部誌3 | ナノ


虚構が崩れる音がした



 彼女が人形ならばよかったのに。白い肌がすべらかな、精巧に作られた観賞用のお人形。持ち主だけを一心に見つめ、裏切ることはない。自らの吐息が彼女の上下合わさった睫毛を震わす距離で、なまえは自らの仕事に何ら意味をなさない思考に耽る。感情からは完全に切り離された手先で、彼女の絹のような肌に桃色を差せば、温かみを与えられた頬によって、美しい人形は一気に息を吹き返した。この瞬間がなまえは怖かった。なまえだけの人形だった彼女は、アイドル、佐久間まゆになってしまう。ああ、今日もこの幸せな時間が終わってしまうのだ。
 名残惜しさを感じながらも、最後の仕上げに、まゆの薔薇の花弁のように赤く小さな唇に紅を引く。途端に唇はなまえを惑わす魔性となった。
 彼女が持っているどこか危うげな、怪しい魅力を引き立てるメイクは、自分にしかできないだろう。何と言っても、まゆが読者モデルをしている頃からの付き合いなのだ。愛らしいだけじゃない佐久間まゆの魅力は、なまえが一番に知っていると自負していた。
 そんなまゆの瑞々しく潤う唇は、触れれば弾けてしまいそうに柔い果実のようだった。キスしたい。この唇に噛みついて、万人に愛されるために施された化粧を剥ぎ取ってしまいたい。そうして自分の腕に閉じ込めてしまえば。まゆはなまえだけの人形になるのだから。
 いけない。なまえは熱くなる本能を抑え、内心呟いた。こんな気持ちをまゆに知られるわけにはいかにない。彼女はアイドルであるし、何より一途に想う人がいるのだ。
「なまえさん、終わりましたかぁ?」
 今までなまえの指示通り、素直に目を閉じていたまゆは、わざわざ目を開けるための許可を求めてくる。いじらしいその仕草に微笑みながら、なまえは「終わったよ」と声をかけた。さあ、夢の時間は終わりだ。
 瞳を見せた彼女は本物の美少女だった。少しだけ垂れた目が甘さを醸し出し、下がり眉が比護欲を掻き立てる。まゆは誰もに愛される、本物のアイドルだった。
「まゆちゃんは今日も可愛いね。世界一可愛い女の子だよ」
 燻る熱を隠しながら、なまえは白々とまゆを褒め称える。醜い独占欲など欠片も見せずに。彼女が座る椅子の背に両手を置き、なまえとまゆは鏡越しに視線を合わせた。
「いつもありがとうございます。なまえさんのメイクのおかげですよぉ」
 はにかむように目を細め、まゆはにっこりと笑った。そしてなまえを傷つける一言を続ける。
「プロデューサーさん、喜んでくれるかな」
 その言葉に、なまえは椅子の背に置いた手にぎゅっと力を込めた。表情筋に力を入れ、どうにか不自然な顔にならないよう誤魔化す。そして、いつものことじゃないかと自分を諭した。
 そう、いつものことだった。佐久間まゆは彼女のプロデューサーに恋をしている。それはあまりに深く、重く、なまえなどがつけ入る隙など見当たらない。甘い生クリームの海で窒息させるような愛情は、なまえがいくら羨んでも手に入らないものだった。

「なまえさん」
 不意にまゆがなまえの名を呼んだ。するりと伸びてきた手が、なまえのそれに重ねられる。
「まゆにキス、したいんでしょう?」

 突然のことに、思考が停止した。どうして、という言葉だけが脳を支配し、無様に目を見開く。なにか言わなくては。焦るが言葉は出てこない。黙ったままでは肯定しているも同然だ。
 そんななまえをよそに、まゆは悪戯っぽく、くすくすと笑う。なまえの手によって美しく整えられた唇に、赤く塗られた爪を添えて嫣然と笑う姿は、とても十六歳のものとは思えない。
「まゆちゃん、気付いて……」
「あたりまえですよぉ。あんなに熱く見つめられて、まゆ、焼けちゃうかと思いました」
 ことりと彼女の小さな頭が傾き、頬がなまえの骨ばった手に摺り寄せられる。
「女の子はそういうの、敏感なんですから。特に、恋してる女の子は、ね」
 まゆに言い当てられ、なまえは背中を冷たい汗が流れ落ちるような気がした。彼女に嫌われてしまえば、もう二度と彼女の担当をすることはできないだろう。それだけは耐えられなかった。
「まゆちゃん、俺は――」
「いいですよぉ、キスしても」
「――え?」
 予想もしなかった言葉に、鏡の中のまゆを見つめる。彼女の表情はただただ美しいばかりで、真意を汲み取ることはできない。
「キスしたいんですよね? なら、してもいいですよぉ。なまえさんがキスしたくらいじゃ、まゆとプロデューサーの赤い糸は切れも解けも、緩みもしないんですから」
 なんて自信。恋する女の子とはこんなにも力強いものなのかと、なまえは苦笑した。まゆがプロデューサーを想うより強く、彼女を愛せるか。無理だ、勝てっこない。
「……君はずるいね、まゆちゃん」
「ずるくなんてないです。まゆは優しいだけですよ」
 ふわりと花が舞うような笑顔は、他の男への一途な愛に満ちていた。
 目蓋を落としたまゆは、普段メイクをするときと何ら変わりない表情に見える。なまえは腰をかがめ、椅子に座るまゆの唇に、自分のそれを寄せた。

 触れた唇は温かく、血の通った人間のものだった。




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