部誌5 | ナノ

ハリネズミのジレンマ



乾いた音がした。衝撃で一瞬の時間が飛んで、目の前にある景色が認識できなかった。ぴりっと引き攣った頬が徐々に熱を持って熱くなる。痛みと熱が混じって、ああ、ぶたれたのだとわかった。
「平手かよ、」
女々しいな、とボヤいて、失敗したと思った。どう考えても言うべきじゃなかった。怒りに震える繋心の肩を見ながら後悔した。
その吐き出した言葉を後悔したところで、どうにもならないこともまた、事実だった。だって、繋心は、なまえの裏切りを知ったから、殴ったのだ。なまえを責める言葉が繋心の口から出てこないことに、少しだけ時間を惜しむように胸がざわついた。繋心が怒ったままで居るのを、見るのが辛かった。なんて独り善がりで酷い男なんだろう、と、勝手なことを思った。
「……俺とさ、お前はやっぱりダメだったんだよ。前後したけどさ、別れよう」
「……ヤリ捨てかよ」
言うに事欠いて、それかよ、とぼやきながら、ぶたれた頬を触った。その熱が、憎いものだと思えなくて、繋心が自分を多分、好いてくれていたのだ。今もまだそうで、だから、平手だったのだ、という気がして、胸の底が疼いた。
抱きたい。彼を、今すぐに。別れようと言ったそばからそんなことを思いながら、慌てて背中を向けた。彼が追ってこない事は、何となく察していた。

「ごめん」と、言えばよかった。
あれからもう、年を数えれば二桁になるというのに、なまえはまだ、それを繋心に言えていない。

「……なぁにしてんだよ」
粗末な節だらけの杉板の天井にゆらゆら揺れる取ってつけたような和風の蛍光灯とその紐を見ながら、なまえはその声にひらひらと手を振った。
ささくれだった畳は気持ちの良いものではないが、その上に取り敢えず綺麗なカーペットが敷いてあるなら寝転ぶくらいは潔癖症気味のなまえにも出来る。
はぁ、と繋心が溜息を吐いた。それから小さなちゃぶ台の上に置かれたビール缶をひょいっと持ち上げて、何本飲んだんだよ、とぼやいた。
いくつだったか。確か、6本入のケースを2つ、買った。まだ二箱目には手を付けていない。取り敢えず6本未満であることは確かだ、と思いながら、繋心が勝手に数を数えてくれるのを待った。
「……4本、お前、そんなに強くないだろ」
そうか、4本か。通りでまわるはずだ、と思いながら、それならまだ動いても問題は無いはずだとそう思った。まだあるな、と、繋心がそう言いながら一メートルくらい離れたところに座った。それを視界の端で確かめながら、ぷしゅ、という缶の蓋が開く音を聞いていた。
なまえの自棄酒に付き合ってくれるらしい。なんて優しいんだろうか、と感嘆して、それをいうときっと、あまりにもわざとらしくて冷え込んでしまいそうなそんな気がしてやめた。
いつだってなまえは、無神経な言葉を繋心に投げかけてしまう。それは、自覚済みだった。
ぐっと腹筋の力で身体を起こしたなまえは、一メートルほどの距離をにじり寄って詰めた。カーペットにぐっとシワが寄る。顰め面をした繋心が、眉を顰めて、それでも了解したというようにちゃぶ台の上に、ビール缶を置いた。そういう物分かりのいいところも、なまえは好きだった。
顎を掬い取って、唇を重ねる。ビールがまだ冷えていたのだろう、繋心の唇は冷たかった。受け入れるように薄く開く唇を順番に舐めて、それから歯列を確認する。舌を合わせて、唾液をすする。好き勝手にするために後頭部に差し入れた手で、褪せた金髪をくしゃりと握った。
胸に体重をかけて軽く押すと、するりと倒れた身体が、45度を過ぎたあたりで止まった。力が込められた腹筋に手を当てて、かたい、と思いながら、軽くついばむように唇を吸って離す。
「……かあちゃんが」
「……お前が来たら、出かけるって言ってたな」
嘘ではない。本当のことだ。それを聞いた繋心が、少し安堵したように腹筋の力をゆるめて、それに付け込むようにして押し倒した。
体育館の、臭いがする。汗と、それから、すうっとする、湿布みたいな臭い。シャワーをまだ浴びてないんだ。帰ってきて真っ先になまえの居るこの部屋に来たんだ、そう思いながら、首の付根に鼻先を押し付けて鎖骨に歯を当てて舐める。そうされると、繋心が感じるのを知っていた。
「っ、……なまえ、」
呻くようにして、なまえの肩を押しながら繋心がいう。なにか言いたいことがあるのだろう。それを、出来れば聞きたくないと思いながら、なまえは「なに、」と冷たい声で言った。
「……何か、言うべきことがあるんじゃないのか」
説教臭くなったのは、最近学校で監督をはじめたからだろうか。と思いながら、なまえは首を傾げる。少し赤くなった頬。潤んだ唇に、満足しながら、繋心のシャツをまくり上げた。
「……ヤらせて?」
「馬鹿野郎」
こつ、と頭に拳をつけられて、儀礼的になまえはイテ、と言った。それを見ながら繋心は顔を顰める。それを見ながら、きっと多分まだ、繋心は自分のことを好いてくれているという気がして、胸の奥が疼いた。
「……じゃあ、慰めて」
「……相変わらず、酷い男だな」
深い溜息と共に吐き出した言葉が、哀しい色をしているのを、なまえは知っていたけれど、それをフォローするような繊細さを持ち合わせていなかった。
だから、女にフラレるんだ、と繋心は言って、自分を捨てた男を慰めてくれる。だけれど、なまえは女にフラれる理由がそこには無いことを知っていた。
恋をすると、人は、愛の分量に聡くなる。疑り深くなる。自分がどれだけ愛されているのか知りたがる。そうして、なまえの彼女は、なまえが自分を一番に愛していないことを知ってしまう。
そうしてフラレて、なまえは慰めて、という大義名分を持って繋心を抱く。
「そうだよ、俺は酷いんだ」
「自分で言うな」
繋心がもう一度拳を頭にぶつける。その動きを無視するように痛いとも言わずに、なまえはそのまま、繋心の唇を奪った。


「タバコ、」
掠れた声がして、それになまえはオーケーと答えた。なまえは喫煙者ではないから、一応繋心はなまえに断りをいれるのだ。
ケツが痛い、とそう言った繋心に悪かったよ、と言いながらなまえは適当に身繕いをして、立ち上がって窓を開ける。流石に、こんなことをしていると繋心の母親に言えば、出入り禁止を食らうに違いない。
彼の家族は、彼の結婚を望んでいるのだから。
ごそごそと、やっとタバコに火をつけた繋心を横目にして、なまえは夜風を背中にした。
「……なまえの相手はみんな女だよな」
声のトーンが少し押さえられているのは、タバコのせいでも情事のせいでもない。窓が開いているからだ。そもそも、情事の最中繋心はほとんど声を上げないから、喉が枯れる、というのは無いはずなのだ。
「……まァな」
嫌なところに突っ込まれている居心地の悪さに腕を組む。それを繋心にチラリと見咎められて、なまえは顔をしかめた。誰よりも先に『お前、都合が悪くなると腕を組むよな』となまえの癖を指摘したのは繋心だった。
繋心は、どれくらいなまえの嘘に気付いているんだろうか。全部ウソで塗り固めて、都合が悪くなったら逃げてしまうなまえは、ひとつも分からないままだった。
「お前さ、俺のこと、好きだよな」
繋心が言った。
口の中に溜め込んできた言い訳や逃げ口上が、喉に逆流して、詰まった。
なんだかよくわからないまま、何もないのに咳き込んで、一瞬にしてクリアだった頭のなかが真っ白になるのを感じる。
好きじゃなかったら抱かないとか、しれっと言ってしまえばよかったのに、そう出来ないくらいに動揺してそれが酷く無様だと思った。
「なまえはさ、きっと、俺のことを好きでも、俺を裏切るよな」
ああ、全部バレてたんだ、と、それでやっと分かった。それは遅すぎた気がした。繋心が、いつもと同じ顔でなまえを見ている。諦めと、悲しみと、それから、未練。今なら細かい表情の意味がすべてわかった。
大きな溜息を吐いて、それから、首元にあたる夜風が、頭を冷やしていって冷静さとあきらめが胸に去来するのを感じた。
「俺さ、体育館の臭い、嫌いなんだよ」
「……知ってる」
あれ、いつこれを繋心に言ったんだっけ、と、思った。もしかしたら、なまえは無意識にいろんなことを繋心に言ってしまってるのかもしれなかった。
「……俺は寂しいのが、嫌いなんだよ」
「……知ってる」
知ってる、知ってる。あれもこれも、繋心は知っている。それを嬉しい事と捉えるか、酷く恥ずかしいことと捉えるか、胸の内が揺れていた。
「俺は、お前の一番じゃないのが、いやなんだよ」
繋心は、いつだって、大好きなバレーを優先するだろう。なまえは、それについていけない。それを、見守ることしかできない。高校の頃から、構図は何一つだって変わってはいない。近くに居れば居るほど、それをひしひしと感じるのが、嫌だった。それから、それを言って、子供の駄々みたいだと、思った。
「……知ってる」
繋心が、言った。




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