部誌17 | ナノ


おかわり



 なまえは昔に一度だけ、トレイを酷く怒らせたことがある。
 大喧嘩にまで発展したそのやりとりから今でもリドルに心配されるしチェーニャにもからかわれたりするが、当時のなまえは心が壊れる寸前だった。
 テストの点が悪くてもかけっこで一番になれなくてもなまえは一度だって父や母から怒られたことはなかった。次頑張りなさいと、朗らかに笑うくらい優しい人たちなのだ。
 けれど、なまえの父親はマナーにとても厳しい人だった。
 それが顕著に現れるのが食事の時間で、スクールで食べる作法など教えてはくれないだろうと言うと、母が作ってくれたスープもお肉も魚も、口に入れるものは何から何まで食べる時に逐一チェックされるようになった。勉強は大事だが食事は一生続くものであり、人は外見や作法から相手を推し量るといった価値観を父が持っていたからだ。
 確かに、勉強についてはスクールから学ぶことが多く父が求めるような作法はあまり学ぶことはない。だから父の言葉に最初はなまえも素直に頷いた。
 音を立てたり皿に盛り付けられているものを綺麗に食べられなかったり、何か一つ粗相をすればすぐに皿を取り上げられ、なまえはスープも満足に食べられずその日を過ごしたことがある。
 朝と晩の食事は毎食チェックされ、食べられない日があったとしてもなんとか日々を過ごせたのは昼はスクールで食べることになっていたからだ。父という監視の目から逃れて唯一のんびりと食べれた食事は格別で、マナーも大事だと頭の隅にはあったものの友達と話しながら食べる食事もなまえはとても好きだった。
 けれど、初めてのホリデーが訪れたあの日からなまえの考えは覆されることになる。
 朝晩しかなかった父の目は昼にも目を向けるようになり、それがホリデーが明けるまで続くことは予想できた。あんなにも、ホリデーが楽しみだったのに。
 それが日々続くものだから、次第になまえは食事の時間が苦手になった。母が作るご飯はどれも美味しい。でも、新しい料理が運ばれるたびに粗相していないか不安で、目の前にあるのに食べられないもどかしさ。粗相をしなければいいだけなのだが、一挙一動見張られている緊張感。

 そしてある日、なまえはとうとう食べ物の味がわからなくなった。
 味のしないスープ。ゴムのようにかたい肉。ただ厚みがあるだけの魚。どれもこれも色がついていて匂いもするのになまえの舌はそれを感じ取らなくなっている。そしてそれは、スープや肉、魚といったものだけでなくデザートまでも及んでいた。デザートは時々母が作っていて、それが食卓に出されていたせいかもしれない。

 それに最初に気付いたのは幼馴染であるトレイだった。
 トレイはスクールのクラスも違ったけれど、なまえやチェーニャ、そしてリドルといった幼馴染達に彼特製のデザートをよく振舞ってくれる。もちろん、なまえは今まで残したことは一度もないし、トレイが作る彼のケーキが好きだった。
 もしかしたら、トレイのデザートは食べられるかもしれない。
 そう少しだけ、期待していた。

「おいしく、ない」

 なまえの前にはトレイが作ったショートケーキが置かれている。
 つやつやの苺に綺麗に絞られた生クリーム。トレイがなまえの好きなケーキを作ってくれて、今までだったら口の中に広がる甘さが楽しみだったのに、なまえの舌はその全てを感じ取ることが何もできない。

「何が失敗だった?」
「全部。味がしない。ごめん、トレイ。もういらない」

 目を丸くしてなまえを見つめるトレイになまえは冷たく言い放つ。
 このケーキ一つにトレイがどれだけの手間をかけているのかを知っていたけれど、もうなまえの舌は何も感じ取れないのだ。勝手に期待していただけあって、絶望感が次第に増していく。
 もしかしたら、なまえの舌はこの先何を食べても味がしないのではないだろうかと。

「味がしない?」
「そんなことないけどにゃ」
「わからないんだ!イチゴは味がしなくてかたいだけだし、生クリームはぶよぶよしてて気味が悪いし、スポンジだってカスカスでおいしくない!いらない!もう食べたくない!」

 癇癪を起こしたなまえを止めたのは、温厚で優しいトレイだった。
 頬に走る鈍い痛みと赤くなったトレイの拳。
 殴られたとわかった瞬間に、なまえはトレイを怒らせたことを悟った。酷いことを言ったとも、自覚している。せっかく作ってくれたのに、なまえはトレイの気持ちを蔑ろにした。
 けれど、謝ることは出来なかった。
 トレイのケーキを食べたくて、けれども美味しいと感じ取れないなまえの舌が謝ることを躊躇し、怒らせたトレイを見たくなくてなまえは慌てて席を立つ。

「あっ……」
「変ななまえ。トレイが作った生クリームは甘くて柔らかいし、スポンジもふわふわしててうまいにゃ」

 トレイはなまえが残したケーキを指で掬い、ぺろりと舐めた。
 味見はしたし、チェーニャの言う通り味はする。
 作り慣れたショートケーキのこの味をなまえはいつだって美味しいと言ってくれていたのに。

「味が、しないって言ってた」

 まさか、そんな。
 脳裏によぎる一つの可能性に、トレイは唇を噛み締めた。
 





 トレイのケーキも食べられなくなってから、なまえは幼馴染たちを徹底的に避けた。
 リドルもチェーニャも会いに来てくれたが、彼らと会うとお茶会が始まってしまうからだ。
 けれど、チャイムが鳴って扉の向こうにトレイを見た時になまえは扉を開けた。トレイの手には、見慣れたケーキの箱があったのだ。

「もう一度だけ。もう一度だけ、食べてみてくれないか」
「どうして……」
「なまえに、魔法をかけてやる」

 そうして出されたショートケーキはあの日と同じ飾りつけだった。
 普段食べるものも美味しくなくて、でも生きるために口にする。
 きっと、トレイのケーキも同じだろうとなまえが口にした瞬間に、なまえは目を見開いた。

「……すっぱい。甘い。おいしい……なんで」

相変わらずなまえの舌の上ではイチゴに固さはあったが酸味が効いていた。生クリームはぶよぶよとした感触がするし、スポンジだって前と変わらないのに、なまえが大好きだったトレイのケーキの味がした。

「俺のユニーク魔法だ。短時間しか持たないけどな」
「でも、美味しい。トレイ、美味しい……ちゃんと、味がする」

 ぼろりと零れた涙に慌てて拭うものの、次から次へと溢れ出る。
 大好きだったトレイのショートケーキの味と全く同じで、なまえはこれが好きだったのだと思い出す。

 泣きながらケーキを食べるなまえを尻目に、トレイはそっと息を吐く。
 なまえの味覚障害について、根本的なところは何も変わってはおらず、トレイのユニーク魔法がなければなまえの舌はまだ何も感じ取ることはできない。
 けれども、トレイのケーキを美味しいと思ってもらえていたこと、そしてなまえが美味しいと思いながら食べてくれることにトレイはひどく安心した。 

「おかわり、するか?」
「……する」



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