部誌20 | ナノ


蝉時雨



 彼のことを思い出すとき、いつかの美術室を思い出す。
 彼と自分は同じ美術部に所属していたけれど、彼と会話を交わした記憶は片手で足りる程度。彼はあまり人と話すタイプではなく、美術室の隅でいつも絵を描いていた。
 美術部なんてただのオタクの集まりで、美術室でお菓子を食べながら好きなアニメや漫画の話しかしない。一年に一度の文化祭で適当に作った作品を発表するだけで良い。そんなお気楽な文化部で唯一の男子部員である彼はただ黙々と絵を描き続けていた。
 どの部員よりも先に来て絵を描き、彼以外の部員が帰っても描き続ける。いつもキャンパスに向き合っている彼を気楽に部活に参加している部員にしてみれば自分たちが本来の部活を放棄しているのだと突きつけている気がして正直疎ましく思っていたところもある。彼にしてみれば、絵を描ける環境にいるだけで私たち外野などどうでもいい存在ではあった。その証拠に彼は一度も自分たちに話しかけてくることはなく、私たちも話しかけたりはしない。お互いに線を引くことで絶対不可侵領域を保っていた。
 そんな不可侵を破ったのは、ただのお節介からだ。
 その日は30度を越える真夏日。延々と降り続ける雨のごとく蝉たちが終わりのない大合唱をしていた。
 ミーンミンミン。ミーンミンミン。子孫を残すために必死に求愛をし続ける蝉の鳴き声がただでさえ暑い気温をさらに上げてくる。
 もう鼓膜に焼き付いてしまう音にうんざりしながら美術室のドアを開いた。そこには案の定彼がいた。だが、いつもなら先に来ている友人がおらず、彼一人しかいない。あれ、と思って携帯を開くと友人から委員会で遅れるという連絡が入っていた。ということは、しばらくの間彼と二人きり、その事実に顔を顰めてしまう。
 正直な話、私は彼が苦手だった。男子の中でもそれなりに身長が高いが目まで隠れるほど前髪を下ろし、分厚いレンズの眼鏡をかけている。よくにいう根暗の典型的な外見。そのうえまったく喋らないうえに一人で黙って絵を描き続ける姿がなんとも不気味さを際立たせていた。だが、友人は少なからずいるらしく、たまに美術室に顔を出して何やら話したりしている姿は何度か見かけた。だが、美術室に顔を出すのはその友人と学校内でも目立つ双子の姉だけ。彼には友達がいないというのが部員達の共通認識であった。
 また、彼はいつもキャンパスを自分たちに向けて絵を描いているため、どんな絵を描いているか分からない。もしかしてスケベな絵を描いてるんじゃないかと部員達と笑っていたけれど、彼には聞こえなかったのかそれとも聞こえていても無視していたのか無反応のまま筆を走らせ続ける。それがまたさらに他の部員を反感を買っていることを彼は気付いていない。
 そんなやつと二人でいるというのがとても苦痛だった。しかし、別の場所で友人を待つのもなんだか面倒臭い。悩んだ末に美術室で待つことを選んだ。
 美術室に入っても彼はこちらを一瞥もしない。彼の目には自分など映っておらず、目の前のキャンパスしか見えていない。もはやそれが彼のデフォであったのでもう何も感じなかった。こちらも彼に挨拶もする気も無く、いつも席に移動して座る。席について、友人達が来るまでに間、時間つぶしに携帯を弄ることにした。
 ミーンミンミン。ミーンミンミン。
 外では未だ蝉たちが鳴いている。あまりの暑さにつぅっと頬に汗が落ちる。学校でエアコンがついている教室は限られており、残念ながら美術室にはエアコンがつけられていない。鞄から教科書を取り出して自分に向けて風を仰ぐ。生ぬるい風が顔に当たるがないよりはマシだった。
 ふと、何気なく彼の方へと目を向ける。彼は変わらず絵を描き続けていた。ただキャンパスだけを見つめ、持つ筆をなめらかに走らせる。その自然な動作が彼がどれだけ絵を描いているのが見て分かる。創作も何もせず、携帯を弄っているだけの自分と大違い。羨ましくなんてないけれど、アレが本来の正しい美術部員なのだろうなと思いながらまた携帯に戻ろうとした。
 しかし、彼の頬に一筋の汗が滴り落ちたのが目に入る。一筋落ちればあとからどんどんどん流れ落ちていく。その姿にぎょっとした。驚いたのは、そこまで汗が流れても彼は筆を下ろすことはなかった。窓を開けるだけでも大事変わるし、汗が落ちるなら拭えばいい。その時間さえうっとうしいかというのに彼の目にはキャンパスしか入っていない。汗を拭うよりも、目の前のキャンパスに筆を走らせることのほうが彼は大事なのだ。
 彼は絵が好きなのだ。絵を描くのが本当に、ただ純粋に好きなのだ。その事実に信じられない思いで彼を凝視する。どうしてそこまで絵を描くことに執着するのだ。たかが部活なのに、と思うけれど彼にしてみれば部活ではなく絵を描くことが単純に好きなだけ。
 気持ち悪い、怖い、だが同時にそんな集中するほど好きなことがあるのがなんだか羨ましかった。
 だから、ちょっとだけ助けてあげようと思ったのだ。窓さえも開けずに描いているのだから、このまま放っておいたら熱中症になりかねない。目の前で倒れられたら困るから、そんな理由で席から立って彼に近づく。
 自分がキャンパスの前に立っても、彼は自分に気付くことはない。それならいっかと窓に手を掛ける。
 ミーンミンミン。ミーンミンミン。
 窓を開けた瞬間、蝉鳴りの豪雨が襲いかかる。思わず耳を押さえるほどの大音量に眉をひそめてしまう。両耳を手で塞いだまま、彼の方へと向ける。
 そこにはキャンパスではなく、自分に顔を向ける彼がいた。まさか自分を見ているなんて思いもせず、目を丸めて彼を見つめる。
 数秒ほど二人の間に沈黙が流れる。蝉の音に驚いたのだろうか、彼はぽかんと口を開けていた。初めて見る彼の表情に少しだけ笑ってしまう。
 ああなんだ、こんな顔をするのか。どこか人間離した彼の人間らしい一面に少しだけ可愛いと思ってしまった、そんな蝉の雨降る真夏の思い出。



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