部誌17 | ナノ


愛ならば仕方ない



古めかしい本の匂いが満ちている。手元の書類を繰るたびに、真新しい紙とインクの匂いが鼻先を掠めて、漂い、甘い紙の香りに霞んでいく。
古く、珍しくもない本が並べられた小さな図書室。
その部屋の大部分は湿度のない、冷たい匂いがする。本の褪色を避けるために、窓からの光は最小限に絞られているのだ。
図書のために設計された部屋には、一部分だけ、人間のための陽の当たる場所がある。
小洒落た装飾の実用性に乏しいテーブルと、悪くはない座り心地のアンティークの椅子が2脚。使用率の低い書籍がまとめておさめられたその部屋に相応しい飾り物のテーブルセットだ。
陽の当たる場所と、そうではない場所は空気の温度が異なって、異なる温度の空気は風とは呼べない程度の空気の流れを作る。
限られた陽光を背中に浴びての読み物は眠気を誘い、どこか幻想的な気分にしてくれる。
この一年ほど、この部屋のこのテーブルはなまえの特等席になっていて、今日もまた、なまえは印刷したばかりの書類を持ち込んで読みふけっていた。
ペーパーレスが叫ばれる時代にそぐわないスタイルだが、この学園において森林の敵と言える嗜好は、さほど珍しくもない。
積層する記憶の中に新しい情報を刻みながら、紙ではない匂いに意識を移す。

稼働する電子機器の放つにおい。
特徴的な整髪料。シャンプー、コンディショナー、柔軟剤、ボディーソープに混じる香料。体温で揮発する、高慢ちきな香水。それから、固有の体臭。

なまえの特等席への闖入者が放つにおいへの慣れに、溜息を吐きながら、なまえは手にした資料を丸テーブルに投げやった。

「参った。降参だ」

ばさりと音を立てて落ちた紙の束を僅かな動きで視界に納めた闖入者は、少しだけ眉を動かした。長いまつげが涼やかな目許に揺れる影を描く。瞬きひとつが絵になる。

「……もしかして、僕に向かって言っている?」

長めの沈黙のあとに、吐き出された声は少しかたい。クラスで耳にする彼の朗々とした声とは違う、日常での発音が新鮮だった。

「この部屋にいるのは俺と君だけだ」
「何に対しての降伏宣言なのか聞いても?」

手にした電子機器を伏せる仕草は、気取っているように見えるのに、それがとても様になっている。

「この部屋の使用権だよ。君に譲ろう。俺は他の部屋に移ることにする」

少なくはない枚数の紙を脇においたファイルの中に戻しながらため息まじりに言葉にする。

「おや? この部屋はひとり用だったかい?」
「さぁ。しかし、あなたがいるのでは俺はこの資料に集中できない。この部屋はこれからあなたが使うといい」
「……ふうん?」

形の良い眉をひょいと跳ね上げながら、彼は手の甲を指で軽くノックした。

鴨乃嘴ロン。この探偵養成学校BLUEにおいて、彼の名前を知らぬものはない。未だ実習に出たことはないものの、どの分野においても比類ない成績を残す、BLUEきっての探偵になるだろうとまで言われている生徒。
他の学生への興味がまるでないなまえも、入学の年度も違うのに、その名前を知っている。

その有名人が、この名門学校の端に引っ掛かるだけのしがない学生のうちの一人に過ぎないなまえしかいないこの図書室に度々現れるようになった。
この部屋に、椅子は向かい合うふたつきり。その椅子を移動させることもなく、なまえが座っていようとお構いなしに、挨拶もなく腰掛ける。優秀な彼が、なまえに話があるとも、何か興味をひかれたとも思えなかった。とすれば、鴨乃嘴ロンがこの場所を気に入って、神経質ななまえを静かな圧力をもって排除しようと試みているのだと、なまえは考えた。

「僕がいると集中できない?」
「神経質なものでね」
「なるほど、たしかに」

ちらり、と彼が視線を動かす。反射のようになまえは親指の爪を隠した。ストレスがかかると、爪を噛む癖がある。良くない癖だと教官からの指摘を受けて最近は減っていたのだが、この部屋にロンが現れるようになってから、再発した。

「邪魔をするつもりはなかったんだ。悪いことをした」

首をかしげながら人に好かれる笑顔をつくる。動いた拍子に香水が強く香って、眉を寄せた。彼の性格を詳しく知っているわけではない。なまえが彼を好ましく思わない理由はただの僻みだと、自覚もしている。だけれども、この香りにざわめく胸が訴えるものが、わからない。

「べつに」

ただでさえ、この学校の中では並程度の頭しかないのに、思考が乱れやすいときては、実践では致命的。そのためになまえはなんとしても、椅子に腰掛けたまま謎を解く研究室に入る必要があった。
ここ以外、どこでなら集中できるだろうか。
目の前のどこにでも行けるエリートを恨めしく思いながら、ひとりになれる場所を思い浮かべる。
あまり、たくさんのにおいがある場所はダメだ。気が散って仕方がない。その点、人の出入りが極端に少なく、嗅ぎ慣れた匂いが溢れる図書室はなまえにとって理想的な場所だった。

「僕は君がいると、頭が冴えるから、考えが及ばなかった」
「は?」

柔らかく眇められた目。陽の光を弾く虹彩は薄い色をしている。微笑みを浮かべた唇が何を言っているのか、まるで理解ができなくて、思わず聞き直した。

「僕自身、確証はないのだけれど、なぜか君がそばにいると閃くんだ」
「……それは、俺とは真逆ですね」
「真逆と言うと?」
「俺は、あなたのにおいが邪魔なんですよ。あなたのにおいがすると、落ち着かない」
「匂い? ……ああ、君は鼻が良いのだっけ」
「人よりも雑音が多い、程度ですよ」
「雑音、か」

愉快そうに鼻をならす。皮肉交じりの宣言がまるで意味をなさなかったことに顔を顰めながらなまえはファイルを閉じた。

「気に入らないのは香水かい?」
「あなたのにおいが気に入らないわけではないよ。気が散る、というだけで」

やんわりと設問とは違う部分を否定して、話題をそらし切り替えようとする。
好きか嫌いか、で言えば、おそらく好きであろう。
問われて、答えを考えて初めてそのことに気がついた。多分、気になる部分も、好きな部分も、香料や香水で変えられる部分ではなくて、彼自信が持つ体臭だろう、ということにも。

頬を歪めてわらいながら、話を遮るように、ファイルを小脇に抱えた。

「僕はもうここには来ないよ。だから君は安心してここを使うと良い」

アンティークの椅子が微かにきしむ。なまえが席を立つよりもはやく、ロンが立ち上がった。薄い、電子機器をひとつきり手にした彼は嫌味のない微笑みで、なまえを見下ろす。

「君の隣にいると頭が冴える理由を探していたんだけれど、今、見つかったから」

レポートを書く必要のある課題の謎で満たされるべき頭に差し込まれた新しい謎に、なまえはあからさまに顔をしかめた。

「失礼ながら、答えを聞いても?」

なまえの頭の狭い計算領域に、無駄な謎を置くスペースはない。早いところ片付けてしまいたかった。

「そうだね。言葉にするなら……愛、かな」

なまえはロンの答えを鼻で嘲笑う。臆面もなく言葉にされたとは思えない告白に聞こえた。

「なら、仕方がないな」

刺々しいなまえの声に、彼は微笑みだけを返して、悠々と背中を向ける。遠ざかる匂いが胸を軋ませる。
ひとつの謎に対する答えが示されて、なまえが知らずに抱えていた謎も解けてしまった。馬鹿馬鹿しい解答をあざ笑いながら、なまえは閉じたばかりのファイルの表紙を開いた。



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