部誌3 | ナノ


もしもの話をしよう



プールで、水面を見ながら背中から沈んだ時、ああ、綺麗だと思った。それから、鼻がとんでもなく痛かった。
無重力のような心地よさが嘘のように、浮かび上がったあとは、そうだ、地獄のようだった。水を吐いて、ずっとずっと気管が痛くて、それから、寒いんだか熱いんだかわからない日照りが、苦しかった。
どうして、そんなことを思い出したかなんて簡単だ。俺は今、とても鼻が痛い。
「あーあ、泣くならどうしてもっと綺麗に泣けないかなぁ」
呆れたようになまえが笑った。笑われていることが恥ずかしくて、泣き止もうにも余計に悲しくなってぼろぼろと涙が溢れてくる。
泣き方が、下手くそなんだよ、となまえは言って、木吉の肩を抱いた。服越しにも、なまえの身体はとても温かくて、そして、触れ方がとても優しくて、涙は今まで以上に溢れだした。
「もっと泣け泣け」
肩を抱き寄せた方とは違う手で、木吉の後頭部を掴んで、なまえの肩に木吉の額を押し付ける。なまえのスカジャンはバイクの機械っぽいオイルの匂いがした。なまえがそのスカジャンを大事にしていることを知っていたから、自分の涙とか、鼻水とかで汚れてしまうんじゃ、と、思った。突き放そうとする木吉の行動を、最初からわかっていたみたいに、なまえは木吉の抵抗を封じて両腕で包み込むように抱きしめた。
こんな風に抱き締められたのは、どれだけぶりだろうか。母親にだって、中学生になってからは、いや、もっと前、小学校高学年になってからは、抱きしめられたことはなかった。
なまえの腕の中は、母親みたいに柔らかくはなかったけれど、とてもあたたかかった。

泣きつかれて、うとうとと木吉が眠ってしまうまで、なまえは木吉を抱きしめ続けた。なまえの服が涙でぐっしょりと湿って、その湿った部分がなまえの体温を吸い込んでぬるくなっている。
涙で濡れていない方のなまえの胸を枕にして木吉は浅い浅い夢を見ていた。夢の中でも、木吉はバスケをしていた。
「なぁ、鉄平」
なまえは木吉の頭を撫でながら木吉に語りかける。ああ、もうそろそろ、帰らなければならないな、と木吉は思う。何も言わずになまえの家に来てしまったから、家族が、心配しているかもしれない。ひょっとして、日向に連絡なんて入ったら、無用の心配をかけてしまう可能性もある。
「なに、なまえ」
「兄ちゃんって、呼んでくれないのか?」
「は?」
「昔は兄ちゃんって呼んでただろ」
そう言って、なまえは意地悪く笑った。昔、お兄ちゃんが欲しかったと両親にダダを捏ねた木吉に遊びに来ていたなまえが、じゃあ、俺が兄貴になってやるよ、とそう言って、それからずっとなまえのことを兄ちゃんと呼んでいたのだ。
「もう、呼ばない」
「結構気に入ってたんだけどな」
そう嘯いてなまえは昔と同じように木吉の髪の毛を愛しそうに梳いた。
「俺はな、思うんだよ」
なまえの手のひらの優しさを受けながら、木吉は目をとじて、なまえの身体に回した腕に力を込める。
「お前はな、この一年で脚を使い潰さなかったらな、年末に事故に遭うんだ」
「なんだそれ」
「お年寄り助けて凍った階段で滑って転ぶんだ。どうだ、ありそうだろう」
なまえの中での自分のキャラクター像がどうなっているのか問いなおしたくあるが、その説が気に入ってる様子のなまえに、何を言っても無駄だと思った木吉は、そんなヘマはしない、と言うだけで留めた。
「お前はさ、どのみちバスケができなくなる運命なんだよ」
「……その話のどこに、救いがあるんだ?」
「救って欲しかったのか? 俺は宗教家じゃないからなぁ、救いを用意する義理はないぜ」
そんなことを言いながら、なまえは子供にするみたいに木吉の額を撫でた。
「きっとさ、そういう運命なんだよ。現実にはさ、起こった事実しか存在しないんだよ。もしもなんて考えたって仕方ないんだ」
ああ、きっと、慰めているのだろう、と思いながら、ヘタクソ、と胸の内だけでつぶやいた。もっとマシな言葉のかけかたがあるんじゃないかと木吉は思う。それだけれど、木吉はなまえのこの不器用さと愚直さのアンバランスさが好きだった。
「……家、此処に来るの、言ってない」
そう言いながら、今度は、ゴワゴワしたスカジャンではなく薄い綿のインナーに顔を埋める。くすぐったかったのか、なまえの身体が少しだけ揺れた。近くなった体温となまえの体臭を感じながら木吉は目をとじる。額になまえが首に提げているシルバーのネックレスが触れた。
「言ってないだろうと思って、お前が来た時におふくろさんにメールしておいたぜ」
回ってるなぁ、と思いながら木吉は少しだけ笑う。その木吉の背中をぽんぽんと叩いた。木吉となまえはそんなに体格が変わらないからきっととても重いだろうに、なまえは文句ひとつ言わない。
それに、もう少し、許される限り、甘えようと木吉は思った。




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