部誌6 | ナノ


月が見えない



「……あ」

思わず声が漏れたのは、美しい月が頭上に輝いていたからだ。低く大きく見える月。下ばっかり向いていたにしろ、この大きさと美しさに気づかない方がおかしいような、そんな月。
淡い銅色を重ねたような白銀。満月だ。中秋だのなんだのといった季節ではないはずだが、それにしても大きい。感嘆の声を漏らしながら、木吉鉄平はしばし佇んだ。

第二の我が家とも言うべき恋人の部屋へと向かう途中である。惣菜とデザートを買い込んで、おうちデートと洒落こむにはなかなかロマンチックな夜だった。

ひらり、視界の端に何かが掠めてそちらに視線を向ける。赤い小さな灯火が、木吉の関心を誘うように揺れる。そこは確か、木吉の目的地で、つまり恋人であるみょうじなまえの部屋だった。木吉と同じように、ベランダで月見でもしていたらしい。
ひらひらと誘うように赤い灯。恐らく手を振っているのだろう。まるで誘蛾灯に誘われる蛾のように、木吉はふらふらと、みょうじの住むマンションへと足を進めた。

夢遊病みたいだ、と木吉は己をそう評した。慣れた道のりは意識しなくても木吉の体を動かす。エレベーターに乗って、目的の階数を押して、土産の袋の絵を握りしめる。
足元からじんわりと這い上がってくるのは甘いなにか。どきどきと期待に胸を膨らませながら、木吉へ目的の階で狭い密室から抜け出した。早足で目的地に向かい、申し訳程度に呼び鈴を鳴らし、合鍵で部屋に入る。

いつものおかえり、の声がなかった。
そのことに僅かな寂しさを覚えながら、ダイニングに惣菜とデザートが入った袋を置き、ベランダに顔を出す。

「ただいま」

「おかえり」

木吉が声をかければ、いつものやりとりだった。にこりと微笑むみょうじが振った手には、見知らぬ煙草が鎮座していた。
普段通りの対応に安堵し、見知らぬ煙草に少しの妬心。木吉の知らないみょうじの片鱗がそこにあった。

「吸ってたか?」

「ん? ああ……前の会社で付き合いで。煙草なんて嫌いだったけど、なんか癖になっちゃって」

苦笑を見せるみょうじが、どこか寂しげで。独りにさせたくないなと木吉は思い、ベランダに出てみょうじの隣に並んだ。

「靴下汚れるぞ」

浮かべた笑みは先ほどとは異なり、くすぐったそうなもので。洗えばいいさと返しながら、嫌がられはしなかったらしいと内心安堵の息を吐く。
そういえばベランダに出たのは初めてだったかもしれない。そのことに気付いた木吉は、物珍しさを隠さずあたりを見渡した。狭いそこにはエアコンの室外機があり、上には煤けた灰皿と、見覚えのあるマグがあった。かすかな温もりの残るコーヒーがなみなみと残っており、木吉は特に許可を得るでもなくそれを口にした。みょうじも何も言わなかった。二人の間でそうしたことは、ずっと前から許されていたことだからだ。

「月見か」

「んー、今訳してるのが、まさしくこんな感じ」

みょうじの視線が月に向けられる。
独りでここで月を眺めていた時、みょうじは何を考えていたのだろうと、木吉は夢想した。
元スポーツマンの木吉の前だからか、みょうじは健康に害を成しそうなものを、木吉のそばに置かなかった。この十数年間、煙草など影も形もなかったのだ。巧妙に隠していたのだろうと容易く想像が付くぐらいには堂々とした吸いっぷりであり、使い古された灰皿だった。
シンプルで、それでいてどこか女性らしい繊細さを感じる、銀の灰皿。みょうじの好むようなものではないな、と考えたとき、それが誰からの贈り物だったのか、察してしまった。

未練などない、とみょうじはあのとき笑った。こうすることがきっと正しかったんだと。彼女を不幸にせずに済んでよかった、と。
婚約を破棄したみょうじ。それ以来、かつての婚約者の影も形もない。今、こうして灰皿存在で思い出したくらいには、木吉の中では過去のひととなっていた。

でも、みょうじにとってはそうではないのだろうか。こうして灰皿を手元に置いておくくらいには。
隠していた煙草の存在のように、密かに彼女のことを考えたりしていたんだろうか。

みょうじと心を通わせ、体を繋げるようになってから、木吉の中には醜い感情が芽生えていた。バスケを失ったばかりのころには見ないようにしていたもの。どろりと黒く醜い感情。嫉妬だ。心の底からどろどろと湧き上がってくるものを、木吉は制御できなかった。みょうじとの触れ合いで昇華できるものの、ふとした折にどろどろは木吉を苛んだ。

今のように。

「あ、こら」

一人分ほどは空けていた空間を狭める。寄り添うように肩にもたれかかれば、近い、とみょうじは頬をうっすらと赤らめて木吉を睨んだ。

「ご近所さんに見られたらどうすんだよ」

「俺はかまわないが」

「おれが構うの」

ぐいぐい肩を押して引き離そうとするみょうじの力は同じ男でありながら、木吉よりは随分と非力だ。バスケで鍛えた体幹と筋力を活かしながら、さながらゴール下のポジション取りのように巧みにみょうじの体にすり寄る。いつからここにいたのだろうか、みょうじの体はすっかり冷えていた。

「風呂入ったのか? 湯冷めしてそうだ」

「大丈夫だろ」

他人ごとのようにさらりと言って、みょうじは最終的に諦めた。呆れたような息を吐きながら、隣の木吉の肩に後頭部を預ける。気遣うようなささやかな重さと、低めの体温が心地よい。二人で寄り添うように月を見上げ、こんな風なのも悪くないな、と思った。

煙草は、木吉の知らないみょうじの過去の象徴のようだった。
社会人として企業に身を置き、付き合いで好きでもない煙草を吸う。言いたくもないおべっかなんかも言ったかもしれない。変に気遣い屋の彼のことだから、そうしたやりとりは神経の磨り減るものだったろう。婚約破棄からそう時期を置かず、すぐに会社を辞めて――そう考えれば、今のみょうじこそが、あるべき姿なのだろうか。

そうであればいい、と木吉は思う。己の前でだけ、あるがままをさらけ出せばいい。誰にも、婚約者だった彼女にすら見せない姿を、木吉だけに見せればいい。

そうして思い浮かぶのは、木吉の腕の中で涙を流す、みょうじの姿で。

無性に触れたいと思うのは、男の性であるからして、仕方のないことだろう。意志を持って動く木吉の腕が、みょうじの腰を抱く。びくりと震えたみょうじの顔は、先ほどとは比べものにならないくらい赤くなっていた。

「ちょっ、と!」

「んん」

抱き寄せ、髪に鼻を埋めれば、シャンプーと、みょうじのにおいがした。そのことがますます木吉の興奮を駆り立てていく。

「意味わかんねえ、なんでいきなり……っ」

「おれはいつもこうしたいって思ってるぞ?」

熱を持つ頬に唇を寄せ、反駁しようとするみょうじの口を己のそれで塞ぐ。木吉を体を引き離そうとしていた腕が、唇の重なる時間が伸びるにつれ、力を無くし、すがりつくようなものになっていく。

誰かにみられる。
喘ぐように告げられた声に、見せてやればいいと思った。みょうじなまえが間違いなく木吉鉄平のものであると、白日の下にさらすことに、なんの抵抗もない。むしろ歓迎したくらいだ。

どうしてこんなに、好きなんだろう。
今までの十数年が馬鹿らしくなるほど、木吉はみょうじという存在を求めてやまない。みょうじさえいればそれでいいと、本気で思ってしまえる。

「でも。お前のこんな姿を見せるのは惜しいとも思うんだよなあ」

「っぁ、な、に?」

「いいや、なんでもないさ」

みょうじの体を抱き上げ、木吉は室内へと移動した。ベッドルームに向かっていることに気付いたのか、恥じらうみょうじが愛おしい。ベッドにみょうじを優しく下ろすと、窓際に移動してカーテンを握り、月を睨む。

みょうじの視線を奪っていた無機質な月にだって、とっておきの姿を見せたくないくらいには、木吉はみょうじを愛してやまないのだった。



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