部誌16 | ナノ


荒れた唇



 皮膚というのは、精神を包んだ肉の塊を覆い、人の形として取り持つものなのかもしれない。どうしようもない生身を社会の一部として置くための外装。ごく薄くそれでいて確かな境界。
 慎導灼は、昼に食べたおにぎりを思い出していた。幼なじみであり同僚である炯が、一人暮らしで乱れた灼の生活習慣を憂いて、家から持ってきてくれたおにぎりだった。かご編みのランチケースには、ラップに包まれた拳大のおにぎりがきちんと並べられており、「こっちが鮭、こっちが昆布」という炯の説明に従い鮭の入ったおにぎりを食した。作ったのはきっと炯だろう。彼の妻であれば、もっと小さく、きっと二口か三口で食べられる俵型のものを作ってくれる。
 ランチケースに詰められたおにぎりのラップは、ヒトの表面の薄皮に似ているように思えた。
 二十三時を回ったいま、昼食のおにぎりはとうに胃の中から消え去っている。空腹かと聞かれれば肯くが、いまの灼の唇は、食事よりも大事なものに触れることに忙しかった。
 規程の業務時間が終了し、執行官たちが宿舎へ戻っていった一係の部屋は、メインの照明が落ちている。明かりらしいものは、灼たち監視官の執務デスク上の、モニターだけ。二人の監視官のモニターはそれぞれ作業画面が開かれたままだが、その前にあるべき影は片方なく、もう片方の椅子の上では不自然に大きなシルエットが微動していた。
 ワーキングチェアに腰掛けたままのイグナトフ監視官の、鍛えられた腿に乗り上げるようなかたちで、慎導監視官がのしかかっている。霜月課長に見られたら、一生口をきいてくれなさそうな光景だと、灼は他人事のような感想を抱いていた。片膝を座面に乗せた体勢だと、身長に勝る幼なじみも見下ろすことができる。モニターの光に照らされた彫りの深い端正な顔立ちは、少しだけ紅潮しているように見えた。
 灼は己のくちびるで炯のくちびるに触れて、食んで、舌で舐めたりもして、もう十分以上も熱心にそうしていた。
 二人揃って行っていた時間外勤務の手を止めて「お願い」と言えば、彼は眉も動かさずに「わかった」と答えた。親友を自認し合う二人にとって、この行為は「普通」で「当然」なのだ。メンタルトレースという技能を有する灼の、精神的な調整の一環。
 一度だけ炯から「この接触は必要なのか」と確認されたけれど、「やると安心する」と答えれば「そうか」と頷かれただけだった。
 メンタルトレースは色相悪化のリスクも伴う繊細な技術だ。実際にサイコパスが悪化したことは幸いにして無いが、リスク軽減の手段があるなら、行うのは自然な流れだということ。我が幼なじみながら、合理的だ。
 移民である炯が色相ケアに心を砕くのは当然、無二の親友である灼のケアに協力するのも当然なのだ。少なくとも、灼と炯の間では。
 触れ合った口唇の間から、どちらともつかぬ吐息が漏れる。炯は長い腕を灼の首に回して、あとはこちらのなすままだ。ぼんやりと薄く開いた長い睫毛の扉の奥、碧眼がきらりと光った。
 唇は皮膚が薄くて、触覚が鋭い。ものを触れば触るほど厚く硬くなってしまう指先よりも、からだの内側に隣接し随意に動かせる唇は、生身と外の境界が曖昧になるような気がする。曖昧な部分同士を触れ合わせるから、炯がそこにいることがちゃんと確かめられる――そう、信じたい。
 二人分の唾液が顎まで垂れて、食事の仕方も知らない赤ん坊のようにべちゃべちゃになっていた。唇がふやけて、ひりひり鈍く痛む。きっと炯の唇もずるずるになっているのだろう。その想像が、灼の内心に重い錨を打ち込む。大丈夫、慎導灼は確かにここにいる。
 思わず、ふふっと笑ってしまった。それを合図に、お互いはどちらともなく離れた。炯が眉を寄せて、「長い」と苦情を訴える。
「絶対荒れるだろこれ」
 口元に触れて、いてて、と漏らす彼が、灼には妙におかしく見えた。凄絶な痛みを知っている炯の、些細な肌荒れを不快がる仕草が、正しく平和で幸福な社会の片鱗なのだろう。



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