ハリネズミのジレンマ
嫌い、嫌いだ。あんたなんて、嫌い。
繰り返すようにそう告げるのは、そうしないと全部バレてしまいそうだからだ。
「弟クンはっけーん」
緩い声で声を掛けられて振り返る。そこには不愉快な人物がおれを見下ろしていて、眉間に皺が寄った。年上の人間に失礼な態度だとは思うが、相手がこいつなら――及川徹なら構わない。だって、嫌いだし。
「そんな嫌な顔するなんてヒドくない? 一応先輩なんですけど!」
「……なんか用ですか、オイカワセンパイ」
「アッハ、棒読み! 可愛くなーい!」
ケラケラと笑う及川に舌打ち。ほんっとうざい。なんで構ってくるんだろう。許可もなく隣に座られて苛立ちが増す。腕の中にいた猫は、知らない人間が近づいたせいで逃げ出してしまった。
「こんな鬱蒼とした場所でぼっちご飯とか、弟クンは根暗ですか?」
うっざ。
多分おれの顔は酷いことになってるんだろう。大体どこで昼飯食おうがおれの勝手だろうがよ。ダチは普通にいるし、なんでここに来るのかはそいつらも知ってるし。
校舎裏の野良猫を知ってる人間は少ない。少ないけど何人かはいて、猫に餌をやるために鉢合わせたことは何度かあった。そのうち当番制になって、今日の当番はおれだった。猫用のカリカリ共同購入したりして、猫をキッカケにして学年の境目なんかなく仲良くしてるひとだっている。根暗だのぼっちだの、名誉毀損にも程がある。
とりあえずこのまま絡まれていても面倒なので、腰を下ろしてた花壇から立ち上がった。次の授業当てられるし、及川に構ってる暇なんてないのだ。
「逃げるの、弟クン?」
及川の台詞に教室へと進めていた足を止める。首だけで振り返ると、及川は性格悪そうな顔で笑っていた。
「そうやって、岩ちゃんからも逃げてるんだ」
ああ、もう本当に。
うざいったらありゃしない。ひとんちの家庭環境に口出してんじゃねえよ。あんたにゃ関係ねえだろうが。ウルワシキ友情ってやつなら尚更止めてくれ。反吐が出る。
及川に応えず、その場から去る。にゃあん、と寂しげな声が聞こえたが、立ち止まることはなかった。
「――何も知らないくせに」
吐き捨てるように呟く。知られないようにしていて、その努力の成果だと分かっていても、言わずにはいられなかった。
何も。
おれのこの想いすら、知らないくせに。
おれの苗字が変わったのは、中二の頃。今から二年前の話だ。
女手ひとつでおれを育てて来た母さんの、「紹介したいひとがいるの」と告げた微笑みに、当時は喜びと寂しさを覚えたものだった。おれは所詮子供で、母さんを支えることはできなかったんだと、そう突きつけられた気さえしていたからだ。
でもそれも当然だ。家事だのなんだの手伝ってはいたけど、14のガキにできることなんか限られてる。新聞配達くらいならバイトできたかもしれないけど、子供が気を遣ってくれるなと母さんは止めるように言ったから、できなかったし。精神的にも経済的にも支えにはなれなかった。
こじゃれたレストランで顔合わせで、初めて相手にも連れ子がいることを知った。
「岩泉一だ。よろしく」
薄く微笑んだそのひとが、おれの兄になるひとだった。
一さんは、お喋りなタイプではないようだった。浮かれた母さんの質問責めに気を悪くしないで律儀に答えてくれるから、いいひとだってすぐにわかった。おれも父さん、になるひと、に質問されて、口ごもりながら答えた。一さんとは雲泥の差だったけど、父さんは気にした様子もなかったし、たまに一さんを茶化したりして、楽しそうなひとだった。
緊張にか余計なことを口走るおれの脇腹を強打する母さんの本質を父さんもすでに知ってたみたいで、笑いながらおれたちのことを認めてくれていた。
「いい家族になれそうだね?」
茶目っ気たっぷりに告げる父さんに、おれと母さんと、一さんは頷いたのだ。
全てをぶち壊したのは、おれのせい。
多分、父さんも母さんも気づいている。一さん――兄ちゃんだってそうだ。だけどみんな優しいから、何も言わない。表面的には仲がいい家族だけど、実際のところはギスギスしている。不和の原因はおれだ。
「なまえ」
母さんの諭すような声にも、何でもないと返す。もう少ししたらなんとかなるから、もうちょっと待って。繰り返し告げるせいで、母さんは諦めて何も言わなくなった。
もう少ししたら、っておれも思ってるんだ。おれだって、できることならすぐにどうにかしてしまいたい。それなのに、おれは――自分の感情を、どうすることもできない。
おれ、岩泉なまえは、義理の兄である岩泉一のことが好きなのだ。
はじめは兄になるひとだからだと思った。一人っ子だったおれは兄弟に憧れていて、兄ちゃんは兄貴分に相応しいひとで。兄貴って理想がそのまま出てきたみたいなひとだから、嬉しいんだろうと、そう思ってたんだ。
だけど、すぐに収まるだろうと思っていた浮ついた感情は、いつまでも続いて。ふとした仕草や言葉に胸が跳ねることに気づいて、おれは絶望した。もしかして、これは恋なんじゃないかって。
一度気づいてしまったらもうダメだった。勘違いだって言い聞かせても、気持ちが落ち着くことはなくて。兄ちゃんを避けるようになって、それが親にもバレて。家族の間に変な空気が流れるようになってしまった。
「なあ、俺、気づかないうちにお前になんかしたか」
部屋の前で呼び止められて、足が竦んだ。いつの間にか掴まれていた腕から伝わる熱は、痛みすら覚えそうなくらいだった。おれの震えに、兄ちゃんは気づいたんだろう。気遣うような視線さえ、おれにはつらかった。
「――兄ちゃんのせいじゃないんだ。ごめん」
それだけを告げて自室に逃げ込む。閉じた扉に背中を預けて、おれは泣いた。
ごめん。好きになってごめん、迷惑かけて、ごめんなさい。
その時には兄ちゃんと同じ青城に進むことが決まっていて、一層辛さが増した気がした。母さんの言葉に素直に従うんじゃなかった。一くんと一緒なら安心だから、なんて――おれには辛いだけだ。
好きだって感情を捨てきれないまま、青城に入学して。血の繋がらない兄弟どころか、兄弟かどうかも周囲に知らせずに、ここまで来た。
兄ちゃんとおれが兄弟だと知ってるのはバレー部の人間くらいで、バレー部で接点があるのは国見と、やけに構ってくる及川くらい。
国見は選択授業で一緒になって、少し話すようになってからバレー部だって知った。選択授業くらいでしか話さないし、兄ちゃんのことを口にしたりはしないから、国見と付き合うのは楽だった。
及川は、よくわからない。
はじめからおれが兄ちゃんの義理の弟だと知っていたようだった。おれの呼び方が初っ端から「弟クン」だったから、そもそもおれの名前すら知らないのかもしれない。
「うちのエースのモチベーションが下がるから、いい加減にしてくんない?」
呼び止められての第一声がそれだった。
兄ちゃんの幼なじみで親友らしい及川は、兄ちゃんありきの考え方をする。それは当然だって分かってるけど、それとおれに絡んでくるのは違う。
「あんたに関係あんの」
「……可愛くないガキ」
おれに頻繁に絡んでくるようになったのはそれからだ。猫の餌やりだっていつの間にか把握されていた。担当の曜日を変更してもらっても、意味はなかった。毎回来るわけじゃないけど、月に2回くらいは絡まれる。昼休み以外だって。兄ちゃんが隣にいるときは絡んで来ないのは幸いだ。だってどうすればいいのか分からない。
好きだって自覚してから、兄ちゃんの目を見れなくなった。挨拶程度しかできなくて、それはいつしか父さんや母さんにも同様で。おれはこの家にいない方がいいんじゃないか、なんて思うようになった。
おれがいなきゃ、きっとこの家族はうまく行く。そうに違いない、って。
だから、久しぶりに言葉を交わした兄ちゃんの言葉は、青天の霹靂だった。
「なまえ」
なるべく家族一緒に、って言われてる夕食を終えて、自分の部屋に引き上げるおれを、兄ちゃんは部屋に入る前で呼び止めた。呼び止められて立ち止まっても、すぐには内容を告げない。
今まではおれを気遣ってか、階下から言ってたのに、今回は違う。一歩一歩、ゆっくりと階段を登る音に、心拍数が上がる。何かよくない前触れのようで、自室に今すぐ逃げ込みたくなった。
だけど、兄ちゃんの視線が、それを許さない。
固まるおれを見下ろし、兄ちゃんは小さく息を吐いた。溜息はこわい。失望もこわい。まだ諦めきれていない自分を再確認して、胸が苦しい。
やっぱりおれはまだ、兄ちゃんが、一さんが好きだ。
「なまえ、あのな」
声が降ってくる。静かで、気遣うような声だ。
視線は自然に下がった。目を合わせたら、全部さらけ出してしまうような、そんな気さえした。
「大学は、県外に行こうと思う」
「……え、」
「お前も俺がいない方が、ちょっとは楽になるだろ」
頭が真っ白だった。体を支えることすら覚束なくて、ドアに背中を預ける。
なんで。どうして、そうなるんだ。
だって、悪いのは全部おれだ。全部、おれの独りよがりで、迷惑をかけてるのはおれなんだ。おれがいなくなれば済む問題のはずで、それで。
なのになんで兄ちゃんがいなくなるとか、そんな話になるんだ。
「楽って、なに」
何だよ、それ。そんなんで楽になれるなら、諦められるなら、とっくの昔に諦められてるはずだ。
「なんで、兄ちゃんが出て行く話になんの」
声が震える。唇もこめかみも戦慄いて、震えが止まらなかった。
「おれが、おれが全部悪いんじゃん。出てくならおれの方だ。おれが、おれこそが出てくべきなのに、なんで、なんで」
「なまえ」
「なんで、いつもそう……っ、責めてくれた方がずっとましだ! なんでそんなこと言うんだよ! 兄ちゃんのそういうとこが、すごく……嫌いだ……ッ!」
喉の奥が熱い。目頭も熱くて、熱いものが頬を伝って、自分が泣いてることに気づいた。唇を噛み締めて、上がる嗚咽を抑え込む。それでも涙も嗚咽も止まらなくて、しゃくりあげながらおれはなるべく音を漏らさないように堪えた。
「嫌い、嫌いだ……兄ちゃんなんか、兄ちゃんなんか……ッ」
一度口にしたら止まらなくて、嫌い、嫌いと子供みたいに繰り返す。好きって言葉の代わりみたいに。
伝わらなくていい。嫌われたっていいんだ。むしろ嫌ってくれた方がいい。おれが悪いんだって、そう言って責め立てて、追い出すくらいでいい。
おれなんかを気遣わないでくれ。そんなことをされたら、余計に諦められないじゃないか。
「なんて顔してんだ、馬鹿」
目隠し代わりだった長めの前髪をくしゃりとなで上げられる。露わになった目が、久しぶりに兄ちゃんと合った。
「クソ及川の話だったから信用なんざできなかったけど……まじか」
「なに」
ずびずび言いながら頭に置かれたままの手を振り払おうとすれば、兄ちゃんはそのままおれの肩を掴んで、空いた手でおれの部屋の扉を開けた。そのまま兄ちゃんに押されて転がるように部屋に入り込む。何か反駁する前に、兄ちゃんに強い力で抱き締められていた。
「――――え」
「勝手に避けてんじゃねえっつの。無駄に焦らすな」
「え、ちょ、なに」
「バレたのかとか、気持ち悪がられたのかとか焦るし……あと嫌いとか言うな、心臓に悪い」
「兄ちゃ……」
「好きだ」
頭が真っ白になった。ポカンとした間抜け面を晒しながら見上げると、頬を赤く染めて、耳も赤い兄ちゃんが、照れくさそうに笑っていて。口を開いたおれの額にキスをしてきて――キス、を。兄ちゃんが、おれに。
「お前も俺が好きなんだろ」
自信ありげに言われた一言に、キスされた事実に、じわじわと顔が赤くなるのが分かる。
「なっ、なななっ……」
「俺ら、アホみてぇだな」
笑う兄ちゃんは、おれが初めて見る笑顔で。
両想いだと自覚したのは、呆けてるおれに兄ちゃんがベロちゅうをしかけてきたから、だった。
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