部誌3 | ナノ


虚構が崩れる音がした



小さな背中が更に小さくなって、丸くなっている。それが、不思議で不思議でならなかった。嗚咽を漏らすその背中にそっと近づいて、手元を覗きこんで、聖はその原因を知った。尚の手元にはバラバラになったクレヨンが散らばっていた。昨日、尚がらくがきちょうに使っていたクレヨンはすべて新品に近いもので自慢気にしていたのを知っていただけに聖にとってそれはちょっとした衝撃だった。幼い聖は、思わず、どうしたの、と聞いてしまった。真後ろに聖が来ていたことにようやっと気づいた尚はぱっと顔をあげて、聖を認めると、真っ赤になった目元を更なる涙で濡らした。涙で濡れそぼっていたまつげが、あたらしく浮いた雫を吸って、ぶわりと膨らんでいく。しまった、とおもったときはすでに遅くて、尚は手がつけられないくらいに泣きだしてしまった。
しゃくりあげて泣く弟の熱い背中を撫ぜながら、ようやっと聞き出した事情によると、尚はクレヨンを友人にバラバラにされてしまったらしい。その原因など詳しいことはよくわからないが、それは、不意によるものではないということは聖にはよくわかった。
原因の究明や解決は聖には出来ることではなく、聖が弟の為にできる事と言えば、目の前にいる弟を如何に泣き止ませるか、ということだけだった。考えの浅い幼い聖は、自分の引き出しから自分のクレヨンを持ちだした。それを、尚に渡しながら泣き止んで、と聖は言った。聖はさほど落書きが好きな方ではなかったので、少しづつクレヨンが減っているが、極端に少ないクレヨンなんかはなかった。それが、聖には僥倖のように思えた。
聖のクレヨンを受け取った尚は、一旦泣き止んだが、しばらくするとまたすぐに泣きだしてしまった。
「どうしたの」
聖が訊くと、尚は顔を上げて、こういった。
「また、おにいちゃんの、こわされちゃったら、どうしよう」
そうか、そしたら、自分は、どうしたらいいだろう。惑う聖はそれに言葉をかえすことができなくて、尚は聖のクレヨンを指が白くなるくらいにしっかり掴んだまま泣きだしてしまった。
どうしよう。どうしよう、とそんな考えだけが頭のなかに浮かんで、聖は幼くて、狭い狭い思考の中で足掻いた。そして、聖が出した一つの答えが、それだった。
「なにがあっても、だいじょうぶ。おにいちゃんはなおのことがだいすきだから。ずーっとずっと、だよ」
その言葉の裏には、どんな疑問も、どんな疑念も、どんな企みも、どんな嘘もなくて、言葉のまま、そのままの意味だった。それを聞いた尚はまんまるに目を見開いて、ほんと? 言った。
「ほんと。やくそく」
尚は約束という言葉を舌の上で転がして、それから、ゆっくりと笑った。それから、小さな小指を差し出した。
「やくそく」
小さな小指に、聖は自分の小さな小指を絡めた。ふっくらとした指がきゅっと絡み合って白くなった。それを、お互いの呼吸を合わせるように、お互いの意図をはかるようにして、二人は振った。
「ゆびきりげんまん、うそついたら、」
多分、これが、一番はじめ。すべてのはじまりだったと、聖はそう、思っている。


胸が痛むような、哀しさだけを積み上げて、僕は、君に、何を出来ただろうか。マイナスのものをいくら足して行ったって、プラスになんかなりはしない。そんなことは君も、わかっていたはずなのに、言葉にすることも、顔に出すことも無かった。
君と僕は、結ばれない運命なんだよ。
その言葉を胸に秘めて、今日も、哀を重ねていく。
言葉に出せは、終わっただろうか。否。言葉に出したって、きっと変わりはしなかっただろう。それが、悲劇と呼べるくらいの切実なものだったから。



携帯電話の、電話口に向かって声を潜める。耳元に向かってささやき合うような官能があった。世間から、何もかもから隠れて、世界にふたりきりのような背徳感。かなしさの隙間で、独占欲が育っていくような、そんな感覚。

15歳になった吾妻聖が、笹島珪に出会ったのは、高校に入ってしばらくしてからのことだった。帰宅部だった聖は、さっさと特に何をするでもなく家に帰っていて、特に新しい人間関係を築くということもしなかった。
聖は、人と付き合うのが得意ではなかった。決して、苦手なわけではなく、コミュニケーション能力に特筆問題があるわけではなかったが、人と付き合うと、疲れる。そんな風に思っていた。だから、休憩時間も、トイレに立つ以外は自分の机に座って必ず参考書を開いた。そんな聖に、珪が声をかけたのが始まりだった。
詳しいことは覚えていない。ただ、「いっしょに帰らない?」だったりとか、「少し、寄って行かない?」なんかだったりするような陳腐な言葉だった気がした。聖は、何も考えずに、珪に付いて行って、(恐らく、断るほうが面倒だ、とかそんな理由だったような気がする)それから、ひとつひとつ言葉を重ねていって、聖と珪はとても仲良くなった。
特に趣味があったとか、そんなことではなかったと思う。むしろ、珪と聖の趣味は正反対だったと言えた。根暗、と言われるような聖とは違い珪はとても社交的で友達も多かった。

「もう、切るね」
聖が言うと、珪は、もう少し、と言った。
「何をそんなに話すことがあるんだよ」
「だって、俺、吾妻としゃべってたい」
「じゃあ、もうすこしだけ」
「ありがと」
珪はとても子供っぽい性格をしているように聖は思っていた。それが他の友人には見せない顔のようで、聖はそうやって甘えてくる珪が好きだった。
多分、かなり早い段階から、ひょっとして、はじめて珪と下校したあの日に、珪が自分に向けているものが友情ではないことに、気づいていた気がした。
目が違う。聖と目があうと、眼底に炎が灯っているような気持ちになった。舐めるような視線が絡み合う。聖はそれを好ましいと思っていた。

「これ」
クリスマスが近いある日だった。ふっと空気に触れて黙って立っているだけで手がとても冷たくなったりしているこの季節が聖は少し苦手だった。冷たくなった手を指と指を軽くこすり合わせたり、握ったりをすることでかろうじて動くようにと気を使っていた聖は隣を歩いていた珪が差し出したものに対して、「なに」とだけ言った。
珪は焦れったそうにそっぽを向いた。こういう時、珪は確かに何か言葉を探しているが、それと同時に聖に言わなくても悟ってくれよ、と思っている、ということを聖はなんとなく悟っていた。そんな珪が新しい言葉を探す前に、聖は「もらっておく」といった。そうして、珪が差し出した手のひらサイズの箱を受け取った。珪の手は暖かくて、聖の手の冷たさが目立つような気がした。
「家であけて」
そう、珪が言いながら、聖の冷たい手をとって、聖のコートのポケットへ箱を入れさせた。聖のポケットに箱が収まったのを確認してからも、珪は聖の手を離さなかった。
「つめて」
「冷え性だから」
「そっか」
そう言いながら、珪は温かい手を聖の手を覆うようにして重ねた。珪の体温が流れこんでくるのを感じながら、聖は、好きだ、とおもった。
珪の思いに、答えられるようなそんな気がした。

箱の中身は香水だった。こっそりと家のインターネットでその箱に書いてあるメーカーを調べたら、とても聖の小遣いで買えるような値段のものではないことがしれた。ベッドに入って、綺麗な瓶に入ったそれを、手首にかけてみた。すうっと冷たい感触が腕に走る。聖の知らない香りを、それを、いい匂いだと思った。
何か、お礼を言わなければ、と聖は思った。二つ折りの携帯を開けて、それから、メールの着信があることに気づいた。珪からだった。
『吾妻につけてほしい』
絵文字も何もなくて、それしか書いてなかった。それを読んで、聖は、ああ、情欲の匂いがする、と思った。
『つけたよ』
そう、返信をしながら、聖は自分の身体が昂ぶるのを感じた。携帯を投げ出す。代わりに波打つシーツの上に落ちた香水の瓶を握る。パジャマの下に右手を入れて、触れた。
脳髄を揺らすような恍惚があった。
誰かを思いながらする自慰がこんな官能をもったものだと、聖はしらなかった。



クリスマスは、珪と会った。外で待ち合わせをして、映画を二人で見た。くだらないSFだったと思う。見終わってから、二人でくだらないと笑った。
二人だけになった時に、顔を近づけた珪が、やっぱり、よく会う。といった。それが香水のことだと聖はわかった。
それから、聖はキスをした。
触れるだけのキスだった。

頭の中に霞がかかったようだった。暗い玄関ポーチを見ながらようやく家に帰ってきたのだということを意識して、誰にもばれないように、ばれないように、とそっと玄関を開けた。扉を開けた先に、尚がいた。尚は部活用のスポーツバッグを下ろしながら、聖の姿を認めた。聖よりもずっと大きくなった尚は今、サッカーをしている。暗そうな聖の外見とは違い、爽やかな空気を纏った青年に育っていた。もう、クレヨンをバラバラにされて泣いていた時のような面影はなかった。
「兄さん、帰ったのお帰り」
そう言いながら、尚が聖に近づいてくる。聖は、来ないでほしい、と思った。後ろめたさのようなものがあって、ただ今、という顔がこわばるのを感じた。
そんな聖の思いを無視するようにして、尚は、メリークリスマス、と言いながらハグをした。すん、と尚が鼻を動かした。
「……今日は、何処に行ってたの?」
抱きついたまま、尚が訊いた。恐らく、本当のことをいう必要は無いのだ。だけれど、聖は尚に嘘がつけなかった。
「……友達と、映画、見てきた」
「友達って、笹島さん?」
「うん、」
「……この匂い、笹島さんに、貰ったの?」
「……うん」
どうして、そんなことを訊くんだ、と、聖は思った。それでも、それに嘘をつくことはできなかった。この、心臓がとびっきりに近い位置では、嘘もすべて、尚にバレてしまうようなそんな気がした。そして、そんな嘘が意味のないような、そんな気もした。
「……俺、この匂い、嫌いだな」
尚は、ぼそっと言いながら、身体を離した。
そして、夕ご飯出来てるって、と言いながら笑った。

「家に、親も、姉ちゃんもいないんだ。姉ちゃんのことで、出かけてて、泊まりだから」
そう、珪が言った。その誘いの意味を聖は間違いなく受け取った。
「今日、泊まりだから」
親に向かってそういう自身は無くて、聖はそう尚に言った。尚のほうは友人の家に泊まるとか、そんなことが多くて、聖の方も大丈夫だろう、とそんな風に思っていた。
「泊まりって?」
怪訝そうな顔をした尚に、うん、友達のところに、と歯切れ悪く聖が言った。それから、何か、大きな間違いを犯したようなそんな気になった。
「……笹島さん?」
表情を消した尚が、すんっと鼻を動かした。それから、玄関に手をかけていた聖の手をとった。痛いほどの力で、腕を掴んで引き寄せる。
「……そう、だけど」
「……友達じゃ、ないよね」
尚は言った。それは、疑問ではなく、確信だった。
「こんな、香水送るような、友達なんて、ないよね。毎晩、電話するような、友達なんて、ないよね」
アァ、知っていたんだ、と思いながら、後ろめたさが溢れだす。知られたくなかった。バレてしまった、という背徳感。嘘をつこうか、と、逡巡する聖は、とても、見たくないものを見た。
尚の目から、ぼろぼろと涙が溢れだしていた。長いまつげを濡らして、健康的に焼けた肌を伝って、涙がこぼれていく。
「……いやだよ、」
尚はそういった。
お願いだから、いかないで、置いて行かないで、と、尚は泣いた。
「泣くな、よ」
聖は、その涙を拭わずにはいられなかった。そして、多分、それは、選ぶ、という行為だった。
聖は尚を選んだ。

尚は珪に「ごめん、いけない」とメールをして、それから、珪の電話番号を着信拒否にして、アドレス帳から「笹島珪」を削除した。そうしなければいけない気がした。

ああ、自分は、地獄に落ちるんだ、と思った。




聖は、東京の大学に進学して一人暮らしを始めた。その聖のあとを追うようにして、尚も上京し、二人は一緒に住むようになった。家賃も浮くし、と両親に言うと、両親もそれに賛同した。何かの間違いを重ねている、と聖は両親に嘘をつきながら、思った。
聖が就職してからも、二人暮らしは続いた。違うことといえば、聖が家賃の半分を支払うようになったということだけだった。

スマートフォンの画面を見ながら、尚が帰ってくる時間を確認する。そろそろ、ちょうどいい頃合いだ、と思いながら魚焼きグリルから鯖を取り出した。鯖の塩焼きが好きなのは尚で、おろしポン酢で食べるのが特に好きだった。
大根をおろしていると、玄関の扉が開く音がする。ちょうどいい、と思いながら、聖は顔を上げずに、「おかえり、手を洗ってご飯よそっておいて」といった。
「うん、ただいま」
ガタガタ、と音がして、しばらくしてから、尚がやってくる。すぐ近く、匂いの分かるような位置にやってきて、身体を寄せた。
「……くすぐったい」
顔をあげると、すぐそばに尚がいる。尚は、聖の腰に手をまわして、首筋に顔を埋めた。
「……兄さんのにおいがする」
「うん」
尚は聖の匂いが好きだといった。兄弟なんだから、そんなに違う匂いもするはずがないのに、と聖は思う。
「兄さん」
尚の声は、情欲で上ずっていた。
「したい」
「うん、ごはん、たべてから」
「うん」
聞き分けのよい子供のように、尚は頷いて、それからゆっくりと名残惜しそうに身体を離した。それに少しだけホっとしながら、聖は、それを幸せだと思った。


完全な偶然だった。
神様がもし、いるとしたら、きっとものすごく運命が好きなのだろう、と聖はそう思った。大人になった笹島珪は高校生の時の快活さをそのままにして、そして、落ち着きを兼ね備えた青年になっていた。
聖を見てとても驚いた顔をした珪は、「きれいになった」といった。そして、聖はもう一度、笹島珪に恋をした。

珪の電話番号とアドレスとスマートフォンに登録してから、それから、二人で会う約束をした。
あの香水をつけて、聖は珪に会いに行った。
流されるように、溺れるようにして、何年越しで、聖は珪と身体を重ねた。

こんな充足があるなんて、しらなかった。そう、思った。

部屋に入った時、暗い室内にまず、聖は驚いた。尚がいるはずなのに、暗いままだったから。そして、ダイニングの電気をつけた時に、聖はその原因を知った。
尚の目の前に、一つ、あの香水が置かれていた。
それだけで、聖はすべてを悟った。

虚構が、崩れる音がした。




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