そう言って君は、
「くだらない」
そう言って君は、泣きそうな顔で笑った。
愛だの恋だの、信じるようなひとではないと知っていた。喜怒哀楽というものに欠けたひとで、それらに振り回されることを嫌悪するようなほどだと、知っていた。
それでも好きになったのは紛れもなく己自身で、後悔なんかはもちろんない。いつか振り向かせてやるって、そんなことばっかり。
好きだと思う感情に嘘偽りはない。それを表現することを惜しむつもりもない。男同士だとか、そんなことも気にしてないし。だって好きになってしまったものはどうしようもない。感情を完全に制御できるほどオトナじゃない。好きだよって、何度も何度でも繰り返してみせる。だってこの気持ちは、本物だから。
「お前さあ、からかうの止めてやってくれないか」
だから突然の笠松幸男の発言を、黄瀬涼太はすぐには理解できなかった。
真剣な顔で、眉をしかめてさえ言うその一言は、黄瀬の右耳から侵入してすぐさま左耳から出ていった。それくらい、理解し難かった。
「え? 何がッスか?」
「だから、なまえのことだよ。からかうの止めてやってくれ」
「……なんスか、それ」
なまえ、その名前にざわりと黄瀬の背筋が揺れた。黄瀬が呼ぶことさえ許されない名前だ。なまえ先輩。黄瀬がそう呼んでも返事をしてくれたことがない。まるで彼にとって笠松が特別みたいで、癪に触る。笠松は彼の幼馴染みなので、間違ってはいないのだろうけど。
「からかうって何なんスか? オレそんなつもりないスけど」
「お前がそうだと思ってなくても、相手にとっちゃどうだかわかんねえだろ」
嫌な汗が背筋を伝った。変な動悸がしてたまらない。どくどくと血管の音が耳の奥で響くような心地がして、その早さに驚きすら感じる。
放課後の部室で、残っているのは黄瀬と笠松くらいだった。みんなでコンビニあたりで買い食いしよう、なんて盛り上がっていたのに、笠松は黄瀬だけ呼び出して居残るように告げたのだ。黄瀬にはモデルの副業もあって、最近は練習にあまり参加できていなかったから、そのことだろうか、なんて黄瀬は軽く考えていた。他の先輩たちを帰すなんて珍しいなあ、なんて。
バスケなんか関係なかったのだから、当然と言えば当然と言える。黄瀬と笠松の共通点はバスケ以外にもあって、それくらい思いついてもよかったのに。思いついたからといって、内容が内容だけに、黄瀬が笠松の誘いを断るはずもなかったけれど。
黄瀬の想い人であるみょうじなまえは、笠松の幼馴染みだ。黄瀬よりもずっとみょうじに心を許されている、それが笠松だ。黄瀬にとってそれは筆舌したがいほどに悔しいことだったが、積み重ねた年月が違うからして、仕方のないことだと諦めてもいた。
何より笠松はいい先輩だ。信頼に足る人物だと、黄瀬も思っているし、実際信じてもいる。だから笠松に匹敵するくらい、自分が彼にとって大切なひとになればいいだけだと考えていた。
判りやすいアプローチをしてきたつもりだ。本気だって、わかるような態度をとってきたつもりだ。まだ黄瀬という人間を信じてはもらえない段階でも、この想いの一欠片くらいは伝わっていると、そう思っていたのに。
「からかうって、なにそれ」
「言わなきゃわかんないのか?」
「オレ、本気ッスよ」
「残念ながら、他人事のおれにだって、その言い分は信じがたい」
溜め息混じりに笠松はそう呟き、自らの短髪をぐしゃぐしゃと乱した。震える黄瀬の声に気づいているのだろう。けれどそれに構うつもりはないようだった。
「お前の性格とか、そんなもんはおれも理解してるつもりだ。お前がどんなやつとか、仲間だからわかる。お前が本気なんだって、わかる。だけどなまえは違う。お前のことを知らない。チャラついたお前が本当はどんな人間かなんて、ちょっとやそっとじゃ理解できない」
「……」
「お前、なまえに好きだって言う口で、いつもみたいな女子にいい顔ばっかしてるだろ。仕事のこともあるし、仕方ねえことかもしれねえが、端から見りゃ不実そのものだぞ」
笠松の言うことは最もで、黄瀬は唇を噛み締めた。どうにかしようとは思っているが、習い性になりつつあるそれを完全に止めるのは時間がかかりそうなのだ。出来る限り控えてはいるつもりだが、それでも何かの折りには出てしまう悪癖だ。
「しかもお前、どっかの教室で女の子と籠って、その、あ、あー……学生にあるまじきことしてただろ……」
「……セックス?」
「そう、それ、なまえに見られてるから」
「えっ! うそ! 授業中ッスよ!?」
「ほんとだったのかよ! 何してんだよ! なまえは自習だったらしくて、たまたま見かけたんだと……馬鹿だろ、お前」
ざっと血が下がるのがわかる。男の生理現象で、楽で気持ちいい方に流されてしまった結果だ。不誠実だとわかっていた。けれど片想いの期間は長く、報われないことを覚悟していても、快楽の心地よさを知っていた黄瀬は誘惑に負けた。
触れたいのは、彼女ではない。そう思いながら、黄瀬は柔らかい女の肉に身を委ねてしまった。
今まで重ねてきた言葉と想いの数々を、自分自身の手で台無しにした。
「なまえは元から愛だの恋だの信じちゃいなかったが、今回が決定打だったかもな」
「せんぱい、どうしよ」
「おれが聞きたいくらいだ。なまえに止められてなきゃぶん殴ってるところだってえの」
かけられた言葉に顔をあげると、笠松は鋭い眼差しで黄瀬を睨み付けていた。
「なまえからの伝言だ」
伝えられた言葉に、黄瀬は笠松を放り出して駆け出した。
目頭が熱い。それでも黄瀬には泣く権利すらないのだ。
夕日も落ちた図書室に、いつもそのひとはいた。
司書の先生に声をかけられるまで、ひたすらそのひとはーーみょうじなまえは、図書室中の本を読み尽くさんとばかりに読みふけっている。
家に、帰りたくないんですか。
たまたま訪れた図書室で出会った、尊敬する先輩の幼馴染みに声をかけたのは気まぐれだった。答えを求めていた訳じゃない。特に答えて欲しい訳でもなかった。
それでも。黄瀬に目線を合わせ、うっすらと微笑むその姿に、黄瀬は恋に落ちたのだ。その微笑みは諦めでもあり、憎しみでもあった。
みょうじの家庭事情を知ったのは、それからずっと後のことだ。みょうじに絡む黄瀬に心配になったのか、笠松が誰にも言うなよ、と念押しして伝えてきた内容は、まるでドラマのあらすじのようだった。そうしてみょうじのあの笑顔の意味を知り、黄瀬はより、みょうじを追いかけるようになったのだ。
両親の不仲故に、みょうじは愛や恋といった曖昧なものを好まなかった。嫌悪してすらいた。信じてなどいなかった。
先輩が好き。そんな黄瀬の告白は、よく鼻で笑われた。
少しずつ少しずつ、みょうじに黄瀬という存在を浸透させていった。時折思い出したように想いを告げること以外は、よい後輩であろうとした。
不意打ちのように想いを告げては、いつか信じてくださいねと微笑む日々。黄瀬はそれで満足していたし、細やかすぎてはいても、着実に変化してゆくみょうじの対応に、期待してもいた。
何もかもがうまくいっていた、そのはずだったのに。
「みょうじ、せんぱい」
肩で息をしながら図書室に駆け込めば、いつものようにみょうじは席について静かに本を読んでいた。黄瀬の声にゆっくりと本から顔をあげ、表情も変えずに時計を見て、帰宅のための身支度を始めた。まるで黄瀬の存在に気づいていなあような対応に、心臓が嫌な響き方をした。
「せんぱい、みょうじせんぱい、オレを見て」
泣きそうになりながら、黄瀬はすがるような声をあげた。向けられる視線は冷ややかで、自業自得だと思いながら、せれでも黄瀬はみょうじに願わずにはいられなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、せんぱい。お願いだから、嫌いにならないで」
もしかしたらと、みょうじは期待しただろう、希望を持っただろう。自らの両親が特別なだけで、周囲の人々にとって、愛や恋というものは信じるに値するものかもしれないと、認識を変えそうになっていただろう。そんなみょうじの変化は、黄瀬がもたらしたものだ。変化の手応えはあったと、黄瀬自身自覚していた。
自らの失態に後悔が止まらない。やってしまったのとはどうしようもなくて、断罪を待つような心地で、黄瀬はみょうじの反応を待った。
「ーーくだらない」
そう微笑んだみょうじの笑顔は泣きそうなそれで、黄瀬自身も泣きそうになった。
「愛だの恋だの、信じるに値しない。お前はそれを、僕に証明してくれたな」
ありがとう。
皮肉混じりのその言葉に、黄瀬は涙を流したのだった。
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