部誌16 | ナノ


炊き込みご飯



なにもわからない。わかることがない。
『今まで、なにもわからないと思うことが、なかったの。すごいね』
ふわりと柔和な口元のしわに、憐憫と嘲笑を込めて男は微笑んだ。その言葉に込められた皮肉が理解できればできるほどに、過去の自分が何を考えていたのか、理解できなくなっていった。

なにも知らない頃は、この世にはわからないことのほうが多いのだということを知らずに生きていた頃は、万能感に満ちていたような気がする。少なくとも、このような、帰る家を失ってしまったかのような、自分がどこにいるかもわからない迷子のような不安に終始悩まされることもなかっただろう。

「おれたちがやっているのは『防衛戦』だからな」
個室のある居酒屋でアルコール度数が安定しない酎ハイを飲みながらこぼせば、同じ頃に入隊した東春秋が、笑う。個室、と呼ぶには防音性の低い仕切りの向こうから威勢のいい店員の声がする。酒がはいってご機嫌に湧くどこかの部屋から漏れ出す声に負けないオーダーが厨房に通った。賑わいに紛れるような密やかな声なのに、東の声は聞き取りやすい。
「いつ攻めてくるかわからない敵に備え続けることが仕事だ。この街から市民が消えて居なくなくなる日まで、いや、人類が居なくなる日まで、終わりはない。不安であることはある意味で正常だということじゃないか」
酒を飲んでいるのはなまえだけで、東は一滴も飲んでいない。なまえに付き合って居酒屋の塩っ気の多い一品料理に箸を入れている。それが申し訳なく思いながらも、指を二本かさねたくらいになったグラスを脇に置いて、次の酒を物色する。歩けなくなるほどに酔うのは困るが、とりあえず、なにか、喉の奥に引っかかるようなもやもやした思いを飲み干してしまいたいという思いもあった。
「理解しているつもりではあるんだよ、ただ……」
言い訳のように言葉を紡ぎながら、素面で酔っ払いの戯言に付き合う、東のことを酔狂だと思った。こもったような、聞き取りにくい声は自信のなさのあらわれだろう。なまえの次の言葉を待って、東が箸をとめる。彼の目の前にあるのはサラダだ。どっさりとサラダ菜が盛ってあって、その上にトマトが乗ってあって、木製の器からこぼれんばかりに崩された豆腐がのっていて、ドレッシングと粉チーズがかけられた「豆腐シーザーサラダ」。何を思って東がそれを注文したのか、なまえにはわからない。食べている姿を見ると似合っているような気もしてくる。わかっているつもりで居た友人のこともわかりはしない。
「なにをすればいいのか、わからないんだ」
そこで言葉を区切りながら、あまりの馬鹿らしさに、グラスに残った液体をすべて煽った。
「……いや、これじゃ堂々巡りだ」
思考が中に浮いて噛み合っていかないのは、酔っているからだと、なまえは思っている。でも、そうでなかったら? 考えても、いくら思考を巡らせてもわからない問題が目の前にあることが、ただ、怖かった。
「悪いな、付き合わせて」
大きくため息をはいて、なまえは謝罪した。
思いつめているようだ、となまえを誘ったのは東だが、居酒屋を指定したのはなまえだった。シフトによっては酒が飲めないことがあることを、考える余裕がないまま、酒も入れずにこんな話を他人に打ち明ける度胸もなかった。
後遺症だ、と、医者は言った。事情を知っている精神科医は、なまえと同じような患者を山程抱えているに違いない。予約なんて滅多にとれないまま、2度目はあっても3度目はなかった医者の顔を思い出した。

仕切りの向こうから威勢のいい声がかかって、それに東が返事をする。するりと襖が開いて、注文した品が届いた。皿の上にただ盛られただけのモノではないそれに眉を寄せる。なまえが頼んだ覚えが無い、ということは東が頼んだ、ということだ。
修学旅行で行った京都の旅館の夕食でこういうものをみた覚えがある。小さなかまどのようなものの上に、鍋がのっている。
「炊き込みご飯です。火をつけるので、消えたら蓋を開けてよく混ぜてお召し上がりください」
店員はなれた仕草で腰に巻いたエプロンのポケットからライターを取り出すと、首をかしげるようにして小さなかまどの中の青いろうそくに火を灯した。
たしかに、こういう居酒屋で酒を飲まずに飯を食べる場合、こういう選択肢もあるな、と思いながら、なまえはわりと長い付き合いの友人のしらない面をまたひとつ、知ることになった。
「飲み物、注文するんだろ」
空いた皿を下げようとする店員に目配せをしながら、東はなまえを促した。そういえばそうだった、と空になったグラスを出口の方に寄せながら「ハイボールひとつ」という。焼酎のページなんかを繰り返しみたくせに、口から出てきた注文は店員の後ろにぶら下がっているポスターのそれだった。
「はい、ハイボールひとつですね」
「ふたつ、お願いします」
注文表に書き込みながら頷く店員を東が遮った。
「……はい、おふたつ。注文繰り返します。ハイボール2つ、以上でよろしいですか?」
「ああ」
なまえの戸惑いを無視したやり取りが目の前で終わって、なまえが何かを言う前に、すっと扉が閉ざされた。
「……おい、このあと、」
「替わってもらったよ。前から打診はしてあったんだ。さっき返事があった」
こっちが素面じゃ話しづらいだろう、と、もりもりと豆腐シーザーサラダを食べながら東が笑う。青いろうそくが燃えて、オレンジ色の炎が黒い鍋の底を炙っている。ろうが燃える匂いが、目の前にあるからあげの匂いと混ざった。からあげ、貰ってもいいか、と東が聞く。すっかりさめてしまった唐揚げを中央に寄せて、好きなだけ、となまえは付け足した。
どうして、そこまでしてくれるのだ、という思いが這い上がってきて、それを、飲み下している間に、さっきの店員がやってきて、ハイボールをふたつ置いていった。
ふたつのジョッキをこっちとあっちにとりわけると、東は一息に半分を飲んだ。
彼は、アルコールに強かっただろうか。
少なくとも、なまえは東春秋が酒での失態を犯している姿を見たことがない。なまえが東の前でおかした失敗はたくさん思い浮かぶというのに。なまえは、東が、自制をうしなう程に飲んでいる姿を見たことがなかった。
知らないことばかりだ。
いいや、と否定する。自分たちが合法的に酒が飲めるようになってから、さほど、時間がたっていない。知ろうとしなかったから、知らないままだったのだ、という小さくて、途方も無い問題につきあたって、なまえは途方にくれる。世の中にはしらないことばかり溢れているというのに、知ろうとしなければ、その、知らないことは増えていく一方なのだ。
知ることのできる機会すら、喪失していく。
ふつふつ、と鍋にのせられた木製の蓋が動いた。泡が溢れだして、鍋肌に筋を残す。こぼれだす液体がろうそくの火を消してしまうのではないか、と眺めながら、なまえはジョッキを口元に運んだ。
「どうして」
ぽろり、と口から滑り落ちる。やめて置こうと思ったのに。口から出た言葉は戻らない。いや、なんでも無い、と取り消そうとして、迷った。
東は、なまえの言葉を待っている。なまえは自分のことを言葉にするのが苦手だから、彼は必ず待ってくれる。
長い前髪の隙間から、少し垂れた切れ長の目のなかに赤っぽい照明の光が浮いている。少しだけ赤い、その頬に気がついた。
少し、老けたように思う。彼の顔をじっくりと正面から眺めるのは久しぶりだった。そういえば、ここに来たはじめのほうに、東は「こうやって対面で飲むのは久しぶりだな」と言った。なまえが、東とサシで飲んだことは、あっただろうか。ない、ような気がしていた。正確には思い出せない。わからない、ではなく、思い出せないだ。忘却ではない。気に留めたことがないのだ。歯痒くてならない、となまえは思う。
真っ直ぐな視線を、どう受けていいのか、わからない。
彼と、向き合うことがこんなに不安だった覚えがない。
「……どうして、そんなに優しいんだ?」
違う、と、いう理解はあった。なまえが、聞きたいことはそうではない。そんな聞き方では、本当に聞きたいことにたどり着けないことだけは、わかっていた。
東は後輩たちの面倒もよく見ている。振る舞い方を、自分がなすべきことを、よく理解している。その中に、なまえの相手をすることも含まれているのだと、わかっていた。
どうして、迷いなく、自分のなすべきことがわかるのか。
どうして、こんな、どうしようもないなまえを、その中に含めてくれるのか。
両方が混ざり合って、実質、何も聞けていないような問いに、東はわらった。表情筋を緩めて、顔を赤くして、目元に笑いじわをつくって、吹き出すようにして笑う。
そんな、笑い方をすることを、はじめて知った。
でも、笑い声は、いつも聞いたことのあるそれだった。
「下を向いてばかりだね」という誰かの指摘を思い出した。人の顔を見て話すことが不得意だったから。親しい人がこんな顔で笑うことも知らなかった。
何を知った気になっていたのだろうか。
「おれは、やさしいか」
くつくつと東の喉が音をたてる。
「……面倒見は、いいな」
「それはお前に対してだと思う? それとも、誰にでも?」
「おまえ、酒に弱かったか?」
「どうだろう。……ああ、でも、今日はよく回ってる気がするな」
カラカラ、とジョッキの中の氷を回しながら、東は言って、大きな口で、さめた唐揚げをひとつ、口の中に投げ入れた。
「で、どっちだと思う?」
口の中のものをハイボールで流し込んでしまってから、東が首をかしげた。赤い頬に長い前髪がかかった。
「……なんで、そんなに機嫌がいいんだ?」
なまえは戸惑いながら、二択の問いに答えることをさけた。それから、疲れているのではないか、と友人を気遣う言葉を出すタイミングを見計らう。最近、仕事し過ぎなんじゃないか、と、拙い記憶をたどればたどるほど、心配になってくる。
自分の足元もおぼつかない人間が、他人のことを心配するなんておこがましいにも程がある、と自分を叱る自分をなまえは無視する。
「それは、久しぶりにきみの顔が見れたから」
どん、と安普請の建物が揺れて、どっと、賑やかな人の声が身体を揺らす。
どこか、通りの悪くなったような東の声は、それでも相変わらず、よく聞こえた。
逃避するように視線をうつした先で、青いろうそくの火が消えている。燃え残りのろうそくは不気味な姿をしていた。
「……炊き込みご飯、開けてみたら?」
「ん、そうだな」
苦し紛れのなまえのすすめに、東はしたがって木の蓋をあけて脇においてあった少しこぶりなしゃもじを使って小さな鍋をかきまわす。濃い色の焦げ目ができた、美味しそうな炊き込みご飯だった。「良く出来てる」と感心するような声で東が言った。膨れ上がった匂いに、空腹を感じていなかったはずの胃のあたりがぽっかりと空いたような感触がした。
東はしゃもじとセットになっていた茶碗に炊き込みご飯をよそう。それから、焦げ目を多めにのせた茶碗をなまえの前に置いた。
「……ありがと」
「どういたしまして」
おどけたように東が言う。やはり、おかしな機嫌の良さだ、と思う。そして、焦げ目が少なめによそわれている東の方の茶碗と自分の茶碗を見比べながら、そういえば、東の前で、炊き込みご飯のおこげが好きだ、と言ったことがあることを思い出した。
「……おれは、おまえといると、おれに特別優しいんじゃないかって気がしてくるよ」
答えないまま混ぜっ返した問いに、今更になって、なまえは答えた。そんなことは無いとはわかっていながら、冗談でも言えるような、そんな気持ちになっていた。
「やっと気がついたか」
東が笑う。それに、笑い返しながら「なんの話だっけ」と、なまえは言った。



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