部誌5 | ナノ

落日



夕暮れの中、手を繋いで歩いた。
握った手は少し湿り気を帯びていて、緊張でもしているのかなって、そう思ったりもした。
すでにもう、遠い昔になくなってしまった過去だ。


みょうじなまえが車いすの生活を始めて、もう5年になる。5年もこんな生活を続けていれば、慣れてくるのは当然のことと言えた。不便といえば不便だが、上半身に問題はないのでそう苦労は少ない方だろう。少し生活に工夫を凝らせば、そこらのひとと変わらない生活もできる。

「なまえ」

みょうじにとって当たり前の生活も、多数派の人間にとっては不便で不幸に見えるのだろう。大丈夫だと何度言い聞かせても、幼馴染はみょうじの家に通い詰める。暇さえあれば、入り浸るように。単純に入り浸ってもいるのかもしれないが、みょうじを気遣っているような気もした
みょうじが車いすの生活を始めるきっかけを作り出したのは、幼いみょうじ自身だ。みょうじはそう思っているし、それ以外に理由などないと思っている。けれど幼馴染は違うようで、自らが原因であると思い込んでいるようだった。

5年前の、あの日。幼馴染に遊びに誘われた先で、みょうじは近界民に襲われた。そのときに負った怪我が原因で今も歩けないままだ。リハビリを続けてはいるものの、なかなかままならないのが現実だった。それでも諦めるつもりは毛頭ない。現状を嘆き続けることもなかった。前も向いて歩き続けていくしかないのだと、知っているから。
どちらかというと現実を見ていないのは幼馴染の方であると、みょうじは思っている。幼馴染にとって、みょうじはいつまでたっても「可哀想ななまえくん」のままなのだ。その認識に苛立ちを感じ、何度か諭したり怒ったりしたものの、あまりのなしの礫っぷりに、みょうじはすでに諦めていた。幼馴染は、頑固なのだ。

「夕飯、何にする?」

作れもしない癖にエプロンをつけて、包丁を握る幼馴染――太刀川慶の姿に、みょうじは溜息を漏らすことで返答とした。

「慶。その包丁をまず置いてくれ」

今まで向かっていた机から方向転換させるために、みょうじはまず机から車いすを遠ざけ、くるりと回転した。大きな車いすで家の中を動き回るので、部屋の中には障害物になりそうなものは一つもない。あるとしたらだらしなく床に放置された太刀川のコートくらいだろうか。まったくもう、とコートを拾い上げながら、ゆっくりとキッチンへ向かう。車いすのみょうじのために低く設定されたキッチンは使いづらいに違いない。何より生活面において他の追随を許さないほどの不器用ぶりを誇る太刀川に、包丁を握らせる勇気はついぞなかった。
なんだかんだで毎回みょうじが料理することになるのだが、太刀川が包丁を持つことを諦めることは今までない。いい加減に諦めて欲しいと、切実に願っている。

「仕事中だろ? 俺がやるよ」

「いいから。頼むから、包丁を置け」

こてりと首を傾げる姿に、ますます危機感が募る。濁ったような瞳は、このままではまずいという気にさせた。

「適当にチャーハンでも作るよ。それでいいか?」

「いいけど、お前、仕事は」

「休憩。ちょうどいい息抜きになる」

笑って言えば、納得のいっていないような顔で太刀川が頷く。そのことに少しほっとしながら、みょうじは腕をまくってキッチンに入り、冷蔵庫へと向かった。野菜室から適当に野菜を取り出し、冷凍庫から豚ミンチと冷凍ご飯を取り出す。

「慶。玉子欲しかったら自分で取って」

「ん」

みょうじの家の冷蔵庫は、ほかの家具・家電に比べれば背が高い。冷蔵室など、開くことはできても、奥のものや上のものを織り出すことはできない。野菜室でさえ危うい始末だ。
車いすであることを考えて、一人用の背の低い冷蔵庫を買うことをみょうじは考えていた。それを押しのけて、家族用の大きな冷蔵庫を買い与えたのは、太刀川だった。その大きさではみょうじにとって大きすぎ、また不便でしかないことを訴えても、太刀川は笑うばかりで。必要ならば俺がとるからいいだろうと、そう押し切ってしまった。

ふざけるなと怒るみょうじに太刀川は笑みを深め、そして自らの宣言通り、みょうじの家に入り浸って必要なものを取り出してくれている。こんなところばっかり有限実行でどうするんだろうか。太刀川の将来が今更ながらに不安に思えて仕方ない。
低い調理台で手早く野菜を刻んでいく。大学入学を機に、車いす生活になれるために一人暮らしを始めて、そろそろ2年。料理も初めのころよりはずいぶんとうまくなったはずだ。焦がすばかりだったあの頃と比べれば、雲泥の差だろう。

いついなくなるのかわからないんだから。みょうじの母の口癖だった。親に何かあったときでも、一人で生きていけるように。車いすの生活を始めたみょうじに、みょうじ母は家事方面で鍛えぬいた。お陰様なんとか一人暮らしでも生きていけている。太刀川という助力もあるが、邪魔になることの方が多いだろうから、それは助力に数えなくていい、と明言したのはみょうじ母と、太刀川母そのひとである。

大学に通いながら、家事をきちんとする。空いた隙間は、友人と遊ぶよりも、自分の部屋に戻ってきて、もっぱら趣味にいそしんだ。遊びに行った先で友人たちに気遣わせるよりは、その方が自分も気楽だったからだみょうじが自宅でできる趣味など限られていた。つまり、机上でできるものだ。
凝り性のみょうじはまず手にとりやすかったビーズアクセサリーに目覚め、羊毛フェルトに目覚め、直に物足りなくなって革小物や彫金にはまった。その頃には趣味の域をこえ、いつの間にかそれを仕事にできるまでになった。なかなかの収入を得ているが、それらすべて車いす生活を快適にするために改造した今のマンションの返済に充てているため、まだ親のすねかじりの身の上である。

そうして、みょうじはひとりで生きていくための土台を、両親の協力を得ながら作り上げている最中である。このままいけば、もしかしたら小物を作って売り、それで生活することも可能になるかもしれない。
豚ミンチと刻んだ野菜を加熱したフライパンで炒める。野菜の火が通るころに太刀川が電子レンジで解凍してくれた冷凍ご飯を放りこみ、中華だしと胡椒で味を調える。味見をして、味見させて、問題なければ皿に盛るだけで完成だ。

この簡単な作業ですら、切り傷や火傷になる太刀川に、どうやって調理を任せることができるだろうか。みょうじよりよっぽど太刀川の方が自活できそうにない。将来本当に大丈夫なんだろうか。幼馴染の行く末を心配しながら、差し出された皿を受け取ろうとしたとき、遠く、けれどはっきりした音が鳴り響いた。

《緊急警報。緊急警報。門が市街地に発生します。市民の皆様はただちに避難してください》

太刀川の手から離れた皿が、みょうじの手をすりぬけて落ちる。カラン、と乾いた音がするのは、みょうじの家にある食器のすべてが、プラスチック製だからだった。上半身しか動かないみょうじには、少しばかり遠すぎる距離だった。

「――行けよ、慶」

「……なまえ」

「それが、お前の仕事なんだろ」

微笑むと、太刀川は唇を噛みしめ、ごめんと小さく謝罪しながらみょうじの部屋を後にした。残されたのは湯気を立てる出来上がったばかりのチャーハン。
これが正しい距離なのだと、みょうじは思っている。



太刀川慶がボーダーという組織に入隊したのは、少し前のことになる。少し、といっても数年前のことで、みょうじの足が不随になって少しした頃のことだ。
強くなりたい。そう語った入隊の理由には、もちろんみょうじのことがあったのだろう。今までボーダーという単語すら口にしなかった癖に、いきなり入隊した太刀川である。理由は明白なように思えた。

入った頃は普通の少年だった太刀川が戦闘狂じみているのは本来の資質だったとして、めきめきと頭角を現し、短期間でA級隊員、No.1アタッカーになったのは、本人の資質と、その努力の証に違いなかった。
その頃といえば、みょうじは車いすの生活に慣れるので必死だった気がはずだ。落ち込んだり、後悔したり、恨んだりもした。なんでおれだけこんな目に、と世界を呪いもした。けれど現実は非情なまでに変わることがなかったし、時間はもっと残酷だった。うじうじくよくよしているうちにも、時間は経過していく。世間に置いて行かれるあの感覚は、言葉では表現できない。

みょうじは太刀川と同い年だが、学年としてはひとつ下になる。タイムラグの1年は、今の生活に慣れるまでの期間だ。無為に過ごしていたのは束の間で、すぐにリハビリや車いすに慣れるために訓練を始めた。悔いたように謝り続ける太刀川の姿をこれ以上見たくなかったからかもしれない。
太刀川に誘われて遊びに行った先は、近界民がかつて出現したという場所だった。今となれば三門市に、門が開き始めていたのだとわかる。けれど幼く、また無謀だった太刀川とみょうじには、そこに訪れることが勇気の証明のような気がしたのだ。

その結果、出現した近界民によりみょうじは怪我を負わされた。ボーダーの前身だったという組織の人間によって助けられ、命だけは助かった。後悔もあった。世界を呪った。ただ、自身の怪我の原因は自分の鈍臭さと愚かさにあるのであり、誘ってくれた太刀川が原因ではないと考えていた。

起因は確かに太刀川だったのかもしれない。けれど、一緒に行くと決めたのは、他でもないみょうじ自身だ。自分が誘ったから、と太刀川が自身を責めるのであれば、みょうじこそ本来なら太刀川を諌めるべきだったと自戒せねばならない。もちろん自戒は必要なものであるが、過ぎれば停滞しか生まない。そればかりに足を取られては、先に進むことなどできないのだ。

みょうじは前進を選択した。己に起きた事実が変えようのない現実であるならば、その現実に順応せねばならない。

太刀川はボーダーに入り、努力を重ねてA級まで上りつめた。それでも、停滞しているようにみょうじには見える。みょうじよりずっと先を歩いているはずの太刀川なのに。
まだ、気にしているのだろうか。幾度言葉を重ねても、太刀川の心には響かない。

ボーダーという、まるで正義の味方が集まっているような場所で。誰よりもヒーローに相応しいだろう実力を持つだろう太刀川と、一介の被害者に過ぎないみょうじ。ヒーローと一般人。二人の距離はきっとそうしたもので、過去のことを考えれば、その距離を保つべきなのだと、みょうじは思っている。

「だって、そうじゃないと、お前、先に進めないんじゃないのか」

みょうじの呟きは、警報の音に消えた。



本来であれば、みょうじの方から切り出すべきなのだと、わかっている。それでも口にできないのは、みょうじの中の弱さのせいだ。太刀川があの事件を後悔し、責任を感じ、みょうじから離れるまいとしてうれるからだ。
幼い頃からの感情は変質してしまった。この胸にあるのは、かつてのようにかわいらしいものではなく、醜く浅ましいものだった。

サイレンの向こう側で、太陽が落ちる。やりきれない想いを胸に抱えながら、みょうじは夜に沈むのだった。




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