餞の花束
気づけばずっとそばにいた。
第二王子についたって何もいいことはない。幼いレオナの言葉に、そいつは笑ってそんな訳でないですよと笑った。
なまえ。姓はない。レオナの従者になるにあたって、家名は捨てたのだという。
「私は、レオナ様のための従者ですからね」
勿体ぶって宣うくせに、レオナに優しく触れる手は気安く、まるでそこらの子供のように扱った。夜中にそっと泣くレオナを膝の上に抱き上げては、泣き止むまでずっと背中を撫でてくれた。
「おまえ、おれがこわくないのか」
レオナのユニーク魔法は物体を砂に変える力だ。きっとそれは、生きてるものだって一緒だ。自身ですら恐れる力を、誰もが恐れて近寄らなかったのに。
「怖くなんてありません。レオナ様が優しいって、私は知っています」
レオナの小さな手を己のそれで包み込み、目を合わせて告げる従者の言葉を、レオナはすぐには信じることができなかった。それでも信じたかった。もうすでに、離しがたかった。
本当のレオナは、優しくなんかない。何か無礼をされても許すのは、騒ぎを起こして大事になってしまっては困るからにすぎない。
大人しくしておかないと生きていけないと肌で感じたから、息を潜めて生きている。
何かトラブルを起こせば、容易くこの命は刈り取られてしまう。
本来であれば、第二王子であるレオナは兄王子を支える側近として、そして兄に何かあった際のスペアとして生きる予定だった。しかし発現したユニーク魔法により、その地位も変化しつつある。王家の血を引く貴重なスペアではなく、王家をも滅ぼす危険因子とみなされようとしている。その風潮が、強くなって来ていた。
こんな力、欲しくて手に入れた訳でもないのに。
破滅に近い第二王子の側仕えなど、なんの旨みもない。誰もが幼いレオナから離れようとするなか、なまえだけが唯一、ずっとそばに在った。数々の悪意から、レオナの心を、体を守った。
レオナにとっての唯一になるのに、時間はかからなかかった。
「オレの家族はお前だけだ」
自室はいい。レオナを恐れて、誰も近寄らないから。少し前はそのことがとても悲しかったが、今はそうでもない。なまえを独り占めできるし、人目を憚る必要もなく、堂々と甘えられるからだ。
いつものように膝に乗り、額をなまえの肩口に預けれると、嗅ぎ慣れた優しい香りがレオナの鼻をくすぐった。少し甘い、花の香りだ。何の花の香りなのか、調べてもなまえは教えてはくれない。数多くあるなまえの謎のひとつだった。
「そんな寂しいことを言わないでくださいな。お父様もお母様も、お兄様だってレオナ様のご家族ですよ」
「知らない。いらない。なまえだけいればいい」
「レオナ様が私のことを大事に思ってくださっているのは嬉しいですが……困ったな」
対して困ってもいなさそうな笑みに、レオナはフンと鼻を鳴らした。レオナにとっての唯一がなまえであるように、なまえにとっての唯一もきっとレオナだ。そんな確信を抱けるのは、ひとえになまえが愛情深かったからだ。彼のレオナに捧げる愛が偽物だったとして、それでも騙されてやろうと思えるほどには献身的だった。力を暴走させたレオナに寄り添い、体の一部を失ったとしても、負の感情を一切見せることなく笑って寄り添うくらいには。
「指切り、できなくなったな」
なまえの右手の小指は付け根から失われていた。魔法で砂となったからか、如何なる魔法を用いてもなまえの小指が元に戻ることはなかった。僅かばかりの治癒魔法は、なまえの小指の付け根の部分をつるりとした皮膚で覆って、それだけだった。
「いいんですよ。指切りするのはレオナ様とだけだという証になります。この小指は私の忠誠。私の愛です。貴方だけが、私の主人なのだという証ですよ」
握った右手を差し出される。恐らくは指切りの形をしているのに、あるべきはずの小指がそこにはない。それでもいいのだと、そうあるべきなのだとなまえは笑う。
この時の感情を、どう表現すればいいのだろう。
叫び出したいくらいの熱が奔流となって胸の裡で暴れ回っている。泣きそうで、でも泣けなくて、レオナは唇を噛み締めることしかできない。苦しくて悲しくて、でも幸せで。
もういいと、思った。
何もなくても、なまえさえいれば。それだけでレオナの心は満たされる。幸福だと思える。誰にも愛されていなくても、嫌悪や恐れに満ちた視線を向けられても。そばになまえさえいれば、それでよかった。充分すぎるほどだった。
なまえの小指の喪失は、レオナに心の安定をくれたが、これ以上なまえを失わせるわけにはいかなった。なまえのてっぺんから爪先までレオナのものだ。持ち主であるレオナが、なまえを傷つけるわけにはいかない。己自身であっても許し難い行為だ。
もうこんなことが起きないようにとレオナは励んだ。ユニーク魔法の制御はもちろん、なまえの弱みにならぬよう、あらゆることを学び、会得していった。
レオナがなまえという殻に閉じこもっている間に、いつのまにか兄は結婚し、子供が産まれていた。継承権は第三位になった。継承権が前後することによって思い出されたのか、レオナの名前が王宮で持ち出され、兄と比べられることが増えた。
そうすると、父王に呼び出された。
「レオナ。今まで離れていて申し訳なかった」
離れていても、お前を愛していたよ。
薄っぺらい言葉だ。何を今更、とレオナは思う。
今更、今更だ。親が恋しい時期はとっくのとうにすぎた。歴史を学ぶうち、父王が忙しかったことは理解した。年の離れた兄王子とともに、国の安定のために駆け回っていたのだとわかる。だからこそ、レオナの周りに目が行き届かず、なまえ以外の側仕えの質が悪かったことも。
それでも。レオナが孤独だった事実は消えない。それを癒やしたのはなまえで、決して目の前の王ではなかった。今更父親面されても困るし、迷惑だった。
レオナにとっての家族はなまえだけだが、だからといって父母や兄と敵対したい訳ではない。余計な軋轢を産まないためにも歩み寄るべきだとなまえは言った。
「オレの家族はお前だけだ」
「……困りましたね、レオナ様。家族はふたりきりじゃなくたっていいんですよ。家族とは、増えるものです」
確かに家族は増えただろう。継承権第二位の幼い王子が。けれどその家族はレオナの家族ではなかったし、レオナの求める家族でもなかった。
それでもしつこいなまえに説得されて、顔を合わせれば挨拶するようになり、雑談することも増えた。父王や兄王子は嬉しそうだったが、レオナの心は乾いていた。潤せるのは、なまえだけだ。
レオナが血の繋がった家族と交流をもつようになり、成長するにつれ、その有用性を見出したのか、擦り寄るものが増えてきた。煩わしいそれらを一掃しようとするレオナを止めたのはなまえだ。
「排除すれば、その分反発し、敵も増えましょう。利用されるふりをして、利用することが肝要ですよ。それが正しい権力の扱い方というものです」
煩わしい甘言も皮肉もおべっかも、何もかもを呑み込んで利用せねば、王宮の中では生き抜けない。今までそれらを知ることがなかったのは、なまえがレオナの盾となり守ってくれていたからだ。
かつてはこの能力を恐れていたくせに、制御できるのだとわかれば恐れを忘れ、時に媚びへつらい、時に嘲る。王宮で生きるものたちの脳みその記憶容量はそう大きくはないらしい。比較も批判も嘲りも腹立たしいことこの上ないが、それすら呑み込まねばならないのだろう。だからといって舐められる訳にもいかない。その匙加減がなかなかに難しい。
ストレスでどうにかなってしまいそうなレオナを心配してか、なまえがひとつの提案をしてきた。
「学校に通いませんか、レオナ様」
「学校?」
「ええ。貴方ももう15歳。いずれ馬車が迎えに来ることでしょう。」
「馬車って…….ナイトレイヴンカレッジのことか?」
「はい。レオナ様にはご学友が必要かもしれません。この王宮は貴方には狭すぎる。王宮の外にも世界は広がっていることを貴方は知識でしか知らない。外の世界で、貴方だけの仲間や味方を見つけましょう」
「仲間や味方なんて、そんなもん」
お前がいるから充分だろう。
吐き出しかけた言葉は、なまえの笑顔によって飲み込まざるを得なかった。交友関係を広げろと何度も口酸っぱく言われているが、そも王宮にはレオナと歳の近い子供がいない。子供を職場に連れてくる大臣や文官なんぞいるはずもないし、交友関係を築くための茶会のようなものは開催すらしていない。手紙で誘われることもあったが、すべて蹴っているレオナである。
「……あそこは、全寮制だろ。行きたくねえ」
「楽しいかもしれませんよ。それにお友達を作るには絶好の場所です。現に今、ファレナ様をお支えしている側近や、力添えしている外国のお知り合いのほとんどはナイトレイヴンカレッジで出逢ったとか。伝手を作るチャンスですとも」
「でも、あそこには」
お前がいないじゃないか。
全寮制ということは、なまえと離れて暮らすということだ。幼い頃からなまえがそばにいることが当然で、なまえのいない生活など想像したこともなかった。
己の心の拠り所がなまえであり、なまえに依存していることをレオナも承知している。このままではよろしくないことも。全寮制の学校に通うことは、自分にとっていい経験になると、頭では理解できている。なまえと離れて暮らすことで、レオナは精神的な依存から脱することができる。そのはずだ。
だけど。それでも。
どうしても、離れがたかった。レオナの唯一。たった1人のよすが。レオナをこの世に繋ぎ止めるもの。どつして離れることができるだろう。
「情けない顔をするものではありませんよ、レオナ様。貴方は誰です?」
「……オレ、は」
「貴方はレオナ・キングスカラー殿下。この国の第二王子。そんな方を、側仕えもなしに学園に送り出すとでも?」
にっこりと笑うなまえに、レオナの肩の力は抜けた。それも、そうだ。レオナの側仕えはなまえだけだ。昔と違い、今はレオナの側仕えも増えた。それでも従者として、一番近くに控えさせているのはなまえだ。それ以外は有象無象と変わりない状況であれば、ついてくるのも、なまえになるだろう。
「私、結構童顔だという自負があるので。一緒に入学してもイケると思うんですよね」
「それはちょっと、厚かましくないか?」
呆れたレオナの一言に怒ったのか、無言でにこにこ笑いながらレオナの耳をふにふにし続けるのは勘弁して欲しかった。
そうしてすったもんだあって入学したナイトレイヴンカレッジは、悪いものではなかった。離れ小島の学園は、外界と遮断されている環境だからこそ、自由があった。ここには自国のように蹴落とすための視線や、媚びるための甘言がある訳でもない。王子としてではなく、学生として生活するのは、想像していた以上に息がしやすかった。
開放的になったからか、自分でもよく笑うようになったと思う。張り詰めた何かがなくなったからか、くだらない話ができる友人もできた。新生活は楽しかった。
同い年だという触れ込みもあり、なまえとの関係はより気安いものになった。それでも一歩引いてレオナの後ろを歩くなまえの肩を組み、何度隣を歩くよう促しただろう。自国ではこんなことは決してできなかった。
「キングスカラーはなまえと仲がいいな」
「当たり前だろ、家族だぞ」
友人の言葉に返した一言に、そばで聞いていたなまえは面映そうな顔をした。いつも本人に言っていることなのにと、レオナはなんだか不思議な心地がした。
春、夏、秋、冬。
友人とともに、自国ではできない様々な体験を経験した。馬鹿をやって教師に怒られたり、マジフトをしていて泥だらけになったり、真夜中に抜け出して酒盛りしたり。美しい花も、鮮やかな夕焼けも、夜空に輝く星々も、知っているはずの何もかもを新鮮に感じた。初めて心から生きていて楽しいと思えた。その隣には必ず、なまえがいた。いつだってレオナの心が感動で震えるときには、なまえの姿があった。
しあわせな、しあわせな時間だった。
そうした時間は尊く、そして短かった。
ある時から、なまえがレオナのそばを離れることが増えてきた。腹を壊しただの、調子が悪いだの、教師に呼ばれただの、理由は様々だ。顔色が良くないなまえに付き添おうとしても、学生の本分を忘れるなと授業に送り出されてしまう。
回数を重ねるたび、なまえの顔色は悪くなる。心配になったレオナが後をつけると、なまえは保健室ではなく、学園の隅へと足を向けた。
ふわりと白い花びらが散る。よく見ると薄桃色をしたそれは、学園の隅に咲く大樹のものだった。鼻先を掠める香りに既視感を覚えたレオナだったが、その根本に蹲るようにして伏せるなまえの姿に駆け出した。
「なまえ!」
「レオナ様……授業は、どうなさったのです」
「授業なんてどうでもいいだろうが! お前、どうして、何があった!?」
「うーん……もう少し、猶予があると思ったのです、が」
抱き起こしたはずみにか、けほ、となまえが咳き込むと、ついでごぼりと血の塊を吐いた。なまえのかつてない様子に、レオナの頭が真っ白になる。どうして、どうして、いつから、こんなことに?
「なまえ、なまえ……早く保健室に行くぞ、運ぶから待て」
「レオナ様。動揺させてしまって、申し訳ありません。ですが、貴方様ならすでに、お分かりのはずです」
力なくなまえが己のシャツの胸元を肌消させると、心臓の上にどす黒い刻印があった。呪いだ。誰かがなまえを呪っているのだ。
まさか、という思いがあった。そんなはずはないと願いながら、それでもなまえのこの先が短いことを知る。
「オレのせいか」
「違います」
「違わなくねえだろ!? オレが、お前をそばに置いたから。離れられなかったから、だから、だからお前はこんなことに」
「レオナ様、違います。貴方のそばにいたのは、私の意志です。離れようと思えば、離れられるタイミングは、たくさんありました。それでも、私は、貴方を、選んだ。貴方のそばに、いたかったからです。貴方を、お支えし、貴方の成長を、そばで見守りたかった。これは私の意志で、私のエゴです」
心臓を中心に、刻印が蔦を伸ばし、なまえの体を蝕んでゆく。なまえを死なせないように、知る限りの魔法をかけても回復する兆しはなかった。
命が、この腕からすり抜けてゆく。これ以上ないほどの恐怖を味わいながら、レオナはなまえに回復魔法をかけ続けた。
「愛しています、レオナ様。貴方は、私の、唯一の家族。どうか、幸せにおなりください。それだけが、私の祈り、私の願い」
「うる、さい──お前なしで、オレが、幸せになれると思うのか?」
抱えたなまえの小ささに、レオナの胸は痛んだ。いつだっただろう、なまえの身長を抜かしたのは。体が大きくなり、成長痛で涙目のレオナを揶揄ったなまえの笑顔を、どうしてか今、思い出してしまう。
「どうでしょう。私なしで、幸せになる、と、いうのは、寂しくもありますが、それでも、やっぱり、私は……貴方には、笑っていてほしい。貴方の流す涙の理由が、幸福なものであってほしい。悲しんでほしくないし、苦しんでほしくもない。ね、レオナ様。私の家族は貴方だけですが、貴方の家族は私だけではありません。友人もたくさんできて、貴方のこの先はきっと幸福に溢れています」
「嘘をつくな、嘘だ、そんなもの……っ、お前なしで、どうやって」
「だいじょうぶ、だいじょうぶですよ。貴方を害するものは全て、私が連れて行きますからね」
穏やかな微笑みは、死に際なのに、どうしてだろう、幸せそうに見えた。
「追いかけてきてはいけませんよ。貴方は寿命で死ぬんです。それ以外は許しません。幸せで幸せで、こんなに幸せでどうしようって頭を抱えながら死んでください。幸福な悩みで頭を悩ませて、たくさんのひとに囲まれて、看取られて死んでくださいね。だいじょうぶですよ、怖くありません。だって私は、今、とっても幸せなんです」
「どこ、が。こんな、離れ小島で、こんな年齢で、どうして」
「だって、貴方がいます。貴方が手を握っていてくれる、それだけで私は幸福です。誰かに見守られているというのは、なかなかよいものですね。知ってましたか?」
「──っ、知って、る……っ」
ずっと、ずっと。見守られていた。守られていた。ずっとそばにいたのだ。いてくれたのだ。その献身が、愛が、当たり前のものだといつから感じていたのだろう。
物心ついてから、なまえはいつもレオナのそばに在った。レオナの思い出は、なまえの思い出と同義だ。
それなのに。これだけ依存させておいて、お前無しじゃいられなくさせておいて。
こんなにあっさり、置いていくのか。本当ならお前は、独りで、死ぬつもりだったのか。こんな、誰もいないような学園の片隅で、たった独りで。
「それは、よかった……私はやっぱり、幸せ者です」
恨んでくれた方がよかった。憎んで、離れた場所で幸せに暮らしてくれていた方が、よほどよかった。そうすればなまえはきっと、こんなところで死ななかった。
そんなに幸せそうに笑わないでくれ。お前の人生が幸福だったのだと、自分といたからこそ幸せだったのだと、勘違いさせないでくれ。
「ああ、風が、強い……桜が、散ってしま、う」
散るには、まだ早い、と。
そうなまえが呟いた先から、なまえの体は崩れていった。指先が、髪が、体が、花びらとなって風に攫われていく。腕の中のなまえが消えないように、どこにも行かないように抱きしめても、さらさらと体は崩れた。
「嫌だ、なまえ、なまえ! 行くな、そばにいてくれ、ずっと、ずっと──!」
「ごめん、なさ、レオナ、さま──元気で、すこやか、で、しあわせに、なっ──」
「なまえ!」
強い風が吹いた。風は花びらを、なまえを攫ってしまう。
レオナの腕に残ったのは、温もりの残る、なまえの制服だけだった。
ほんとはこんなもの着れる年齢じゃないはずなんですけどね、と笑っていた。コスプレですよこんなの、と頬を染めたなまえが、同じ制服を着て生活するのは、思いの外楽しかった。
楽しかった。幸福だった。ずっと、続くと思っていた。
人は、脆い。当たり前にそこにあった幸福でさえ、あまりにも脆く、壊れやすい。
「─────────っ!」
レオナは、吠えた。
ただひたすらに、吠え続けた。
暴走した力が、魔法が、当たり一帯を更地にしようが、どうでもよかった。
もう、どうだってよかった。自分のことだって、どうだって。
ただひたすらに、どうしようもない悲しみを振り切りたかった。
死んだかと思っても、案外死ねないものだ。
助かった命は、生きながらえさせないとならない。それがなまえとした約束だからだ。追ってはならないとなまえが言ったから、レオナは死ぬことすらできなかった。
学園を危険に晒したとして、レオナは謹慎処分を喰らった。その実、魔法を暴走させたレオナの治療期間を謹慎期間と言いかえた程度のもので、下らなくて吐き気がした。
謹慎中、兄が一通の手紙と共に学園に来た。なまえからの手紙だ。無言で差し出された手紙を読むと、そこにはなまえの余命が少ないこと、ただで死ぬ気はないのでレオナを害するものを引き連れて死んでやるつもりであること、そのあとのフォローをお願いしたいことが書かれていた。
兄君はご存知ではないかもしれませんが、から始まるレオナの情報は、明らかに兄に対してマウントを取っていた。何やってんだと思わず笑った。やっぱりなまえは、レオナのことばっかりだった。自分のことを蔑ろにしてばっかり。いつか叱ってやろうと思っていたのに、その機会は永遠に失われてしまった。
「レオナ……」
「帰ってくれ。今は誰とも話したくない」
今更家族面されても困る。レオナの家族は、やっぱりなまえだけだ。
あの胸の刻印は、誰かから受けた呪いではなかった。
なまえが、己に課した呪いだったのだ。
それが、とても悲しい。結局レオナはなまえにとって庇護の対象でしかなかった。対等ではなかった。対等であればきっと違う終わりがあったはずだった。
後ろ髪を引かれていそうな顔で兄が国へと帰ってすぐ、部屋を抜け出した。なまえの最期の場所へと向かう。自分が更地にしたはずの場所は、一面の花畑になっていた。誰の仕業か知れない。なまえの友人かもしれないし、なまえを褒めていた教師かもしれない。
花畑の中心で、大樹は相変わらずそこにあった。全てを枯らしたかと思ったが、この樹だけは残していたらしい。我ながら器用なことをする。
なまえが言っていたから、この大樹の名前はサクラというのだろう。なまえと同じ花びらの樹だ。鼻を掠めるこの香りは、なまえから香っていたのと同じ匂いだ。
逞しい幹に額を預け、レオナは少し泣いた。
ああ、やっぱりお前は、いないんだな。
もう、どこにも。
レオナを愛してくれたひとは、いないのだ。
その後のことは、記憶もまばらだ。全てがどうでもよくなって、無為に過ごしていた。追うなと言われたから生きている。幸せのなり方なんて知るはずもない。教えてくれるはずだったひとは、もうどこにもいない。
レオナのことを一番に愛し、一番に考えてくれたひと。自分のことさえ後回しだったひと。唯一の家族、唯一の最愛。
「まーた留年ですか、レオナさん」
「うるせえ」
いつのまにか後輩ができて、いつのまにかそばにいて、レオナを置いて卒業していく。このままではいられないことは分かっていたが、それでも学園からは離れがたかった。
ここには思い出が多すぎる。
そこかしこになまえとの思い出が詰まっていて、ふとした瞬間に鮮明に思い出せてしまう。卒業すれば気軽に学園をうろつくこともできなくなることを思えば、卒業する気も失せるというものだ。
「どこに行くんすか? 授業始まっちまいますよ」
「サボる。適当に言っとけよ、ラギー」
「またっすかぁ? へいへい」
適当に花を買って、大樹の元へと足を向ける。
花を買うのは、今日が命日だからだ。
なまえのことを、忘れたくなかった。あんな奴もいたな、なんてたまに思い出すような、そんな存在にはしたくなかった。思い出なんかに、本当はしたくなかった。
目を閉じればいつも、瞼の裏には、いつだってなまえの笑顔があった。それが現実であればいいと、いつだって願っていた。
風に吹かれて、花びらが舞う。レオナの視界を掠めたのは、あの大樹の花びらか。
伝えたいことがたくさんあった。いつだって伝えられると思っていた。後悔ばかりがレオナの胸を占める。
愛していたよと言えていたなら、何か少しは違っただろうか。
幸せだと笑った最期が、唯一の救いだった。
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