部誌16 | ナノ


言い訳の義理チョコ



 ふらりと入った店内は、休日の昼間らしくほぼ満席の賑わいだった。どこからともなく漂う甘い香りに、今日が何の日か思い知らされる。先ほど受け取った紙袋を、しっかと持ち直す。
 1階を諦めて、2階に上がった。空席を探して見渡すと、おあつらえ向きに窓際の二人掛け席が一つ空いている。
安堵とともに踏み出しかけた時、ふとその二つばかり奥に座る人物が眼についた。逞しく鍛え上げられた体躯と、赤みを帯びた短髪。ニュース映像等で見る苛烈さは影を潜め、巨大な岩石のような、しばしの休息をとる大型肉食獣のような静けさを纏っている。しかし、まさかこんな休日の昼下がりに全国チェーンのコーヒーショップにいるとは思ってもみなかった。行くとしても、もっと静かな、個人経営の店だろうと。
 自分勝手な衝撃と思い込みで、知らぬ間に凝視していたか。注がれる視線を察し、澄んだ紺碧が動いた。
 視線が合ってしまった。ただの偶然かもしれない。向こうは気付いていないかもしれない。そんな悪足掻きは、厳しくも整った顔面の中、ぐっと寄せられた眉根に打ち砕かれた。完ッ全に気付いている。
 不運は重なる。自分が彼に気を取られた数秒の間に、先に見つけた空席が埋まった。他の席が空くのを待つか。否、明らかに不自然だ。イートインを選んだ数分前の自分が恨めしい。せめて今日でなければ……。
 仕方ない。意を決し、みょうじなまえは己の顔に笑みを貼りつけた。

「オヒサシブリです、義兄さん」

 ご一緒させてもらってもいいですか。精一杯の明るい声と表情で、席に座る義兄に話しかける。
 直接顔を合わせるのはおろか、言葉を交わすことさえ、過去に何度あったか。正直、苦手な相手である。相対するなど、姪の高校卒業以来ではなかろうか。上向く紺碧の鋭さたるや。なまえの心は折れそうだった。断るなら、さっさと断ってほしい。

「好きにしろ」
「……そうさせてもらいます」

 まさかの許可が出た。驚きを呑み込み、なまえは席に着く。正面から見る義兄――姉・冷の夫である轟炎司の姿は、いつかの記憶と変わらず大きかった。


**********


 轟冷――旧姓、みょうじ冷は、現在とある病院に入院している。彼女の入院を聞いた時、なまえは大して心配もしていなかった。自分自身が婚約したばかりで、浮かれていた。不義理な弟である。しかし物静かな外見に反して行動的だった姉は、昔から怪我が絶えなかったし、氷の城を作るのだと『個性』を使い過ぎて低体温症に陥った挙句、救急車で運ばれた事もある。どうせ今回もそんなところだろうと、高を括っていた。
 だから、入院先の病院に聞き覚えがなく、退院時期も未定と言われ焦った。そこが心療内科を主とした病院で、入院の理由が家庭の不和による心身衰弱と知った時は、血の気が失せた。
 なまえの炎司に対する苦手意識は決定的になった。だが同時に、妙な負い目がある。
 姉の入院後に轟邸に赴いた際。偶然にも帰宅していた炎司と出くわしたなまえは、渾身の力でその顔面を殴った。彼我の身長差もあり大した威力はなかったが、それでも口端が切れるぐらいの戦果は上げた。それが、手心を加えられた戦果である事は言うまでもない。相手はNo.2ヒーローであるエンデヴァー。対して、こちらは一般人。素人の拳ごとき屁でもないと、そのまま受けられただけだ。事実、炎司の身体はびくともせず、紺碧でなまえを睥睨していた。しかし、翌日のニュースで映った彼の顔にあった小さな傷に、言いようのない居た堪れなさを覚えたのだ。
 とはいえ、炎司相手に何を話せばいいのか。今更、「あの時はすみませんでした」と言うのも何か違う気がする。第一、謝りたくない。

「そういや、焦凍も4月には高校生ですね。進学は、やっぱ雄英ですか?」

 縋るように浚った脳裏に、姉の末っ子の顔が浮かんだ。ただし、記憶はかなり朧気だ。長女の冬美と次男の夏雄には、姉の見舞いで顔を合わせる機会もあるが、末っ子で三男の焦凍には全く会っていない。焦凍自身の中学入学祝いで、小遣いを押しつけたのが最後だ。ここしばらく、正月のお年玉さえ冬美経由である。
 焦凍の存在は、姉の入院理由の一つでもあった。嫌味と聞こえただろうか。しかし、その懸念は杞憂に終わった。一つ鼻を鳴らし、炎司はむしろ上機嫌に頷いた。

「ああ。雄英のヒーロー科を受験させる」
「将来は、ヒーローに?」
「アレには才能がある。必ずオールマイトを超えるNo.1ヒーローにする」
「すごい自信ッスね」

 紺碧が深みを増す。炎司の口許が歪んだ。

「当然だ。アレは最高傑作だからな」

 最高傑作。なまえの脳裏に姉の嘆きが蘇る。入院直後は姉の憔悴も激しく、実弟である彼でさえ面会を許されなかった。姉が多少回復し、病院の面会室で話した時。彼女はなまえの婚約を覚えていたのだろう。妻を子供を大切にしてやってくれ、と涙ながらに訴えた。それは、彼女が夫に望んでも望めなかった他愛ない日常だった。
 なまえは、我知らず己の両手を組んだ。話題選びを完全に間違った。身の内で燻る激情を宥めるように、10本の指を組み合わせる。

「そっちはどうなんだ」
「はい?」
「もう君もいい年齢だろう。子供は作らんのか」

 空白。訝しむ炎司の声に、指を組み合わせる力が抜けた。
 冬美も夏雄も、他人のプライベートを誰彼構わず話す人間ではないし、そもそも炎司自身がヒーローとしての職務上必要な範囲を除けば、他者のプライベートに興味がない。だから彼がなまえの事情を知らないとしても、おかしくはないのかもしれない。もっとも、ソレも彼と妻の関係が良好ならばありえなかった話だろうが。
 よりにもよって、今日彼にその話をしなければならないのか。なまえは舌で己の口内を探った。かわす為の言葉を探すが、見つからない。そして、諦めた。

「実は離婚しまして。今は気楽なやもめ暮らしです」

 紺碧が、初めて動揺を見せた。どうやら本当に知らなかったらしい。証拠とばかりにまっさらな左手を広げ、炎司の前で表と裏を見せる。彼を殴ったあの日には、薬指にシンプルな銀の指輪があった。しかし、今はその跡も残っていない。

「……いつ、別れたんだ」
「5年前ですねー」
「5年」
「はい、ちょうど今日で5年です」

 5年前の今日、2月14日。なまえは妻から結婚指輪を返された。
 今でもはっきりと覚えている。自宅のダイニング。2人で選び、2人で何度も食事したテーブルの上。半面が埋まった離婚届と、揃いの指輪の片割れ。理由を問い、挽回の機会を求めたが、遅かった。彼女は全てを決めていて、なまえは取り返しがつかないと理解せざるをえなかった。
 世界広しといえども、バレンタインデーに妻からチョコレートではなく、結婚指輪を返された男はなまえぐらいだろう。アレから、2月14日は1人になりたくない。それはもう、年単位で会っていなかった義兄すら話し相手にしたい程度に。

「理由を、聞いても……?」
「よくある性格の不一致というか、価値観の相違というか。俺が無関心過ぎたようでして」
「君は、よく周りを見ている方だと思うが」
「ありがとうございます。でも、彼女には足りなかったみたいです」

 斜め上から紺碧が降ってくる。僅かな揺らぎに誘われるように、言葉を紡いだ。

「子供が、なかなかできなくて」

 なまえ自身は、子供の不在を大して重要視していなかった。自身も彼女も仕事をしていたし、それなりに責任ある役目も任されるようになっていた。また、双方の両親も孫を急かさなかった。我が子を抱きたくないわけではなかったが、何が何でもという執着もなかった。そんな態度が、彼女には不服だったのだろう。
 子供を作るか否かは、結婚前に折り合いをつけていたつもりだった。当時の彼女は、子供の存在を必須条件としてはいなかったと思う。ひょっとして、結婚してしばらくすれば自然と得られると考えていたのか。しかし、3年を超えても妊娠の気配はなく、堪忍袋の緒が切れたのか。

『貴方は私を理解してくれないし、理解しようともしてくれなかった』

 なまえの名と印を残すのみとなった離婚届を前に、彼女が落とした言葉。怒りも悲哀もなく、ただ重苦しい疲弊を抱えた彼女の表情は、彼に面会室で会った姉を思い出させた。


**********


 ぽかりと空いた正面の空白。炎司のいなくなった空間で、なまえは深々と息を吐いた。余計な話をしてしまった。いっそ頭を抱えて、テーブルに突っ伏したい。
 事務所からの着信で、炎司が席を離れてくれてよかった。そうでなければ、さらにぐだぐだと泣き言を連ねていた自信がある。5年も経つのに、いったい自分はいつまであの日を引きずるつもりだ。
 そういえば、何故炎司はこの店にいたのだろう。テーブルに残されたカップは、シンプルなドリップコーヒー用の物だ。僅かに残った香りもコーヒーのソレ。確かにここは豆に拘った美味いコーヒーを出すが、どちらかといえば甘いフレーバーの飲み物を注文する客の方が多い。まして、休日の昼間は騒めきも多く、1人でいたくなかったなまえならともかく、炎司が好んで利用するようには思えない。
 もしや、誰かとの待ち合わせか。だから窓際に陣取っていた。否。ならば、なまえはとっくに追い払われたはずだ。仕事相手にせよ、プライベートな相手にせよ、人待ちの最中に親しくもない義弟の相手なんてしていられない。炎司は確かにヒーローだが、そんな心優しい性格ではない。
 では、何故? 冷めきったコーヒーを飲みながら、思考を探る。けれど、適当な回答は見つからない。早々に匙を投げた彼は、視線を窓の外に滑らせた。

「あれ?」

 思わず、声が零れた。窓ガラスの向こう。いくつもの灰色や緑の向こうに、なまえも時折――正確には今日も――訪れる建物が見えた。
 なまえの姉が、炎司の妻が入院する病院だ。病院が主要道路から1歩奥まった位置にある為、少々障害物は挟むが、確かに見える。それもこの席からなら、内と外からの視線を遮るよう絶妙に配置された木々の隙間が見える。
 理解すると同時に、なまえは自身の顔を覆い、今度こそテーブルに伏せた。脳裏を“ありえない可能性”が駆け巡る。マジか、義兄さん。マジでその為に窓際に陣取ってたのか。ひょっとして、俺を見た時の眉間の皺はコレを気付かせたくなかったのか?!
 無性に居た堪れない。殴った翌日、ニュース映像で傷のある顔を見た時の比ではない。

「おい」

 降ってきた声に、慌てて頭を上げる。聞こえた方向に顔を向ければ、眉間に深い深い皺を刻んだ炎司がいた。大きく分厚い手の上には、イートイン用のトレイ。電話のついでに、追加の飲み物でも購入してきたのだろうか。

「電話は大丈夫だったんですか。仕事の呼び出しとか?」
「改良を依頼していたコスチュームの事で、少しな。特に問題ない」
「そうですか」

 トレイをテーブルに置き、炎司が再び席に着く。もうしばらく、ここにいるつもりらしい。
 なまえは、先刻自身が思い当たった可能性を喉奥に押し込んだ。炎司自身が口にしない以上は、なまえの想像に過ぎない。そう、事件解決数最多のフレイムヒーローも、たまには自身の生活圏から離れたチェーン店でコーヒーを飲みたいだろう。奇妙な偶然を繋ぎ合わせて悦に入るなんて、どこのゴシップ記者だ。
 平静を装うなまえの前に、トレイが押し出される。簡素なトレイの上には、大ぶりなカップが鎮座していた。立ち上る甘い香りは、――チョコレートだ。

「限定品だそうだ」
「コレは、俺に?」
「……甘い物は嫌いでないのだろう」

 昔、冷が言っていた。予期せず現れた姉の名に、息を呑む。義兄は、妻の言葉を覚えていたのか。続いて落とされた声。


「嫌な、話をさせた」


 ぐっと寄せられた眉根。少し伏せられた紺碧が、居心地悪そうに揺らいでいた。
 もしかして、謝っているつもりなのだろうか。離婚の事をなまえに思い出させたと、申し訳なく思っていると。こちらは顔面を殴った事を、謝りもしていないのに? というより、偶然会った鬱陶しい義弟に謝るより、自身の妻と子供達に謝る方が先なのではないか??
 思考が、なまえの脳裏を駆け巡る。ついでに、20数年前、結婚した当初に姉が零した言葉が浮かび上がってきやがった。筆舌に尽くしがたい感情の渦。彼は、再度テーブルに突っ伏した。

「おい、いらんのか」
「いります。飲みます」

 不機嫌さが混じり始めた声を跳ね返す。息を、整える。

「義兄さん」
「何だ」
「姉さんと冬美から貰ったチョコ、後で1個だけ御裾分けしてあげます」

 今日を指定されて赴いた病院で、2人から受け取った紙袋。少しずつ回復してきた姉と、可愛い姪が、笑顔で渡してくれたチョコレート。大事に1人で食べるつもりだったが、……仕方ない。

『あの人、あれで結構可愛いところもあるのよ』

 5年越しの泣き言を聞き、ホットチョコレートを差し入れてくれた礼だ。断じて、断ッじて、姉の言葉に同意するわけではない。



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