部誌16 | ナノ


夢よさめないで



陽の光を受けて溶けた雪は、凍える風に冷え固まっている。淡い月光に照らされた真っ白な雪原を、真っ赤な血が汚す。
ちくしょう。
悪態をついて、動かす。ひどく重くて、鈍い感触の足が、まだら模様の新雪をクレームブリュレのカラメルのように割った。
道標のように落ちる鼻血が鬱陶しくて、止血のために手を動かす余力もなくて、喘鳴の中に唸り声を混ぜながら、這いずるように前に進む。
これが夢であれば、と、何度望んだだろうか。
なぜ、この悪夢は醒めないのか。
自分が知るものよりも幾倍も大きな月を呪いながら、ゲホゲホと咳き込んだ。
頭の中にちらついた『助けてくれ』という言葉を鼻で笑う。未だに、そんな言葉が浮かび上がる己の馬鹿さ加減に苛ついた。
深い雪。酷く明るい月明かりが恨めしい。
ヒュン、という風切り音が耳を掠めて、見慣れた矢羽が目の前に刺さった。外れたわけではない。わざと外されたのだ。
次が外されない、という保証はない。
この矢の作り方を知っている。ボンヤリするな、と叱咤しながら、狩りの仕方を教わった。この秋の出来事なのに、ずっと昔のことのように遠い。
ちくしょう。
八つ当たりのように落ちた矢を踏みしめて、先に進んだ。
なんのことはない。ただの口減らしだ。この冬を越すために、頭数を減らす必要があった。薄々感づいてはいた。この大地は、人が生きるには過酷だと、気がついてはいた。
この地で生まれ育ったのにうまく馴染めなかった。自分が知るものよりも数段貧しい人の営みに、まわりの人間と自分がどこか「違う」という違和感が、不和を産んだ。
決定的だったことは、男手ひとつで俺をここまで育て上げた父が死んだことだ。狩りが上手い父は、小さな村でそれなりに尊敬される人間だった。冬支度のために、森に分け入って、死んだ。
頭のどこかで、まだ、これがただの「夢」だと思っていた。
粗末な寝台で丸くなって目を閉じれば、別のところで目がさめる。寝起きにコーヒーを飲みながら、メッセージアプリを確認する。この間喧嘩別れした友人からのメッセージを探す。
ああ、そんな馬鹿馬鹿しい妄想を、何度繰り返しただろうか。
馬鹿げた虚構の記憶を浚う暇があれば、狩り上手の父に、もっと、
いや、今更、今更だ。後悔なんて、生きていくために必要なものではない。
今を生きるために必死で、俺は「それ」がいつ、どのようにして、そこに現れたのか、わからなかった。
「……チッ」
舌打ちで、視線を上げた。鼻血が流れ込んで、ゲホゲホ荒い咳をする。指先の感触はもうない。足なんて、足首があるのかないのかももうわからない。

己のひどい状態を忘れて、目の前の男に見惚れた。
それは美しい男だった。ひどく傷ついている。気晴らしのためにボコボコに殴られた俺が比較にならないくらい。助からないとひと目でわかるくらいの深手を負った、男が目の前に現れた。
ひどい傷を負っているというのに、男の顔に焦燥はない。色気をまとう美青年は癖のある赤毛についた雪を払う。ひどい吹雪の中から出てきたかのような雪だ。このあたりでは、ここ数日吹雪はない。空には星空が広がっていて、吹雪の気配はないというのに、彼は降ったばかりのような雪を身にまとっていた。
そして、何よりも。俺にはその男が「違う」生き物だということがわかった。
違う。ほかの人間と違う。
俺と、同じ。
「……何を見てるんですか」
その声音が、自分に友好的でないことも、自分がどうなるかも、なんとなくわかっていた。
魔法使い。そう、俺は魔法使いで、目の前のそいつも魔法使いだ。

うっすらとは知っていた。だけど、俺ははじめて、自分以外の魔法使いをこの目で見た。そして、生き物としての格の違いを肌で知った。

こんなきれいな生き物に殺されるのならば、悪くないと、俺は思った。


「フガッ」
突如降って湧いた息苦しさに覚醒する。鼻を抓まれたと、認識するまでに数秒を要した。
「起きなさい」
ダルそうな声が頭の上から落ちてくる。
「し、師匠……」
「様をつけて呼ぶんじゃなかったんですか?」
「お師匠様」
俺の呼び方に少し不満を残しているらしい美青年は、フンと鼻を鳴らしながらメモを落とす。
「なんですかこれ」
「必要なもの、だそうです」
「俺が用意するんですか」
「君以外に、居ますか? まだ頭が寝ているのでしたら、頭から燃やしてあげてもかまいませんよ」
「いえ、結構です、起きてます」
顔のつくりは大変良いのに、身体に大量のツギハギを作っている美青年は、俺の師匠だ。師匠、というのは名ばかりで、庇護者、というのが正しいかもしれない。
口減らしで生まれた村を追われ、鬱憤はらしに殺されかけていた俺を気まぐれに拾って気まぐれに庇護してくれた、魔法使い。
泣く子も黙る凶悪な魔法使いのミスラといえば、結構な有名人だ。俺は、名実ともに気まぐれで凶悪な魔法使いのもとで使いっぱしりをしているだけの魔法使い。

俺はメモを覗きながら「これは大変」と計画を練っていく。ちょっと頑張って狩りに行かないといけない。「何に使うんですか」という喉元まで出かかった言葉を飲み込みながら、ばたばたと準備をはじめた。
「これはなんですか?」
ゴソゴソと狩りの支度をする俺に、テーブルの上を指差して師匠が問う。
「パイですよ。この間、美味しそうな果物が手に入ったのでパイにしてみました。食べますか?」
「はい」
「どうぞ」
無駄になってしまうと思っていたから、彼が食べてくれるのは嬉しいかもしれない。なにしろ、匂いが強いそれは、狩りには持っていけないから。
あれ、と思いながら振り返ると、彼はパイを見下ろしたまま動いていない。
「食べないんですか」
「このまま食べろ、と?」
いつの間にそんな行儀を覚えたのか、と愕然としながら、そのままお茶を2つ出して、テーブルにつく。
急用ではないらしい、と思いながら俺は久々に、師匠と食事をするな、と思った。
温かい湯気が揺れている。魔法でパイを温めると、酸味の混じった芳香が沸き立った。
切り分けられるパイをまんざらでもなさそうに見つめる師匠に、口元が緩む。

夢ならさめよ、と思っていたのは過去のことで、今は、さめてくれるな、と俺は祈る。



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