部誌16 | ナノ


荒れた唇



『あなたは今、とても疲れています。お休みをとって、安静にしてください。疲労は健康状態や色相に良くない影響を与えます』
「……ああ、はいはい」
体調管理をしてくれるというAIの忠言を聞き流して、ぽこん、と浮かび上がったまんまるなホロを消した。初期設定のまま、チューニングを怠ったAIは子供や老人に対して話すような、迂遠な物言いをする。“合っていない”とは感じるものの、今更設定をいじる気にもなれなかった。
昔から、自己管理というものが苦手だった。
人間はどうして、このような面倒な“つくり”になっているのだろうか。髪の毛は伸びるし、爪も伸びる。ヒゲだって毎日剃らないといけない。ホロという便利なものがあっても、においはなくなりはしないから、風呂に入らなければいけない。
体調管理を行うAIのサポートがあるから、風邪をひいてそのままこじらせることはない。文献で知ることのできる「昔」に比べれば、便利になったと、多くの人は言う。
「昔」は色相なんてものを気にしなくても良かったのだろう?
喉まで出かかった言葉を飲み込むことには、もう慣れた。
「神託」と呼ぶほどに、神がかりで理解不能なものではない。心が重いとき、たしかに色相は濁る。まるで不可解なパラメーターではない。実感を伴う“管理”すべき最重要項目の“色相”というものが、鬱陶しくてならなかった。
うとましいと感じながらも、なまえが色相をクリアに保てる理由は、なまえが、それが社会にとって必要なものであり、尊重すべき、遵守すべきものだと理解しているからだろう。なまえの色相が濁りづらいから、そう、思えているだけかもしれない。そんな仮定が無意味なほどに、この国の人はシビュラに依存して、生きている。
ニュースで知ることのできる、どこか遠くの貧しい国の様子と、自分の身の回りにありふれた管理の行き届いた生活の差が、そうさせるのかもしれない。それも、どうでもいいことだ。
なまえはこの社会にとって、善良で、有用な市民だ。
それだけでいい。

冷たい風が吹いている。ジャケットを上に一枚重ねるべきだったか、と、肌寒さに腕をこすった。夏の間は青々しかった街路樹は元気のない黄緑色をしている。
環境オブジェクトが生きた木、という贅沢な土地を歩きながら、ため息を吐いた。まだ、少しはやい時間だから肌寒いだけだろう。推奨された服を着ているのだから、昼間になればきっと「ジャケットなんて邪魔になるだけだった」と思うに違いない。寒いのは今だけだ。
疲れ気味だということは、わかっていた。
自己管理が苦手ななまえが、シビュラに推奨されない営業を行うことになったのだ。シビュラの適性がない仕事、というものがどういうものなのか、数十年生きてきてはじめて理解できたように思う。
身なりを気にしなければならない。人を相手に媚びへつらうことも、営業成績というものが他者依存であることもストレス要因だった。
ここ最近、この国の中は、揺れ動いている。大きなうねりが起こって、社会の端で歯車になっているだけのなまえにも影響が出るくらい、いろいろなことが起こっている。
ヘルメット事件が起こる前の、定常化した社会のほうが、なまえは、好みだった。何も考えずに、ただ、ただ、毎日を消化していけばよかった。明日のことを考えなければならないことも、身の振り方を考えなければならないことも、面倒でならなかった。
なまえに仕事を割り振った上司は色相の悪化で休んでいる。配置換えの嘆願書を出したのは昨日で、嘆願書が読まれたかどうかもまだ知らない。
幸い、色相には影響していない。ただ、少し疲れているだけだ。
まだ少し時間があるからと、きれいに整えられた公園のベンチに視線をやった。資料を少し、整理しておこう。いつもと違う行動をとることも、たまには必要だろう。
「逃避行動」と呼ばれる行動だということは、理解していた。しかし、それはそれで、必要なことであるように感じていた。
ぽん、とデフォルトの着信音がして、端末が光る。メッセージが届いた。
「……無駄足か」
訪問予定の取引先からのメッセージで、時間変更について書かれていた。こんな直前に、という悪感情は浮かび上がる前に心を均す。そうしなければ色相が濁る。当たり障りのない返信を行ってから、大きなため息を吐いて、ベンチに背中をあずけた。
「……って、」
ぱつん、という弾けるような痛みが唇にはしる。塩っぽい味が口の中に広がる。どうやら、唇が裂けたらしい。ガサガサの唇を舌で確かめようとしていると、とつぜん、頭の上に影が現れた。
「舐めないほうがいい」
「へ?」
真後ろに人が立っていて、その人に肩を掴まれていることが、理解できなかった。こんな治安の良い、街頭スキャナーもある公園で、身の危険を感じる必要はないけれど、見知らぬ人が真後ろにいることは、おそろしいことだった。
背の高い人だと思う。とても良い身なりをしている。着ている服はホロではなく、量産型の吊るしのスーツでもない。誂えられたスーツに、それから、なまえの肩を掴んだ腕には良い腕時計と、カフスボタン。ほんのりと高級な香水の匂いがした。
「唇が荒れているようだ。舐めると治りが悪くなる」
見知らぬ男は微笑みながら、なまえを見下ろしていた。はっはっという呼吸音に驚いて振り向けば、大型犬が彼のすぐそばにおすわりをしていた。
本物の犬だ。ただの犬ではない。おそらく血統の良い犬だろう。
只者ではない、と思いながら、大仰に止められたせいで、ただ唇を自分の舌でぺろりと舐めることができなくて、鉄臭い体液が唇に滲んでいく気配を感じていた。
「……ええっと……、どちら様でしょうか」
「法斑、法斑静火だ。君は、こういったことには無頓着なのかな。とても荒れている」
彼は微笑みながらなまえの戸惑いを気にもせずになまえの右隣に腰掛けた。無駄のない所作で、ベンチの手すりに犬のリードを引っ掛ける。
「こちらを向いて」
「法斑さん? ええっと、俺はみょうじといいます」
「みょうじ、これからの季節はもっと乾燥するだろう。もっと自分を大事にしないと」
和らげられた目元に、喉が鳴る。突然、唇どころか、喉まで乾いているような錯覚に陥った。「自分を大事に」なんて、耳にタコができるくらい、聞いてきた。何度も何度も聞いた。その言葉が、こんなに、重要な言葉だと感じたことは、一度もなかった。
法斑は、ポケットから小さな容器を出した。何かのブランドだろうか。ロゴの入ったそれを爪の先まで丁寧に整えられた指先が開けていく。視界の端に動作をおさめながら、なまえは彼の瞳から視線をはずせずにいた。
手首に、香水をつけているのだろうか。伸ばされる手から香る匂いに、鼻の穴がひくりと動いたことを見咎められたくなくて仰け反ろうとした首を大きな手に支えられた。
シビュラは、自分の運命のパートナーを選んでくれるという。だから、人間は白馬に乗った王子様や、自分だけの姫様を探しに行く必要がなくなった。街角で出会う運命よりも、シビュラの与える運命のほうが、より運命的だから。
なら、この出会いは?
小指の先につけられたレモングラスの香りのするクリームがなまえの唇に塗られていく。
「これを君に」
ぼんやりとするなまえの手に、彼はリップバームのケースを握らせた。では、とあらわれたときと同じ唐突さで去っていく背中を見ながら、なまえは、手のひらを見下ろした。
黒いケースと、一枚の名刺が、手のひらのなかに残っていた。



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