部誌20 | ナノ


温め合うにはまだ早い



「──月3日、午後4時9分。晴れ、気温は」
ぼそぼそと画面に表示された文字を読み上げながら、記録がはじまっていることを確認した。隣には少しばかり身長の低い、小柄な少年が立っている。少年は三輪の動作をかすかに、首を傾げながら見守っていた。
はじめての任務ではない。何度か同じ条件の同じ任務を受けたことがある。A級の中でも一握りだけ参加している有志の実験協力だ。自律型トリオン兵に付き添って、学習を見守り、万が一のエラーに備えて市民を危険から遠ざける。警護だけが目的であれば、「次はやめよう」と思うこともなかったのだけれども。任務の中には学習に協力することも含まれていて、それとコミュニケーションを取る必要がある。いよいよ、自分向きではない。
「君の名前は?」
「なまえ、えーっと、ベトナムから来た留学生だよ」
自律型トリオン兵の実験が基地の外で行われていることは、ほとんど、知らされていない。市民の反発もあるし、想定外の動きをすることがしばしばあるのだ。
データ採取の公平性のために、どのような動きが「想定外」なのか知らされていない三輪は、そんな欠陥品の実験なぞ、やめてしまいえばいいのにと思っている。
「──今日の実験内容は?」
「無人の飲料販売機で、好きな飲み物を購入すること。ね、僕の名前はなまえであってる?」
本来なら、学習のために正解の返事をしたら、それが正解だと伝えなければならない。そのようにマニュアルにも書かれている。けれども、なぜか億劫で飛ばしてしまった手順を指摘されて、三輪は舌打ちをした。
「……なまえ、あってる。実験内容も、……それでいい」
「じゃ、行こうか。ルートは僕が好きなものを選定するから」
「……ああ」
いつ頃からだろうか。それをなまえという名前で呼ぶことに拒否感を覚えるようになった。
いつ頃からだろうか。それが、人ではないことを忘れてしまうようになった。
そして、そんなときには決まって頭の奥が鈍く痛む。
住宅街の中に、見覚えのある公園があるからだろうか。
人が住まなくなった土地の中を、こうして歩くからだろうか。
目的地はさほど遠くはない。いくら人のように見えて、偽名も身分も、それなりのものを与えることができるようになっても、まだ、警戒区域外に出す実験は行われていない。
停滞しているかのような進み具合と、不釣り合いなほどに、それの人格は整っていくことがうすら寒かった。
手入れがないせいで、少しうすボケたような白線の上を平均台の上を歩くように辿っていく。調子の外れた鼻歌は、どこかで聞いたことがあるような童謡だった。
「じゃじゃーん、見てください。今日は紙幣なのですよ!」
きっとボーダーのなかの誰かが管理しているのだろう自販機にはまだ少し気が早いようなあたたかい飲み物が入っていた。その顔ぶれの違いを確かめながら紙幣を見せるそれに、今日は紙幣を使う実験なのかと考えた。
「と、言うことで。秀次はどれがいい?」
ざわり、と背中を冷たいものが逆撫でていった。難のない仕草で自販機に紙幣を滑り込ませながら、ごくごく自然にそれはそういった。「秀次」と名前を呼ばれたことを訂正したいと、そう思うだけではない。気持ち悪さが這い上がってくる。
わけもなく激高しそうになる自分を押し殺して、三輪は自分ならこれを選ぶ、という飲み物のボタンを押そうと人差し指を立てた。
指示書にはそれが飲み物を買うことを勧めて来た場合は、従うこと、と書いてあった。そういう実験なのだろう、と飲み込んでいた。
チカチカと点滅するライトに、伸ばした指が小刻みに震えている。その震えがどこから来るものなのか、三輪にはもう、見当がついている。
どうして、この実験で、三輪が一緒に行うことで、想定外の挙動が起こるのかも。
がこん、と音がした。釣り銭がじゃらじゃらと落ちる音がする。震える指を隠そうとした三輪の手をそれがとった。
「冷えましたか?」
それは心配そうに三輪の顔を覗き込んで2つの手で三輪の手を包み込んだ。まるで、温めるかのように。いや、それはたしかに温めるために。
たしかに彼はよくそうしていた。
それの手が三輪の手よりも小さいこと。それの手が、人の手とは比べようもなく冷えていること。かろうじて、死体ではないとわかるほどに生温かいことが、ギャップを与える。
息を吹きかける動作も、三輪の記憶のままで、三輪は自分の想像が外れていないことを知る。それから、呼気はひとつも温かくなくて、それが彼ではないことを知る。
身寄りのない彼が死んだ後、彼の身体が、ボーダーに引き取られることになった経緯は知っている。それが、法的に正しいとはいえないことに利用されることも、三輪は生前に彼から聞いてあった。
「……ごめんね、うまくできないや」
三輪のこわばりに、申し訳無さそうな顔をして手を離して釣り銭を取り出して、もう一つの飲み物を購入する。硬貨を扱う指先を追うのを三輪は意図的にやめた。
三輪が今後、それを糾弾することはない。ただ、もう、この任務を受けるのをやめようか、と考えるだけで。
「これ、ちょっと持っていてくれる?」
それが差し出した缶は、この季節にはまだ少しはやい、火傷しそうなくらいに熱い飲み物だった。もう一方の手には三輪が買った冷たい珈琲缶が握られている。
「ああ、」
温かい飲み物を受け取りながら三輪は視線をそらした。



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