部誌2 | ナノ


瞬きの夢



頭が揺れる。三半規管が死んでいるような心地がする。鈍痛になり損なったような不快感が眼窩にわだかまって思考を蝕んでいた。
此処は何処だ。何時だ。自分は、何をしている。
心の臓が早鐘を打つ。小刻みに揺れる臓器が、確かにそこに存在するのだと自己主張を繰り返し繰り返す。頭に登る血液が鬱陶しさを増す。貧血のような、黒い靄で虫食い状態になっている視界をなんとかしようと、カラカラに乾いた目を数回瞬かせた。
次第にクリアになっていく視界に、あぁ、自分の家の天井だ、とやっとのことで認識することが出来た。
そうして、さっきまで見ていた夢が脳裏を駆ける。ドキリ、と早鐘とは違う鋭さで胸が痛んだ。背中を走る妙な悪寒に飛び起きてシーツを握り締める。
自分の、隣の、少しだけ冷たいシーツ。くしゃりと白いそれにシワがよるのを見ながら、落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせる。
あれは、夢だ。単なる夢だ。何をそんなに焦っているのだ。
なまえはこうして、時折、夢と現実の区別がつかなくなることがある。それが、朝、寝坊をしてしまう夢なら目覚ましが鳴っていない時計を見ればそれでいいのだが、今回はそうではない。
深く肺に空気を取り込んでから、ゆっくりと吐き出していく。
耳をすませる。心臓の音が収まっていくと、聞こえなかった音がだんだん聞こえるようになっていく。窓辺の近くで鳥が鳴いている。かつかつという鳥が走る音。そして、シャワーの音。
なんだ、夢か、と自分に言い聞かせるようにして掠れる声を吐き出した。安堵とともに急に起きたことによる疲労感がのしかかって来てなまえはそれに逆らうことなく脚を抱きかかえるような姿勢でシーツに顔を押し付けた。


君が、いなくなってしまう夢を見た。


「なまえ?」
優しい声がする。それにこたえようとして、喉がカラカラになっていることに気がついた。人の気配がある。それが、今一番そばに居てほしい人の気配ならとても幸せなことだ、となまえは思う。
「まだ、寝てるのか」
ひたりと、手のひらが首筋に当てられる。じんわり湿った手のひらは温かい。それが嬉しくなって重い体をぐるりと反転させて、目を開いた。
髪の毛から雫を滴らせる丈が見ていた。首にタオルをかけただけの丈はシャワーを浴びたばかりで、シャンプーの匂いをさせていた。
「おはよう」
眩しそうに目を細めて笑う丈に、微笑み返す。
「はよ」
丈はなまえの髪の毛をくしゃりと撫でてから、なまえに背を向ける。
「しごと、行くの?」
「あぁ。公務員だからな」
「そうか、平日、だな」
「……すごい声だな」
「ん」
ガラガラになっている声を指摘して、丈は水とってやろうか、と笑った。それに、おねがい、と言うと、お安いご用で、と言いながら丈は対面カウンターのあるキッチンにはいって、冷蔵庫の中から500ミリのペットボトルを取り出して、なまえに投げてよこした。
シーツの上に落ちたそれを、掴んで引き寄せて、半分だけ身体を起こす。冷たい水をゆっくりと口に含みながら、なまえは丈が髪の毛を乾かすのを見ていた。
「ワイシャツってあるか?半袖の」
「白?」
「白」
「あるよ」
「借りていいか?」
「ん」
「どこ?」
「そのへん」
身体が怠くて動ける気がしなくて寝そべったままでその辺、とクローゼットを指さした。示されたクローゼットをみて、あぁ、とつぶやいて、丈はそのクローゼットを開ける。少しだけだるそうなその仕草も、なまえは好きだった。
「なまえ、どれだ?」
一応は探してみたらしいが、そう言えば長袖と半袖の区別って付きづらいなと思い出した。
「ん、まって」
そうは言ってみたものの、なかなか、布団っていうのは簡単に抜け出せないものだったりする。疲労が濃ければ尚更。その事情の一端を担っている丈は、なまえの様子を見ながら、仕方ないな、とため息を吐いた。視界が暗くなる。大きな影がなまえの上にできている。
「なまえ、起きて」
「……キスしてくれたら、起きるよ」
ぎしっと頭の近くに大きな手が沈んだ。少しだけまだ濡れた髪の毛が頬にかかる。温かい呼気を間近に感じて、そして、唇が降ってくる。触れた先から温かい官能が溢れてくるようだった。
軽く合わされた唇が触れただけで遠ざかる。名残惜しくて、もう一回、とねだると、丈はふっと微笑んで、もう一度、同じようなキスを落とした。離れていく唇に、物足りなさを覚える。
「……舌を噛むキスがいいな」
もっと、深いくちづけが欲しい。それだけですべてを持っていかれるような官能的な、キスがいい。
丈は首を竦めてふっと笑ってダメだな、と言った。
「俺が、仕事にいけなくなる」
首をすくめて笑う。残念、と言ってなまえも笑いながらゆっくりと疲労感のある身体を起こした。いつも、この時は重力なんて無ければいいのに、と思う。
所在無さげに付いてくる丈に、クリーニングの袋に入ったままの白い半袖のワイシャツを差し出した。サイズは丈のほうが大きいはずだが、なまえは少し大きめのシャツを着るのが好きなので然程気にならないはずだ。ありがとう、と言った丈がばりっとビニールの袋を破くのを横目に、なまえは別の引き出しを開ける。
「ネクタイもいる?」
「借りようかな」
昨日と同じネクタイだとこの間職員に朝帰りですか?と丈がぼやいていた。そんなことを思い出しながら、ネクタイを2本抜き出した。
「やっぱ、丈には赤だな」
シャツのボタンを留める丈の胸元にそれぞれを当てながら、なまえは濃い赤のシンプルなネクタイを差し出した。
丈が手慣れた様子でネクタイを締めていくのをぼんやりと眺めながら、丈が普通の公務員であることを思い出す。
「……なにかあったか?」
ぐっと身体を屈めて、顔を覗き込まれる。少しだけ心配そうな顔。何事にも興味がなさそうなのに時折こんな顔をするから始末が悪い。
「……なんでもないよ」
何かあったか、といえばあったのだけど、あんまりにも馬鹿げたことでそんなことを言う気がしなくって、なんでもないよ、と答えた。
髪の毛を一つに結んで眼鏡をかけてしまえば、公務員の枇々木丈が出来上がる。
彼を見送ったら、もう一度寝よう、となまえは思った。今度は幸せな夢を見られる気がするから。



君が、何かと戦って、居なくなってしまう夢を見た。
なんて馬鹿げた夢だろう。どうしてこんなに動揺したのだろう。
きっと、もう一度ぐっすり眠ってしまえば簡単に忘れてしまえるだろう、と、そう、思った。




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