夢よさめないで
慣れ親しんだ我が家に明かりはなく、母がぽつんと立っている。
いつもは穏やかな眼が炭治郎を睨み、憎しみの匂いを発して炭治郎を責め立てる。一番幼い六太は血まみれで、苦し気な表情で炭治郎の名を呼んだ。どうして助けてくれなかったのと、小さな口で炭治郎を責めた。竹雄も花子も六太も、次々へと現れては炭治郎を責めて消えていく。
兄ちゃん、と慕った声で、恨めしそうに。
不便なこともあるが炭焼きを生業としている炭治郎の家の周りは、毎年冬になると雪が積もる。
寒く手足が凍えそうな日は兄妹達と身を寄せ合って暖を取り、狭いと拗ねながらも満更でもない様子の竹雄と花子を禰豆子となまえが、炭治郎が茂を抱えて母の葵枝が一番幼い六太を抱く。ぎゅうぎゅうに詰め寄った布団の中で朝を迎えることが炭治郎は好きだった。
夢から覚めるといつもなまえの顔が近くにある。禰豆子と共に生まれたなまえは、炭治郎の初めての弟妹ということもあり、大層可愛がってきた。家族が増えてからは贔屓にするようなことはないものの、成長するにつれて禰豆子と同じ顔でありながら男女の差が少しずつ現れているのが面白く、こうした時間に眺めることが増えている。普段は炭焼きや弟たちの世話に忙しく、なまえの顔をこうして穏やかに盗み見るのは今くらいしかない。
「ん……」
眠っていたなまえの瞼が震え、炭治郎をその眼に映す。
母の瞳に似た色の目は、次第に意識がはっきりしたのか炭治郎が起きていることに気付くと嬉しそうに微笑んだ。
「……おはよう、兄ちゃん」
まだ眠ってる弟達を起こさないように気を遣った小さな声は、炭治郎が望んでやまない在りし日の続きそのものだ。
母がいて、なまえと禰豆子がいて、弟と妹が幸せそうに眠っている。
ぼろりと大きな粒が炭治郎の視界を遮り、溢れ出た涙は頬を伝って枕を濡らす。
驚いたように目を丸くしたなまえが起き上がると同時に、炭治郎は抱き締めていた茂を起こさないように布団の外へと飛び出した。
まだ起きるには早い時間、冬の山は空気が冷えて吐く息は白く濁って霞になる。
一面に積もった真っ白な雪道を一歩踏み出せば押しつぶされた雪が苦しそうにぎゅっと鳴く音がした。雪を踏み鳴らすたびに聞こえるその声は、まるで炭治郎の心の様で胸が酷く痛ましい。
愛しい家族が生きている。
たったそれだけのことが幸せで、けれども、一緒に居ることは二度と叶わない。
温もりが消えていく小さな身体も、手についた真っ赤な血液も、噎せ返るような鉄の臭いも、全て炭治郎は覚えている。
これは夢だ。
汽車の中で鬼と戦っていた筈だと、冷静に現実の自分を思い出しながら強く願う。
夜間着はいつしか隊服へと変わり、気付けば腰には刀が刺さっていた。
「戻らないと」
降りしきる雪を尻目に炭治郎はその場で膝をつく。戻る方法はとっくに覚えていて、そこに恐怖はあれど立ち止まっている暇など炭治郎にはなかった。
首を切る。そうすれば、目が覚める。
作業のように腰に下げた刀を首筋にあて、覚悟を決めたその時だった。
「──兄ちゃん!」
嗅ぎ慣れた優しい匂いとなまえの声に、幾度術を掛けられても戸惑うことなく自分の首を切りつけていた炭治郎の手が初めて止まる。
「来るな!」
「兄ちゃん、なんで……」
戸惑いと悲しみと涙の匂いが混ざりあう。
なまえの震える声は、炭治郎に未練を残すのには十分だった。幼い頃はよく泣いていたなまえを慰めるのは病気がちな父に代わり、いつだって炭治郎の役目だった。
泣くなよ、と頭を撫でて抱き締めると早々に泣き止んだなまえは、竹雄が生まれ、花子が生まれ、家族が一人増える度に泣かなくなっていったことを思い出す。今ではもう泣き顔でさえあまり覚えていないなまえが、炭治郎に縋り、涙を浮かべている。
泣かせたのは炭治郎だ。
だから、泣くなよ、と頭を撫でて抱き締めてあげたかった。
炭治郎は長男で、幾つになってもなまえは可愛い弟で、そのなまえが炭治郎を想って泣いている。
炭治郎を責め続ける悪夢が続いたのは、炭治郎がその場で見送った家族ばかりだった。
病気で帰らぬ人となった父。優しかった母。可愛い弟妹の竹雄と花子と茂に六太。けれど、そこに禰豆子となまえは一度だって出てこなかった。
禰豆子が出てこなかったのは、鬼として生きているからだ。
明るい青空の下で生きることが出来なくても、炭治郎と共に生きて戦っている。
けれど、なまえは──死体すら、見つかっていない。
炭治郎が埋葬した家族は誰もが血まみれで、家の中は赤く汚れていた。鬼になって倒れていた禰豆子でさえ血を流していたというのに、なまえだけが忽然と姿を消していた。家の周りを探しても見つからず、生きているのかさえわからない。誰かに行方を聞いても、誰も見たことはないという。
そんななまえが、振り返ればすぐ後ろに立っている。
手を伸ばせば届く距離で、炭治郎を縋って泣いている。
厭夢は悪夢を見せると炭治郎に言った。
「置いていかないで」と縋った六太や皆の声は、炭治郎が失ったからだと自覚していたからこそ振り払えたものだった。でも、なまえは違う。なまえの死体を見たわけでも、炭治郎が埋葬したわけでもない。
生きているのかさえわからない、生きていてほしいと願う人だ。
夢だと気付かなければ炭治郎はこの場所でずっと笑いあうことが出来たのだろう。あの日の続きを、何も知らないまま過ごすことがきっと出来た。質素ではあったけど、母と禰豆子の温かい食事を口に入れ、弟たちの成長を見守り、なまえと共に朝を迎える。
本当に幸せで、愛おしい日々が続くこの夢は、覚めてほしくない夢だった。
でも、炭治郎はこれが夢だと気付いているし、知らない振りをすることなんて出来る筈がない。
炭治郎は息を大きく吸い込んだ。
冷たい空気が肺の中に入り、ゆっくりと息を整えると刀の束を強く握りしめる。
「なまえ、──ごめんな」
「兄ちゃん!」と叫ぶなまえの声を最後に、炭治郎は振り返ることなく自分の首を掻き切った。
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