アナタが言い出したことなのよ?
今日も地獄は平和だ。地獄なんていかつい名前がついていても、平和ったら平和なのである。
閻魔大王付きの補佐官である鬼灯は、今日も今日とて怠け癖のある大王の尻を容赦なくぶっ叩きながら残業を終わらせた。ほんとうにあの上司はいい加減にして欲しい。尻拭いをするのは誰だと思っているのか。
苛立ちを隠しきれず、眉間に深い皺が寄る。このままで休んでも体にいいとは思えず、珍しく鬼灯は衆合地獄の繁華街で一杯引っ掛けることにした。たまには喧騒の中で、干渉されず呑んでみたくなるのだ。己の一言で喧騒が一瞬にして静まるのも楽しいし。
眉間に手をやりながら小さく溜め息を吐き、衆合地獄へと足を向ける。徒歩か、火車タクシーを呼ぶべきか。どうしようかと歩きながら思考していると、ふわりと極上の酒の香りがした。思わず立ち止まり、匂いの出所を見極めようと周囲を見渡す。
まだ、鬼灯の職場で、テリトリーだ。職場に酒を持ち込まれたくない鬼灯は、少しばかり緩んだ眉間の皺を深めた。どこの不届き者だ。懐の凶悪な棍棒に手をかけながら、そろりそろりと気配を殺して匂いのもとへと近づく。
匂いのもとは、鬼灯のいた法廷のすぐ外だった。外だからまあいいか、とは思うものの、こう、酒の匂いが極上すぎて気になる。惹かれてふらふらと足を進めれば、そこには極上の美女がいた。
門の近くの石に腰を下ろしているその姿は妖艶だ。濃紺の生地に椿の刺繍がされた着物に、朱色の半襟。首もとはふわふわした白の毛皮で包まれ、帯も淡い鼠色で、雪の結晶が刺繍されている。
贅沢な衣装は、夜の遊び女のような印象を抱かせる。酒で赤らんだ頬が色っぽく、升の角の塩をちろりと舐める舌が赤くて、どうにもいやらしい。つうかその酒の飲み方おっさんか。嬉しそうに情緒もなくぐびぐび呑んでいるので、こう、色々台無しだった。
ふと既視感を覚えて、鬼灯は脳内検索で割り出した。信じられないが、目の前にいる美女が誰なのか、思い至ってしまった。
「……なまえさん、ですか」
立ち竦んで掠れた声で呼びかければ、美女が鬼灯へと視線を向けた。升を傾けながらにんまりと目で笑い、演技がかった仕草で升を椅子代わりの石に置いて、裾で口元を隠す。
「は・あ・い」
語尾にハートマークが着いていそうな声音であるが、その声は鬼灯に負けず劣らず、バリトンボイスだった。
「一体そんな格好で何をしているんですか……」
嗚呼、頭が痛い。なんてものを見てしまったんだ。決して見てはならぬものを目にしてしまった気がする。手招きされて仕方なしに近づく。促されるままに向かいの石に腰を下ろし、先ほどまでなまえが口をつけていた升を差し出される。受け取るとなまえが舐めた角とは反対側に塩を置かれ、酒を注がれた。
やたらニコニコしているので呑んでもいいらしい。ふわりと漂う酒の匂いにつられ、塩を一舐めして酒を口にする。日本酒だろう、爽やかな喉ごし、どこかフルーティーでどこか甘い。匂いに違わず、名酒のようだ。
「いい酒ですね」
「そうでしょうとも。祝い酒ですからね」
ニコニコ顔の美女から放たれる言葉は低く、やはり男の声だ。成る程首もとの毛皮は喉仏を隠すためのものらしい。もとより美丈夫ではあったが、彩られたチークや唇、長い睫毛など、少しの化粧でこれほどまでに化けるものなのか。いやはや、世の女性も彼のような変貌を遂げているのか非常に気になるところである。
「祝うようなことがありましたか」
「いやだなあ、鬼灯様の発案ですよ。まあプロデュースはお香姐さんたちですけどね」
うふふ、と笑ったなまえは、どこからどう見ても女性にしか見えない。女って怖い。化粧こわい。
「鬼灯様にも見せて差し上げたかったです、白澤様のあのツラ」
アッハッハッ。
豪快に笑うなまえの姿に、はたと鬼灯は少し前の出来事を思い出した。確かあのどぐされ霊獣は、遊んでいた女性とトラブルを起こし、全く関係ないなまえを巻き込んで愁嘆場を作り出したのだったか。最終的に泣きながら白澤を罵倒する女性をなまえに押し付け、白澤は逃走したのだ。
「遊ぶならひとを選べばいいのに、あの方は本当にしょうもない」
ぺっと吐き捨てて、なまえは鬼灯が飲み干した升を受け取り、酒を注いで角のをペロリと舐めた。仕草まで研究したのか、女性めいた仕草で酒を飲み干し、また鬼灯に差し出し、酒を注ぐ。一升瓶はすでに半分もなく、上等な酒を水のように呑んでいて、非常に勿体ない。
「それで、仕返しにその姿に? なかなかチャレンジャーですね」
よほど腹に据えかねたらしく、何か仕返しの策はないですか、と尋ねられ、適当に答えただけだったのだが、効果はあったらしい。いやだなああんな霊獣。威厳もクソもないな。
「白澤様好みの女性になって、必死に口説き落としにきたところでネタバレ。笑いを堪えるのが大変でした」
爽やかに笑うなまえの笑顔はいつもならば男臭いそれであるのに、今日は女性のそれで、なんだか変な感じだ。ちびりちびりと酒を呑んでいても、呑むのが遅いとなまえは責めなかった。
白澤のショックも、まあわからないではない。それほど今のなまえは美人だ。十人中十人が彼を美人だと言うだろう。座っているからだろう、いつもの威圧感がないし、バッキバキに割れた腹筋は帯に隠れているし、しなやかな仕草は確かに女性のそれ。
けれど、確かに美しいのだけれど、なんだか落ち着かない。それは彼の美しさがそうさせるのではなく、彼がいつもの彼ではないからだ。
(私のためだけにその姿であるならば、また違ったんでしょうかね)
ぐびりと飲み干し、なまえが舐めた塩を、鬼灯も舐めた。
塩であるはずのそれがどことなく甘く感じるのは、酒のせいもあるが、それ以上に鬼灯の秘めた感情が原因だ。
(失敗しましたかねえ)
升を差し出し、酒を注いでやると嬉しそうに笑うなまえの笑顔に、鬼灯は思う。
こんな艶姿、あのくそ霊獣が自分より先に見たのは、とても腹立たしい事実だった。
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