部誌4 | ナノ


星に願いを



その美しいピアノの旋律を、聞きながら眠るのが好きだ。
ピアニッシモで伝わる儚い音は、辺りの雑音でかき消されてしまいそうなほど。

車の排気音。
誰かが料理する音。
小さな子供のはしゃぐ声。
虫や動物の鳴き声。

様々な音に囲まれながら目を閉じ、耳を澄まして求める音を追う。音に集中し、聞き入っているうちに、いつも眠ってしまう。だから彼の――みょうじなまえの奏でる音楽を、黒尾鉄朗は最後まで聞けた試しがない。

けれど、好きだった。
理由なんて、そんなの。


 ****


黒尾鉄朗と弧爪研磨、それにみょうじなまえは、所謂幼なじみだった。
黒尾とみょうじが同い年で、弧爪が一つ下。みょうじにとてもよく懐いている弧爪は、幼い頃はそれはそれは拗ねたものだった。クロずるい、が一時期口癖になっていたほどだ。

幼い頃は、三人一緒によく遊んだ。小学校が終わった放課後、近所の様々な場所に訪れては、悪戯したり冒険したりと楽しんだ。黒尾が先頭を切り、それを弧爪と手を繋いだみょうじが追う。
嫌がる弧爪を宥め、無茶をする黒尾をたしなめ、みょうじはまるで二人の兄のようだった。周囲からはそのように思われていたし、一時期それが気に食わなかった。結局は、みょうじだから許せた。

分岐点は、どこだったのだろう。
黒尾が弧爪と共にバレーを始めてからか、みょうじがピアノに出会ってからか。分からないが、いつの間にか三人の間には、隔たりが出来ていたように思う。最初のうちはバレーに付き合ってくれていたみょうじが、突き指したくないからと黒尾たちの誘いを断る回数が増えて。
お互いが夢中になったもののために、少しずつ距離が出来ていくのを、分かっていながら止められなかった。どうして、と内心みょうじを詰ったりもした。みょうじから離れまいと努力を重ねたのは、黒尾ではなく弧爪だ。

……ポーン。
囁くようなピアニッシモ。
指ならしのように音階を駆け上がる指先。見なくても簡単に想像できるくらいには、みょうじの奏でる旋律に馴染んだ。まるで魔法のように動く指先は、音律を奏でる。

みょうじ家の一階の一室に、グランドピアノが置かれている。みょうじの家は一般的な家庭なので、防音ではない。昔からみょうじのピアノは、ご近所中に響いていた。
弧爪は、みょうじのピアノが好きだと言った。たまに聞かせて欲しい。そんなおねだりを、下手だからとしぶるみょうじに申し出、貫き通し、権利を得た。クロも聞くでしょ、そんな当然のような口振りで提案してくれたから、クロも権利を得ることができた。

盗み聞きではなく、ピアノの近くで、みょうじの奏でる音楽を聞く。
それは盗み聞きしていた時とは雲泥の差だ。みょうじがピアニッシモの訓練を始めたから、余計に。

弧爪の勝ち得た権利であるから、黒尾はなるべくピアノ室には入らなかった。風通りのいい日にはガラス戸を開け放してみょうじはピアノを弾いた。ピアノには悪いけど、と笑いながら、弾いてて気持ちがいいのだと。
だから黒尾は、庭の、ガラス戸の外に広がるテラスに腰を下ろし、壁に背中を預けてみょうじの音に聞き入るのだ。

弧爪といえば、ピアノの前の椅子にみょうじと一緒に座ったり、ピアノの椅子の足元に座っていたりする。ピアノとみょうじの一番近くで、聞き入ったり眠ったりするのが常だった。

みょうじはピアノのレッスンがなくても指が太ると困る、と毎日のようにピアノを弾く。それを知っているから、黒尾も弧爪も、休日にはみょうじのピアノを聞きに来ていた。今日もそうだ。

「なまえ、今日の練習終わったらなんか弾いて」

「なんかってなんだよ」

「なんでもいい。ピアニッシモ以外の何かがいい」

「研磨、適当」

「だって曲名とか知らないし……」

みょうじと弧爪のやりとりに目を覚ます。いつの間にかまた眠っていたらしい。立てた両膝に組んだ腕を乗せ、その上に頭を伏せたたまま、黒尾はぼんやりと会話に聞き入る。

「せっかくピアニッシモが身につきそうなのに、忘れそう」

「どっちにしろ弾いてる時も切り替えしなきゃいけないんだったら、一緒じゃないの」

「そうだけどさあ」

ポン! と弾いたのは、多分弧爪だろう。みょうじは荒々しく鍵盤を叩くことはないからだ。聞き分けができてしまう事実に、黒尾の胸はざわついた。それに気づかなかった振りでやり過ごす。

「まあいっか。鉄朗はー? なんか聞きたいのあるー?」

「クロ、寝てるんじゃない」

「まじかよ。熱中症なんぞ」

「起きてる」

騒がしい二人に言葉を返すと、思った以上にかすれた声が出た。寝てたんじゃん、弧爪の言葉に返事をせず、その場で伸びをする。レンガの上に腰を下ろしていたから尻が痛い。座りながら簡単なストレッチをしていると、ピアノの音が響いた。

「そんじゃま、先生に怒られそうだけど、寝坊助の鉄朗の目を覚ます一曲をひとつ」

楽しげな声に続き、響くピアノ。
ラプソディ・イン・ブルー。黒尾の好きな曲だった。なんでも今はまだクラシックのみを弾けとピアノの先生に厳命されているらしく、ジャズであるこの曲を弾くことはめったにない。
ピアノのみで紡がれる曲は、時折みょうじのアレンジが入る。ジャズならではのそれが、黒尾は好きだった。誰が弾くよりも、みょうじの弾くラプソディ・イン・ブルーが好きだ。

跳ねるような音が心地いい。
背中を壁に預け、空を仰ぎ、目を閉じる。いつの間にか口元には笑みが浮かんでいて、ああ、やっぱり好きだと思った。

不意にピアノの音に混じって囁くような声が増えていた。庭の外を見ると近所の人々がみょうじの音楽を聞くためだけに集まって来ている。
最近は聞こえなくなったピアノの音色を、ご近所中で求めていたらしい。気づいた黒尾に、しーっと人差し指を唇に当ててジェスチャーする。苦笑した黒尾に笑顔になりながら、おじさんやおばさんたちがみょうじの音楽に聞き入った。

曲が終わるとわっと拍手と歓声が沸いた。みょうじの驚く声が聞こえて思わず噴き出す。それくらいに、焦った声だった。

「なまえくん、次!」

「ええ!?」

「にいちゃん、つぎはー?」

庭の外から急かされて、みょうじは戸惑いを隠しきれないようだった。早く、と弧爪に更に急かされ、うーうー唸りながら何を弾くか考えているらしい。
どんな顔をしているのか予想がついて思わず笑ってしまう。想像通りの顔をしているのだろう、次の曲を待つ人々も黒尾と同じように笑っていた。

その様子を眺めながら、黒尾は不意に弧爪に言われた一言を思い出していた。

(――なまえ、先生について外国行くんだって)

みょうじのピアノの先生とやらは、日本に数年だけの契約で講師にきているフランスのピアニストだった。有名らしいそのひとはみょうじの才能に目をつけ、みょうじのために、日本に滞在する期間を伸ばした。
子供は親元にいるべき。そんな真っ当な思考からみょうじのために、一流のピアニストが日本に滞在している。そのためにピアノをする人間の間で、みょうじの存在は有名になった。

勉強だからと、時折みょうじが海外に連れ出されている事実を知っていた。演奏旅行に付き合っているらしいみょうじは、長期の場合ひと月も日本にいないことだってあった。

予測はしていたのだ。
みょうじがいつか、日本を出てしまうことを。、黒尾や弧爪のそばから離れてしまうことを。
だって、みょうじの音楽はこんなにも求められている。音楽のことなんかわからない人々にすら求められるほど、みょうじの音楽は魅力的だった。

だから、気づかない振りをした。胸のうちに生まれた感情にフタをして、なんでもないように装って。

胸が苦しい。少しずつ近づいてくる別れを実感し、黒尾は顔を伏せた。

ピアノの音が響く。
子供たちがこれ知ってる! と騒ぎ出した。きらきら星変奏曲。ピアノを習いだしたみょうじが、初めて黒尾と弧爪の前で弾いた曲だった。

時々ミスをしながらも拙い演奏を披露したみょうじを、黒尾も弧爪も褒め称えた。ピアノは黒尾にも弧爪にも難しく、ひとつの曲を弾き終えたみょうじは、まるで魔法使いのように思えた。
誉められて、嬉しそうに頬を赤く染めて喜ぶみょうじに黒尾も嬉しくなって、黒尾も弧爪も、更に誉めたのだ。

(――なんで、ピアノなんだ)

よりにもよって、なんで。
黒尾と弧爪のように、バレーだったらよかった。サッカーでも野球でも構わない、ピアノ以外のものがよかった。
そうすれば、もう少し。もう少しくらい、一緒にいる時間が増えたかもしれないのに。

名前通り、キラキラした旋律は音を重ねる度彩りを増す。ジャズの片鱗が残っているのだろう、アレンジが入り、音色は多彩になった。
同じ曲なのに、あの頃とは全然違う。それは重ねた時間の結果であり、みょうじの努力の成果だ。

子供たちがみょうじのピアノに合わせて歌う。ピアノの音色が喜びに満ち、音は子供たちに沿う。

ずっとこのままがよかった。このままでいられたらよかった。特別な関係なんて望まない。今の関係で満足するから、だから――だから。

「なまえ、バレーやろうぜ」

ピアノの音に被せるように告げる。
答えなんか分かりきっていた。いつものやりとりだ。

「じゃあ鉄朗もピアノ一緒に弾いてくれよ、連弾しよう」

「バカ、できるか」

「同じ言葉をお返しします〜」

ほら、やっぱり。
願いが叶わないことを、黒尾は知っていた。ピアノを弾くことは、みょうじの生き甲斐だ。ピアニストになることが、みょうじの夢なのだ。夢に向かって努力を重ねるみょうじの邪魔なんて、できるはずがなかった。

けれども願わずにはいられなかった。それくらいしか、できなかった。

日は沈み、夕暮れが近づく。
青空に光る一番星に、黒尾は叶いもしない願いを胸のうちで想った。

どうか少しでも、時間の流れが遅くなりますように。
そう願うくらいは、許して欲しかった。




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