部誌17 | ナノ


遣らずの雨



この頃つづいた猛暑日は、今日になって少しばかりマシだった。
マシ、とは言っても暑いものは暑い。日中は冷房の効いたカウンターの中の店番が多い顕彦は少しばかりの買い出しで、すっかり汗だくになってしまった。常日頃部屋のなかに引きこもって絵ばかり描いている男が、プールサイドの落とし物のように濡れてへしゃげてしまうのも無理はない。
カレンダーを見ていなかった職業画家は、店の定休日に気付かずにふらりと行きつけの店にやってきた。その店は顕彦がいとなむ喫茶店で、画家は顕彦の恋人だった。
当然のようにアポ無しでやってきた彼は、CLOSEDという看板の前で行き倒れた。幸いなことに、彼が行き倒れて数分で買い出しから帰った顕彦は恋人を熱中症から救うことができた。
冷たい麦茶を飲ませて、冷たいシャワーを交互に浴びて、一息ついたあとは、彼の目的であった軽食を作った。
喫茶店のメニューに並ぶオムライス、からひとつふたつ手間と食材をさっぴいたオムライスに、顕彦自身の夕飯のメニューからサラダを流用する。買ってきたばかりの惣菜のポテトサラダを美味しそうに食べる恋人を眺めながら、顕彦は麦茶の入ったグラスを煽る。
そういえば、しばらくあってなかったな、と思い出した。なにかしら大きな仕事があって、しばらくかかりきりになる、という話を聞いたのは少なくとも夏至前だったような気がする。
恋人なのだから、好きで恋人にしてくれと言ったくらいなのだから、会わなければ当然、会いたくもなる。しかしながら、彼が情熱を傾けることを邪魔してまで、会いたい、とは思えない。惚れた弱みなのだろうか。
あつい日差しに当てられたのか、久しぶりにみた恋人の顔に浮かれたのか、どうやって何を話しかけていいかわからないまま、いつものように顕彦の料理をもくもくと食べるひとを眺めた。
そういえば、いつもとて、顕彦から話しかけることはあまりないのだ、ということを思い出して、やっぱり日差しに当てられたのだろうか、と、少しばかり目が覚めるように、アイスコーヒーを淹れることにした。
彼も、食後に飲むだろうか、と少しばかり楽しみにしながら。

コーヒーがなくなってしまうな、と、透明のグラスを眺めながら思った。
仕事は、まだスッキリと片付いたわけではないらしい。はっきりと聞いたわけではないけれど、どこか何かに気を取られる様子を見ていれば、少しはわかる気がする。
彼の仕事について、顕彦がわかることは少ない。けれども、彼のことなら少しはわかる気がしていた。
だから、飲み終わったら帰ってしまうのだろうな、と、顕彦は思っていた。多分、まだ片付ききれたわけではない仕事を脇において、この暑い日に、カレンダーを確認せずに、出不精の男が会いに来てくれた、というだけで僥倖なのだ。
だから、これ以上は望むまいと思いながら、テーブルを挟んで肘をつく。触れてしまえば引き止めたくなるから、少しだけ距離をとる。

白くてきれいな指がグラスを掴む。結露に濡れる指から目をそらして、何気なく窓の外を見た。

ざん、と屋根を叩く音がした。
都合のいい幻覚かなにかだろうか、と窓の外を凝視する。大粒の雨が窓ガラスに跳ねている。あれほど晴れていたのに。これがゲリラ豪雨というものだろうか。そんなことを考えながら、ちらりと、振り返った。
最後のひとくちを飲み干そうとしていた彼は、動作を止めて窓の外をぼんやりと眺めていた。

「傘、いる?」

カランと氷が動く音がする。彼がこたえる前に、顕彦はひとつ、選択肢を付け足すことにする。

「……とまって、いく?」

ざんざかと降り注ぐ雨に、街の熱気は少しばかりさめて歩きやすくなっているだろう。けれども、降り注ぐ雨という口実を使ってみたくなった。
雨音でにぎやかなはずの室内に、ごくりという嚥下の音が大きく聞こえた。グラスの中にはまだコーヒーが残っているので、飲み込んだのは多分、別のものだろう。
結露をまとったグラスが、テーブルに置かれる。コースターから少しばかりはみ出て置かれたグラスは少しだけ斜めに傾いでいる。

「……顕彦、」

彼が、メニューに書かれた品物を注文するときと同じ調子で、自分の名前を呼ぶことに、心臓がはねた。遠くで雷が鳴っている。
雨はすぐにあがるとしても、もう彼は選び終えた。それが、どうしようもなく嬉しかった。



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