部誌18 | ナノ


さよならはいわないで



その喫茶店は穏やかな静けさに満ちていた。
ささやかに聞こえる話し声、食器を洗う水音、ケトルから漏れ出る蒸気の音、耳障りにならない程度の、心地よい雑音。
そうした音の束をバックグラウンドにしながら、その席に座る二人の間には、沈黙が満ちていた。女は俯き、男はその様子を見つめている。二人の様子に、誰もがどんな話をしているか察しがつくだろう。
そう、ありきたりな、恋の終わりの話だ。


☆☆☆


「大学院合格、おめでとう」

にこりと笑った顔は、多分、ぎこちなかった。
でも今からしようとしてる話の内容が内容だけに、満面の笑顔なんて浮かべられる訳もなくて。下手くそな笑顔に気づいているだろうに、彼は──東春秋は、気づかないふりで微笑み返してくれた。

「ありがとう。お前も就職が決まったんだって? おめでとう」

「ありがと。……ほんと、春秋くんはすごいなあ。秋の時点で大学院の進学決まった人なんてそうそういないよ」

少し前にサーブされた紅茶はまだ熱くて、猫舌のわたしには適温じゃなかった。やけに喉が渇いているのに、ままならない。手に取ったカップをソーサーに下ろし、まだ氷の溶けていない水のコップに口をつける。まるでわたしにならうように、目の前の恋人も、砂糖もミルクも入ってないコーヒーに口をつけた。

「そうかな。まあコネも多分あっただろうな。今のゼミが面白いからそのまま居続けるだけだし、裏技も聞いたしな」

「何それ、ずるじゃん」

「そうだよ、ずるをしたんだ。ボーダーの現役隊員なんて、教授からしたら恰好の研究対象だ。手放すのは損ですよと事前に売り込んでたんだ」

「悪い人だなあ」

思わず自然に笑っていた。彼はわたしを笑わせるのが得意で、こうして些細な冗談で笑わせにくるのだ。そうしてわたしが笑顔になると、今みたいに優しい顔で微笑んでくれる。そういうところも、好きだった。ううん、今だって、好きだ。
やっぱり、好き。どうしようもなく好きで、好きで、たまらなく、大好きで──だからどうしたって、堪えられない。わたしは、弱いから。

グッと、体が震えた。涙が溢れそうになって、慌てて俯く。春秋くんのおかげで笑顔になれたのに、弱いわたしはいつも泣き出してしまう。でも、今日はだめ。今日だけは、今だけは。どうしても、涙を見せるわけにはいかなかった。

「あのね」

「うん」

「もう、春秋くんのことだから、わたしの言いたいこと、わかってると、思う、けど」

「──うん」

「別れて、欲しいの」

ああ。とうとう、言ってしまった。
口に出した言葉は、どうしたって戻ってこない。もう今の時点で、少し後悔してしまったけど、前言撤回なんてできなかった。


★★★


もうずいぶんと前から、予感はしていた。
彼女の物言いたげな視線に反応を返さなかったのは、こうなることが恐れていたから。いずれ来るだろう別れの時期を少しでも遅らせたくて、悪あがきをしていた。
結局は、こうして言わせてしまったけれど。

彼女に限界が来ていることを、東春秋は気づいていた。
お互いボーダー隊員で、戦闘員とオペレーターで。恋人になるのに時間はかからなかった。以心伝心みたいに、心が通じ合っているのだと、馬鹿みたいに信じていた。
幸せな恋人同士だったと思う。蘇る記憶はいまだに鮮明で、愛おしさに泣きたくなることだってあった。

不協和音が生まれたのは、いつからだったろう。いつから彼女の瞳に、怯えが見えたのだろう。
ボーダーで戦闘員をしていたって、緊急脱出機能があればそう死ぬことない。かつての悲劇により生まれたその機能は、ボーダーの、おそらくは城戸司令の悲願だ。第一次大規模侵攻の後に入隊した彼女は、その悲劇を直接は知らない。だからこそ安心して、ボーダーに所属していたはずだったのに。
多分、長期遠征からだった。長期間、東は三門市を留守にした。非戦闘員であり、トリオン量もさして多くない彼女は、三門市に残ることになった。離れ離れになって初めて、彼女はボーダーという組織に所属するということが、戦争に参加することなのだと、気づいてしまった。帰還の際に一緒に戻れなかった隊員も、傷つき戦闘員を辞めてしまった隊員もいた。東もそうした一人になってしまう可能性を、考えてしまった。

近界民の襲撃がある前の、平和な三門市を覚えている。覚えているからこそ、どうしても受け入れがたい。その心理を理解できてしまうから、彼女から切り出された話を笑って切り捨てる訳にはいかなかった。受け入れがたくはあるけれども、その選択を拒絶できない。

俯く彼女の震える肩を、抱き寄せることはもうできない。
ボーダーに残るという選択肢を選ばずにいた彼女の就職先が、県外の会社であることに気づいていても指摘しなかった。知っていてもなお、それについて行くという選択肢を選べない自分には、その資格はないのだ。


☆☆☆


声が、喉が震える。目頭が熱くて、ぎゅっと強く目を瞑る。
泣くな、泣くな。笑え、わたし。下手くそでもいい、ぶさいくでもいい。泣き顔よりは、ずっといい。
だって最後が泣き顔なんて、そんなの嫌だった。

「ごめんね、もう堪えられない。好きだけど、好きだから、もう無理なの。待っていられない。辛いの。弱くてごめん。情けなくて、ごめんなさい。これは逃げだってわかってるけど、それでも」

「──うん」

「春秋くんのことが、すきよ。どうしようもなく好きで、あなた以上に好きになれる人なんて絶対にもう現れない。だから、だから──別れたいの」

頭のいい人だ。察しのいい人でもある。だからきっとわたしが就職しようとしてる企業のほとんどが県外であることはきっと気づいていた。でも彼は、わたしの選択に口を出すことはなかった。就職活動が、院試の準備が忙しいからと、誤魔化しあってここまで来てしまった。
もっと早く手放せていれば良かった。こんなに好きになる前に、別れておけば良かった。もっと素敵な人が、わたしの前に現れてくれたら良かったのに。
でもそんな都合のいいことは起こらなくて、わたしは春秋くんをずっと好きなまま、ここまで来てしまった。
もう無理だってわかっていたのに、温かな腕を、優しい笑顔を手放せなかった。失いたくなんてなかった。

こんな弱いわたしじゃ、春秋くんの負担にしかならないから。
でも今院試で大変なのに、別れ話なんてしたらストレスになっちゃうかもしれないから、今は言えない。
自分に対する言い訳ばっかりで、でも結局は、自分のためだった。わたしが弱いから、春秋くんの帰る場所にはなれそうもなくて、わたしが別れたくないから、ずるずると終わりを先延ばしにした。
でも結局堪えきれないから、彼のことをなかったことにする。
そんなどうしようもなく醜いわたしの心を、どうか見ないでほしかった。

ほんとはね。ほんとは、一緒にこの三門市を出たかった。わたしの就職先に気づいて、声をかけて、一緒に行こうって、言ってほしかった。そうして県外で、ボーダーや近界民のことなんて知らんふりで、二人で幸せに、なりたかった。わたしの醜い、醜い願望。優しいあなたは、気づかない振りをしてくれたのかな。

優しくて、勇敢な春秋くん。この三門市のヒーローであり続ける、春秋くん。
責任感の強いあなただから、今の現状を放っておけないって、知ってる。だからわたしの醜い願望は、叶わぬ夢でしかない。そんなこと、わかりきってたのに、ね。

「うん。お前の、望む通りに」

ああ、ひどい人。
別れの言葉すら、わたしにくれないのね。


★★★


カランカランと、ドアベルの音が鳴る。
彼女の去った音だと、目を瞑って聞き入る。悲しく聞こえるその音色は、東の心がそう聞かせているのだと、わかっていた。

春秋くん、と自分を呼ぶ甘い声が好きだった。そんな呼ばれ方は子供の頃ぶりで、初めて呼ばれた時、随分驚いたものだった。恋人になったばかりのことで、照れながらそう呼んじゃダメかなと微笑む彼女が可愛くて、思わず道端でキスをしてしまって怒られた。
料理が下手で、東の部屋で夕食の支度をしていて鍋を焦がしたこともあった。泣きながら謝る彼女と一緒に新しい鍋を買いに行って、一緒に料理本と睨めっこしながら料理を勉強した。一人暮らしでも自炊に困らないのは、彼女がいたからだ。一緒に作る料理は楽しくて美味しくて、二人のコミュニケーションの一つになった。
綺麗な彼女の耳たぶにピアスの穴が開いていた時、自分でも驚くぐらいに衝撃を受けたこと、一緒に服を買いに行って、着る服全てが似合っていて可愛いのでそれを口にしていたら怒られたこと、プレゼントの指輪に泣くほど喜ばれて、胸が苦しかったこと──。
思い出が溢れて、止めどなく東の心を抉る。いつだって好きだった。心のどこかには彼女がいて、支えだった。多分、これからもきっと、ずっとそうだ。

さよならなんて、別れようだなんて、東が口にできるはずもなかった。今だって彼女を追いかけて、抱きしめて、閉じ込めてしまいたいのに。

彼女も、同じ気持ちだったのだろうか。だからさよならを告げなかったのか。今となっては、もう何もわからない。
一緒に行けたら良かった。県外に就職する彼女と一緒に、三門市の外で幸せに鳴る選択肢を選ぶことだってできた。
けれど、東には力があった。手段があった。幾度となく訪れる危機に立ち向かうのに必要な何もかもが、東にはあった。

例えば彼女と共に県外に出たとして、そこで幸せになったとして。
近界民の襲撃によって、その幸せが壊れる未来が絶対にないとは言えない。その時、東は三門市から離れた自分に後悔する。抗う術があるのに、彼女を守る力があるのに、手放すことなんてできない。
例えそのせいで、彼女が東の元から去ることになっても、それでも。

自己犠牲だと言われれば、そうかもしれない。彼女との別れに胸が苦しくて死にそうでも、それでも選び抜いたこの選択を、きっと東は後悔しない。
いつか、近界民からの襲撃もなくなって、三門市が、日本が、この世界が平和になった時に。彼女が幸せになった姿を見に行けたらいい。そうして自分は間違っていなかったのだと、ボーダー隊員であることを選んだ自分に誇りを持っていたい。

だから──だから。
少しだけ泣くことを、許してほしい。


☆☆☆


頑張った。堪えきった。えらいよわたし。じゃあねって、笑って言えたの、とってもえらい。
だから、いっぱい泣いていいよ。
この涙もきっと、今だけのものだから。

県外に就職するわたしは、記憶封印措置を受ける。ほんとは機密の部分だけでいいらしいけど、わたしは可能ならボーダーに所属していた事実ごと封印してもらうつもり。でないと苦しくてたまらなくなってしまうから。きっと会いたくてたまらなくなってしまうから。そんなの、春秋くんの迷惑にしかならないもん。

春秋くんは優しいから、わたしのことを覚えていてくれるんだろうな。
変な子と付き合ってたなって、たまに思い出してくれると嬉しいな。それでわたし以上に美人で、強くて、仕事もバリバリできるようなパーフェクトな人と、幸せになってほしいな。幸せで幸せでたまらなくなるなら、わたしのことなんて、忘れちゃってもいいよ。

わたしは醜いけど、いい子だから、春秋くんの幸せを願っている。
だって、たまらなく好きだった。これ以上ないほどの恋をしていた。多分ちょっと、愛だった。
春秋くんを愛しているから、彼の幸せを願ってやまない。

一緒に幸せになる方法を選べなかったわたしを憎んでいいよ。恨んでいい。忘れてしまったっていい。
その代わり、幸せになってね。
わたしが一生で一度きり、こんなに好きなった、大好きなあなた。

木枯らしが吹く。風に背中を押されるように、石畳の道をわたしは進む。
いつかどこかでわたしとすれ違っても、幸せすぎて気づけない、そんなあなたに、なって欲しい。
醜いわたしの、綺麗な願いを、誰かどうか、叶えてほしかった。












★★★


「随分と髪が伸びたな。伸ばしてるのか?」

ボーダー本部、すれ違いざまにそう指摘してきたのは、忍田本部長だった。東とその恋人の選択を惜しんだ一人だ。
大学卒業の前にボーダーを辞め、記憶封印措置を受けて一般人となった彼女を見かける機会は驚くほどなかった。同じ大学でも学部が違えば出会う機会は少なく、彼女の努力によって大学校内でも会えていたのだと、今更思い知っても後の祭りだ。
もっと大事にしていれば良かったと後悔ばかりしている自分は、未練がましいのだろう。

「願掛けですかね。まあこれ以上は伸ばさないようにはしますけど。院生だから許される髪型ですよね」

「まあ、そうかもしれないな。……願掛け、か」

「はい」

忍田本部長は、東の願掛けの内容を問うことはなかった。なんとなく察しているのかもしれなかったが、東にそれを知る手立てはなく、また内容をいうつもりもなかった。

「叶うといいな」

「はい。時間がかかっても、必ず」

東は恋人と別れたが、さよならを言われた訳ではなかった。
じゃあねという言葉は、再会の約束ではなかったけれど、絶縁の約束でもない。

じゃあね、またいつか。
出会うことがあれば、その時には、君が幸福であればいい。

ずっとずっと、自分のことを忘れてしまったとしても。
君が幸福でありますように。



prev / next

[ back to top ]



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -