部誌18 | ナノ


はじまりは君が決めて



『なかったことにしよう』
色の失せた顔。はじめて見る顔を思い出す。とてもきれいな顔だと思う。全体の印象は凡庸に近いけれども、なにかが琴線に触れて魅入っていれば、顔のパーツのひとつひとつがとても整っていることがわかる。
有り体に言えば、彼の顔はとても好みなのだろう。
おぼろげにしか残っていないその夜の記憶によれば、自分は、自分から進んで彼と一夜を明かした。身体のうちのあらぬところが痛んだが、行為自体は合意だった。
男と肌を重ねたことなどないのに、妙に乗り気になって誘ったような気もする。多分、男の顔がとても好みだったからだろう。自分の行動原理にひとつも矛盾がない。なんなら欲望に忠実すぎるくらいかもしれない。
自分のほうは、自分の性指向が異性に限らないことには前々から気がついていたために、こんなこともあるか、という納得があったが、多分彼のほうはそうではなかったのだろう。
その日、その朝。あの夜にあった出来事をなかったことにして、おぼろげながらとても楽しかった夜を、記憶の中だけに留めることになった。自分は泥酔しているときの記憶はおぼろげに残っているが、向こうはもしかすれば何も覚えていないかもしれない。
なかったことにするならば、見なかったことにすればいいのに、腰が傷んで顔をしかめる自分に、携帯番号を書いた名刺を渡して「なにかあれば連絡を」と言った。なんてお人好しなのだろう、と思いながら、一度も連絡をいれなかった。
彼に、再び出会ったのは、それからずっと先のことだった。
いつものコンビニで顔を上げたところに彼が居た。なかったことにしたならば、知らぬふりをすればいいのに彼は『あのときの』といって喫茶店に誘ってきた。
湯気をたてるコーヒーを前にして、彼の指をたしかめた。指輪はない。外しているのかもしれない、つけていないだけかもしれない。そもそも、うちの父は指輪をしていたことは一度もなかったし、既婚者で指輪をしている人のほうが少数だったようなそんな気もする。
「身体、大丈夫でしたか?」
そういえば、自分は彼の名前を知っているが、こちらの名前を彼は知らないのだ、という不均衡に気がついた。名乗っておくべきだろうか、と考えながら、問題なかったよ、とだけ答えた。
「恥ずかしながら、あの日のことはほとんど覚えていなくて」
自分もです、と相づちを打ちながら、反芻されて美化されていた彼の顔を、記憶と照らし合わせた。
劣情に濡れた目許が頭の中をちらついて、ごまかすようにコーヒーに砂糖を入れた。
注文時に焦ってパフェを頼んでしまった彼が、甘いもの、好きですか?と少し困ったようにたずねる。
どちらかといえば苦手だが、コーヒーに砂糖を入れた手前、苦手とも言えず、程々ですね、と答えた。
多分、彼は律儀な男で、相手の身体が心配で、それだけを聞くためにこの店に入ったのだろう。多分もう、話は終了なのだ、と思えば、妙にさびしくなった。
実はあの夜のことを覚えています、と言ったら、どうだろうか。
いや、それは違う気がする。
彼が、なかったことにしよう、と言ったのだから、その撤回をこちらから言うのはそれもまた不均衡な気がした。
だから、甘いものが苦手らしい彼がパフェを目の前に四苦八苦するのを眺めながら、少し待つことにする。
記憶によれば、多分自分の顔も、彼の好みのはずだから。きっと、なにかが進展するだろう。そして、それを決めるは自分ではない。
このコーヒーを飲んだら、次を頼もう、とメニュー表を視界に入れながら考えた。



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