部誌6 | ナノ


【フラジヰル】



変化は、いつだって突然だ。
けれどきっと、本当は気づかないだけで、すぐ後ろにあるものなのだ。
じわじわと変わりゆくもの。変化に気づかず、すべてが終わってから、そこに変化があったのだと気づく。

同じように、きっと終わりも、突然なのだ。
薄氷の上を歩いていたことに気づかなかっただけ。
踏み壊して初めて、足元が壊れやすいものだったことに気づく。
今のように。



みょうじなまえがそのひとのことを知っていたのは、幼馴染の会話に出てきた人物だからであり、テレビで時折見るひとだったからだ。忍田真史。ボーダーというヒーローたちの集まる組織で、本部長を務める男。

「やあ、みょうじなまえくん、だね?」

初対面の相手に友好的な態度をとられ、みょうじは思わず身を引いていた。といっても車いすの生活をしているために、体を後ろに引いても上半身だけ。それもすぐに背もたれにぶつかってしまう。

「驚かせてしまったかな。私は忍田真史。慶の師匠だった。君の話は、よく慶から聞いているよ」

だからか、初めてという気がしないんだよ、と人のよさそうな顔で忍田が笑う。こんな有名人が一体自分に何の用なのか、わかりかねてみょうじは戸惑うことしかできなかった。
なんとなく、予想はついた。ボーダーである忍田と、一般人のみょうじの接点なんて、それこそ幼馴染みである太刀川慶くらいしかいない。

太刀川に、何かあったのだろうか。けれどそれを忍田がみょうじに言う理由がない。太刀川に何かあれば、みょうじがそのことを知るのは、太刀川の母親伝手に、随分遅れてから、だろう。あるいは知らされることすらないのかもしれない。ただの幼馴染でしかないみょうじに、忍田から知らされる道理はない。
では、他に何があるかと言えば。
心当たりは、ひとつしかなかった。

「……おれに、何か御用ですか」

いつか、とは思っていたのだ。それでもいずれくるその時を、先延ばしにしていたのは、みょうじだった。

トリオンの少ないみょうじに、サイドエフェクト、なんて上等なものはない。それでも、緊張感を感じ取ることには長けていた。
車いすでの生活は、恐らくは常人の生活よりも、神経をとがらせる必要がある。車いす自体が幅を取るものであるから、周りの状況に常に気を配らねばならない。車いすでは、いざというとき逃げられないからだ。咄嗟の事態に体が反応しても、重い車いすが行動の邪魔となる。動かない足もそうだ。
だからみょうじは、予測立てて行動することに慣れてしまった。そうせざるを得ない環境だからだ。

周囲の空気からも、みょうじは状況を読み取る術を得ていた。だからこそ、今の状況が危ういものであると思っているのだ。三門市に広がる不穏な空気を、みょうじも感じ取っていた。

「この間のことなんだが」

告げられた一言に、目の前が真っ暗になった。
忍田の口から告げられた一言は、みょうじにとっては予想もしていない事実だった。

その後、どうやって忍田と別れたのかはわからない。気付けば自分の部屋に戻っていて、暗い部屋の中で茫然と車いすに身を任せていた。

(この間、近界民の襲来があって)

忍田は言いづらそうに口を開いた。躊躇いながら、それでも必要なのだと、意を決して。

(慶が、怪我をしたんだ。近界民が、君の住む場所に向かっていると確認した時に)

ただの油断だったのだと、忍田は告げた。太刀川の失態以外の何物でもなく、他の誰が悪いわけでもない。怪我も軽傷で、そのすぐあとに近界民を退治できるほどだったのだと。

重要なのは、そこじゃない。忍田が言いたいのは、そんなことじゃない。
太刀川が、油断するほどにみょうじに気を取られてしまったことが、問題なのだ。

ボーダーは、ヒーローだ。三門市の住民にとって、ヒーロー以外の何物でもない。
襲いくる化け物たちに立ち向かう、みんなのヒーローであらねばならない。

たった一人のヒーローであっては、ならないのだ。

太刀川にとっては、なんでもないことだったのかもしれない。それでも太刀川が、目の前にいたかもしれない誰かではなく、遠くにいるだろうみょうじに気を取られて怪我をしてしまったことは、目を背けることが許されない事実だ。

みょうじなまえは、ボーダーでナンバーワンアタッカーである太刀川慶の、アキレス腱である。その事実は、決してあってはならない事実だった。
ヒーローは、公平であらねばならない。大切なひとが傷ついていても、それでも。他の多くの人々を優先しなくてはならない。それがあるべき姿なのだ。

「どうしよう」

溢れた言葉は音にもならずに空気に消えた。どうしよう。どうしよう、慶。

まさかこれほどとは思わなかった。太刀川は確かに、己よりもみょうじのことを優先しがちだ。それは過去の負い目から、そうなっているのだろう。習い性のようなものなのだろうか、それが癖になっていたのかも。
それでもボーダーのアタッカーとして闘う太刀川は、プライベートを切り離しているのだと思っていた。師匠である忍田との付き合いは長いから、みょうじのことを口に出す機会もあるだろう。けれどその程度だと思っていた。ボーダーの活動中に怪我を負うほどだとは思っていなかった。

みょうじが車いすでの生活をすることになったのは、確かに太刀川と二人で無謀なことをしたからだ。幼い頃に、太刀川に誘われるがまま遊びにいった先で、近界民に襲われて、怪我をして足が動かなくなった。
動かないせいでガリガリになった白くて細い足を見下ろす度、やるせない気持ちになる。楽しげに走る人々を見る度、羨ましくてたまらない。だからといって太刀川のせいにするつもりは、みょうじにはさらさらない。

これは己の過失だ。みょうじは太刀川の誘いを拒否することもできた。あの時は太刀川の方が小柄だったから、無理矢理太刀川を引っ張って行くことだって、みょうじにはできたのだ。だからこそ、みょうじの現状はみょうじ自身の問題であり、太刀川はそのきっかけにすぎないと考えている。
みょうじ自身がそう思っていても、太刀川にとってはそうではない。わかっていたつもりだったが、真実、理解してはいなかった。

暗闇に慣れた目で部屋を見渡す。マンションの一室を買い取り、車いすでの生活をすること前提で改築した部屋。三門市から離れた母が、本当にここでいいのかと、何度も何度も尋ねてきた。その度にみょうじは、ここがいいのだと、三門市を住まいとして、それで。

何も。何も、わかっていなかった。
太刀川を支えているつもりでいた。けれど本当は、彼の重荷でしかなかったのだ。みょうじがいることで、太刀川に躊躇いが生まれる。その躊躇いが、街の誰かを、太刀川を殺す。

嬉しい、なんて。
思う資格はない。そんな状況でもない。それにきっと義務感から起こってしまった事態であって、そこになんの意味もない。何よりみょうじを優先されて太刀川が怪我をする、そんなことはあってはならないのだ。

胸のうちにいつの間にか生まれ、巣食っていた感情に吐き気がする。なんて醜い。善良ぶっていながら、本当のところはこんなにも浅ましい。
気にしないで欲しい、ボーダーとしての仕事や、守るべき市民の誰かを守るべきだと、そう口にしながら、車いすに座る姿を見せつけることで太刀川を縛りつけていたのは、他の誰でもない、みょうじ自身だった。

みょうじの独善が、慢心が、エゴが。知らない誰かを、太刀川を傷つける。
他の誰かより、誰より。みょうじは太刀川を失うことを怖れた。ずっと、そばにいて欲しい。けれどそのせいで太刀川を亡くすのは、本意ではない。本末転倒だ。

みょうじなまえは太刀川慶に特別な感情を抱いている。それは恋や愛なんて言葉では片付けきれない想いだった。肥大した独占欲を押し隠し、なかったことにしても、みょうじのなかに存在し続けている。
幼馴染みだからか、みょうじの足が不随になった起因だからか、理由なんて自分でもわからない。わからなくても、太刀川があらゆる意味でみょうじにとって特別である。それを知っているだけで充分に思っていた。

そして太刀川も、みょうじが抱く感情と種類は違っていても、幼馴染みであり太刀川にとっての被害者であるみょうじを、特別にしてくれているのだろうと思った。それだけでみょうじにとっては充分だった。

しかしその特別のために、太刀川が損なわれるのであれば、話は別だった。

「……っ、う、あ」

気づけば涙が流れていた。拭うだけの気力もなかった。呼吸は荒くなり、えづくように震える体を、自分で抱き締める。

この街を、出よう。
慶のそばを、離れよう。

恐らくはそれが最善だ。車いすのみょうじにとって安全と言いきれる場所は少ないが、それでも三門市にいるよりはずっと安全だ。近界民に襲われない、それだけできっとリスクは随分と減る。そもそもが、この三日月市で車いす生活をすることこそが非常識だったのだ。
どこに引っ越すのか、まだ見当すらつけられないが、ひとまず家族の元へ身を寄せよう。そうして少しずつ離れていけば、太刀川もきっと、みょうじのことを思い出す回数も減る。年齢のわりに仲がよかった幼馴染みという関係も、上辺のだけものなっていくに違いない。

夢のような時間だったと、今になってみょうじは思った。
気づかないだけで、こんなにも。日常だと思っていた時間は、尊く、儚く、幸せな時間だったのだ。

壊れてしまった今だからこそ、強くそう思った。



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