終電逃した午前0時
「あ」
またやらかした、という一言に東春秋は顔を上げた。視線の先には想い人がいて、時計を見上げて唸っていた。
「みょうじさん? どうかしましたか」
「どーもこーも……また終電逃した……」
頭を抱えるその人に倣い、時計を見上げればすでに日付を超えていた。いつの間に、とは思うが、徒歩圏内に住んでいる東にとっては慣れた時間だ。ただし、みょうじにとっては違う。彼は二つ離れた駅の最寄りに住んでいるのだ。
三門市は異界と繋がるというその特性ゆえか、終電が早い。ボーダー隊員が哨戒しているためだろう、夜は静かだ。繁華街もあるにはあるが、その規模はとても小さく、ホテルのようなものもなければ、ネットカフェも少ない。
「また研究室で夜を過ごすのか……家に帰るつもりだったのに……」
「そういえば、女史に臭いって言われてましたね」
「ああああああああ」
更に深く頭を抱えたみょうじに、思わず溜息が漏れた。
東の先輩であるみょうじの更に上に女性准教授がいる。女史というあだ名で親しまれている彼女は漢気に溢れ、勇ましくかっこよく物怖じせずデリカシーも割とない。今日もみょうじに対して「なかなか愉快な臭いをさせているな、みょうじ。私はギリだが、一般女子からすると割とアウトだぞ」と宣い、みょうじを撃沈させていた。
しかしそれも仕方のないことではあるのだ。みょうじはここ最近、自分の研究にかかりっきりだった。完成の目処がついた論文片手に、あーだこーだと寝る間も惜しんでトリオンをいじくり倒していたのである。夢中になりすぎた彼は、持ち前の集中力で睡眠も食事も風呂もすっ飛ばした。恐らくはこの1週間まともに家に帰っていない。それでも一般的な男性ほどには臭わないのが逆にすごい。
東は思わず頬をかいた。己には選択肢がいくつかある。例えば共にここで夜を明かすか、あるいは自宅に招くか、いっそのこと一人だけ帰るか。それらの選択肢は、東の気持ち次第であり、対応によっては二人の関係を変えてしまう可能性もあった。
東春秋は、目の前で頭を抱えるみょうじなまえに、恋をしている。
年上の同性、相手は恐らくは異性愛者。なかなかハードルが高い相手ではあるが、どうしてか惹かれてしまったのだから仕方がない。東の恋は亀のごとき進みで、進展らしい進展はない。みょうじの性格を考えれば仕方のないことだ。彼は距離を一気に詰めれば、慌てて地球の裏側まで心を飛ばしてしまうタイプだ。焦っていいことなどどこにもない。
しかし。しかし、である。
目の前で、想い人が自分の部屋で風呂に入るという、その事実に耐えきれるのか、自信がない。突然理性を飛ばして無体を働くほど落ちぶれてはいないが、しかしこう、衝動的に行動した結果びっくりさせてしまって距離を置かれてしまう可能性がないとは言い切れない。
東はそのまま寝落ちてしまいそうなみょうじをじっと見つめた。また明日女史に言われてしまう、いや始発で帰ればいけるのかと真剣に考えているみょうじの、その柔らかな髪がべたついているのは嫌だな、と思った。集中しすぎて周囲がまるで見えなくなっているみょうじの髪をこっそり撫でるのが東の最近の趣味だ。その趣味を最近堪能できていないのはつらい。
東もまた、みょうじ同様研究室に詰めていた。寝袋を持ち込んで泊まり込んでいるみょうじほどではないが、そこそこ寝ていないし、そこそこ疲れていたのである。
「ならウチに来ますか? 風呂と寝床ぐらいなら貸せますけど」
「…………」
ごちゃごちゃ考えていたってどうしようもない。目の前に困っているひとがいて、そのひとに東は好意を抱いている。彼によく思われたいので、彼の望みを出来るだけ叶えてやりたい。みょうじが望むのは風呂と、恐らくは睡眠。いけるいける。部屋は少しばかり散らかっているが、彼の机の周りの汚さに比べれば全然マシ。許容範囲だろう。ならもう連れ帰ってしまえばいい。これだけ眠ければ悪さなんてしないだろう。少しくらい自分を信用してあげたっていい。
「東、家近いのか?」
「それなりに。十分くらいは歩きますが。帰り道にコンビニあるんで、パンツと歯ブラシくらいは買えると思いますよ」
「採用」
ふらり、と立ち上がった二人は、いつものルーチンワークで適当に机を片付けると研究室に鍵をかけ、連れ立って東宅へ帰宅した。途中のコンビニで夜食とパンツと歯ブラシを買い、帰宅して速攻でみょうじを風呂場に押し込んだ。シャワーを貸している間にみょうじの脱いだものを洗濯機に放り込み、買ったばかりのパンツと己の着替えを出し、夜食を温めてすぐに食べれるようにしておく。ソファで寝る支度を整えると、風呂から上がったみょうじと交代で風呂に入った。シャワーを終えてみょうじのあとを追うようにコンビニおにぎりを口にし、そうしてみょうじにベッドをゆずって自分はソファに横になる。ベッドかソファでひと口論あったが、二人とも疲れていたので、すぐに横になった。
翌朝、ソファで寝ていたはずが自分のベッドで、みょうじを腕の中に抱き込んだ状態で目覚め、声にならない悲鳴をあげたのは、東だけの秘密である。
一体何がどうしてこうなった。
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