを受け取り、息を吐く。スティーブンが眠っていたのは、ベッドですらない。リビングのソファだ。
部屋を満たすのは、バニラの薫りだった。覚えのある薫りだ。けれど部屋には煙などなく、バニラ以外にもベリー系の薫りも漂っていた。
「お菓子でも作ってたのかい? 甘いにおいがする」
「ええ、そうなんです。先日お許しをいただきましたからね。旦那様の分まで作る代わりに、子供たちのお菓子を作ってもいいと。ここのオーブンは大きいから助かります」
「それはよかった。ヴェデットの作るものは、お菓子も美味いんだろうね」
ああ、この薫りのせいか、とスティーブンは思った。それから、今日という、この日だからこそ。
ヴェデットのお菓子談義に相槌を打ちながら、スティーブンは部屋のカレンダーに視線を向けた。彼女の話に集中できていないことを、喋り続けているヴェデットにも気づかれていただろうが、聡明な彼女は知らぬ振りをしてくれている。
カレンダーには、何も記されてはいなかった。今日という日がどんな日であるのか、スティーブンは何も記入しなかった。だけど、特別だった。
「……ミセス・ヴェデット。話を中断して申し訳ないが、カフェオレを貰えないかな」
「構いませんよ、旦那様。ただちに準備いたします」
「うん、頼むよ。俺は――僕は、ちょっと外で煙草を吸ってくる」
「外、ですか?」
「うん。テラスにいるよ」
笑顔にすらなっていないだろう笑みを見せて、スティーブンはテラスへと足を向ける。途中、私室に寄って、灰皿と煙草を用意する。
長い間触れていなかった煙草ケース。きっと中の煙草は、湿気っているに違いない。
金属製のそれを開くと、キィ、と軋む音を立てて、箱が開く。思った通り、あの頃のようにバニラは薫らない。余り数の多くない煙草を一本取り出し、煙草と一緒に入っていたジッポを取り出す。スティーブンに残された、彼の唯一の名残だ。唯一の、形見だ。
「そうか、今日は君の命日だったな」
何度かジッポの火に近づければ、なんとか煙草に火がついた。それに口をつけることはしない。その煙草は、スティーブンのためのものではないから。もうすぐ運ばれてくるだろうカフェオレも、ヴェデットには悪いが、恐らく口にすることはない。
「まるで今までが悪夢だったんだって、笑ってくれればいいのに」
そうして、またスティーブンの腕の中で、かつてのような笑顔を向けてくれればいいのに。
叶わぬ夢と知りながら、スティーブンは愚かにも願った。
バニラの薫りと煙が、青空に溶けて消えていった。
prev / next