部誌5 | ナノ

落日




 恋の終わりを悟ったのは、恋をした、そのことに気づいた時だった――とまあなんと青臭いことこの上ない、と少しばかり残っていた自らの純情を、悪逆めいた荒んだ心と、皮肉と、諦めとを混ぜてドロドロに溶かし隠してしまったのはいつの日のことだったか。おれは、おれから離れたところから見下ろしている「おれ」に、そうため息を吐かれている。
 何か嫌なことがあると、「おれ」は、おれの中にはずっと閉じこもってはいられず、すぐに耐え切れなくなって飛び出してしまうのだった。そういう卑怯の一面を持つおれが、優しくて、甘く、心温まる何かを期待するのは大間違いだ。

 気分が優れないにもかかわらず、おれは、割かし小奇麗な格好をして電車に乗り込んだ。田舎の電車だ。一時間に三本あればいいところで、おれはその内の遅い方の電車を選んだ。よりにもよって天気予報が的中したとおり、大雨から大みぞれ、すぐに大雪に打って変った最悪の天気の下、昼過ぎにもかかわらず外は薄暗い。眼鏡を家に置いてきたおれの視界では、すべてが曖昧だった。色味のない、目暗の世界だ。
 最近になってようやく新型に切り替わった車内の中、時折都会に行く時に見た都会ならではの座席に座り込んだ。薄茶色のカバーで、表面はもこもことしていて、暖かい素材でできている。汚れの一切が目立たなさそうな色だった。
 二人分のスペースはあったが、隣に誰も座られたくなくて、抱えていた鞄を座席の境目から少しはみ出して、テリトリーを主張した。ちっぽけな主張は日の目を見ることはなく、人の少ない空いた電車の中では、周囲の人の目には、むしろこのおれの目にさえも、景色のように溶け込んでいるようだった。
 憂鬱を捨て置いてでも電車に乗り込んだのは、大学時代に付き合いのあったある人と食事にいくためだ。あの人と連絡を交わしたメールに、一々保存はかけなかった。そもそもメールアドレスを変えたまま教えずにいたのに――メールアドレスがつながらなければ、よっぽどのことがなければ電話などしてくるはずがない――おれの見知らぬ縁が折り重なって、あの人から知らない番号で電話がかかってきた。それはまるで特別な知らせのようで、ある意味断罪の鐘の音そのものだ。どうにか薄まって、そのまま時間の流れで記憶の片隅に追いやられるはずのものが、また溢れ出してきそうなのが嫌だった。少しでも遠ざけようとアドレス帳からも、あの人とおれとに関係のある人たちすべて削除してしまったのに。
 電話で聞いた話によると、あの人はおれの知らない人と結婚するらしい。おれはどうも祝える気がしなかった。今までに友人たちの結婚式に参加したことはあったが、正直なところ、うまく祝えなかったと思う。それはおれに恋人がいないからとか、他人の幸福が憎いとか、そういうことではなくて、ただ恋の何がすばらしいのか、お互いにお互いが肉欲も踏まえて愛しているだのとのたまうことが、ささくれたおれには理解できなかったからだ。理解しようとさえしていなかったのかもしれない。自分の心でさえ腫物扱いしているというのに、ましてや他人の心など、どういった経緯で幸せという結末に導かれたということなど、知りたくはなかった。おれは何も知らないふりをしていたい。
 電車の中ではひそひそと他人の話し声が飛び交っている。どこかの駅に到着するたびに人は入れ替わり、ある時には口うるさい連中が大声で話しだしたり、黄色い声が辺りに充満したりする。おれの耳に届く他人のどうこうなど、所詮こんなものでしかなくて、それが会話であれ、その人の重大な報告であれ、その程度なのだと。そうに違いない。
 四十分かけて、ようやく目的の駅に到着した。プラットフォームに足を踏み入れる頃には、おれは、おれの一部を上空にとばして、おれの行く先のすさまじさを眺めさせている。一部を切り落としたおれは、しっかりと仮面をはめて、あの人が知る「おれ」になった。前祝いのしゃれたグラスを包んだプレゼントを抱え、あの人との待ち合わせの出口へ。メールの着信で向こうが到着したことが分かると、それらしい車を見つけた。みぞれ雪を踏みしめ、足跡を残して、そのドアを開く。ぼんやりとした視界の中で、あの人のずっと美しい顔が輝いていた。それを見たきり、大して頭は働かなかった。

 帰りの真っ暗な車窓を眺めながら、そこに映るくたびれた顔の遠くにあの人の顔を重ねた。外に雪はない。街灯や家々の窓からこぼれた室内灯の明るさが、まばらに散っている。窓の端に灯ったかと思えば、電車の走る速さに押し流されていく。まるでほうき星のようだ。
 その光をかき集めたような婚約指輪を、あの人は自分の好きな人からもらったのだとおれに見せてくれた。その輝きが、その明るさが、おれの目の内に消えていく。きらきらと光る顔を見て、ついおれは定型句のように、何が決め手だったのかと尋ねたのだが、あの人は「この人しか考えられない」のだと答えてくれた。その時に、なんとも言えない心寂しさと、心を寄せる隙間のない、美しい幸福を見た。おれの傍には寂しさが、あの人の隣には幸せがあることを知って、――否、はじめから分かっていたことなのだろうが、――いっそう自分がみじめだった。あの人を遠ざけて何とか形を保っていたわずかな火が、その方向を失って煙となってしまった。せめて色だけでも残してあればよかったものを、おれはおれよりもあの人を優先した。あの人が大事にした幸せの方を取った。
 目の光を目蓋で閉ざすと、うっすらと褪せていく火の色がかすかに残っている。形を変えざるを得ず、ついには消えてしまうことを選んだ恋の色だ。朱い色をしていたが、目の闇に沈んで溶けてしまう。
 叶わずに死んで滅びた、おれのわずかな恋心だった。



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