部誌3 | ナノ


この夜が明ければ



夜明けはまだ遠く、夜空には星々が輝いている。
日の入りと共に戦端は開かれる。戦が始まるのだ。

はあ、と吐き出した息は白い。冷えた指先を暖めるように息を吐きかける。指先が震えているのは、寒いからか、それとも。

「ハッ、なっさけね……」

握り締めた拳を眉間に押しつける。
命など惜しくないはずだった。死を選びこの世界に堕ちた。この世が地獄ならば怖いものはないと、己の命を省みず、求められるままに屠り続けてきた。
命を奪い続けたのだ、己が命が何某かに奪われることも、納得していたはずだった。


その、はずだったのだ。


「なーにしてんの」

声を掛けられてびくりと体が震える。油断しすぎじゃない? なんて声をやり過ごし、声の主に視線を向けることなく、真っ直ぐ前を見つめた。視線の先には、戦場が広がる。国をかけ、ひととひとが争い、戦い、殺し合う場所だ。

「明日のためにも、寝といた方がいいんじゃないの」

小高い丘は見晴らしがよく、戦場を見渡せると共に、戦場からも見つけやすい。こんな目立つ場所にいるなんて、やはり忍んでない忍は違うな。そこまで考えて、いつの間にか隣に寄り添うこの男が、自分のためにこの場所にいるのだと気づいた。

「――……」

「アララ、無視は止めてよね」

茶化すような言葉に俯く。両の手のひらを見れば、その手は人間の手だった。血に染まらない、人間の手だ。

「変わっちまった」

ぽつりと呟くと、男は己と同じ場所へと目を向けた。即ち、戦場へと。それがどこか、ありがたく感じる。

「何が」

「おれが」

「どんなふうに?」

「まるで―――」

まるで、人間みたいだ。

真っ白な手のひらは、鮮血に染まる。その力の強さ故に、人間の頭を握りつぶす。
一度姿を変えれば、人間ではなくなる。ヒトの性を忘れ、半分以上を獣として過ごしていた。人間のように見えるこの手のひらは、己の意志ひとつで鋭い爪を備えた、バケモノのそれとなる。

獣だった。バケモノだった。己が人間であると考えたことなどなかった。だってそうだろう、真っ当な人間なら、獣に変化など出来はしない。

「そなたは、ヒトだ」

後ろから聞こえた声に振り返る。気配を感じられないとは、油断するにも程がある。ようやくそなたの後ろを取れたと嬉しそうに微笑むのは、血よりも赤い戦衣装に身を包んだ男――今の主だ。

「今も昔も、変わらずヒトだ。ただ他の者よりできることが多いだけの」

「ばっかじゃね……」

あーあ、と隣の忍に頭を撫でられる。主の苦笑が見なくても伝わる。目頭が熱くなって、鼻がツンとしてたまらない。こんなのは知らない。何が己の身に起こっているのかわからない。

「はいはい、戦前だってのに、泣かないの」

泣く? 誰が。それは感情あるモノに赦された行為だ。だけど頬を伝う熱いものがなんなのか、分からない振りはもうできない。

大丈夫、と忍がぎゅうと抱き締めてくる。
恐れることはないのだと、主が頭を撫でてくれる。
涙は止まることを知らず、次から次へと溢れて零れた。嗚咽が止まらない。うまく呼吸すら出来なくて、声もあげずに泣き叫んだ。
主にしゃくりあげる背中を撫でられ、しがみつく。忍と主の衣を掴み、離れまいと力の限り。

「お、おれ……っ」

「うむ」

「おれ、へんなんだ、なんか、なんかっ……」

「大丈夫、聞こえてるよ」

冷えた空気の中、二人の体温だけが確かだ。未だ空は暗く、深い藍色で彩られている。遠くで兵たちの声が聞こえる。戦の為の準備は、すでに始まっている。判ってはいても、この手を離せない。

「こわいんだ、すごく。今までなんともなかったのに、いま、死ぬのがすごくこわい」

ひくりひくりと嗚咽が邪魔する中、拙く紡ぐ言の葉のひとつひとつを受け止めてくれているのがわかる。抱き締められた腕が、背中を撫でる手のひらが、力強く支えてくれる。背中を押されるように、続きを舌に乗せる。

「だけどそれ以上に、幸村さまや佐助が、みんなが死ぬのがこわい……っ」

震えながらしがみつくのは、死出への道を歩ませたくないからだ。亡くしたくないからだ。ずっとそばに、いて欲しいからだ。

「そなた、俺をなんだと思っている?」

「そうそ、アンタがしがみついて離れないのは、日ノ本いちの兵と、その方のいちの忍だぜ? 簡単に死ぬもんか」

カラリと笑う二人は、戦場にいけばその形相を変える。頼れる強者だと解っていても、亡くすことを考えれば恐れずにはいられない。信じているのと同じくらい、失うことを恐れている。

「がんばるから、おれもがんばるから、だからおねがい」

死なないで。

声にならないその一言を、二人は容易く拾い上げてくれる。そのうえで支えてくれる。信じてくれている。信じさせてくれている。

かつての己は、己の意志などなく恐れもない、ただ命を奪うだけのバケモノだった。
けれど、今。意志は備わり、恐れを知った。喪いたくない大切なものができた。バケモノではないと言ってくれるひとができた。己をヒトだと肯定してくれる、優しいひとたちが。

死ぬのはこわい。それ以上に失うことがこわいから、己は戦場に身を委ねる。そうして敵を屠るのだ。

前いた世界でもこの世界でも、することは変わらない。違うのは意志だ。己に備わった、確固たる意志。

喪わないために、闘うのだ。




夜明け前、戦端となったのは、獣の遠吠えだった。
白みゆく空の中、響き渡る咆哮は敵を威嚇し、武田の兵たちを強く鼓舞した。
戦場の中において、武田軍の将、真田幸村のそばにいたのは、ひとりの忍と、一匹の獅子だったという。




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