誰がお前のことなんか、
誰がお前のことなんか、
汚い路地裏で飢えと寒さで死にそうだったなまえを助けたのは、コルシカ・マフィアのボス、ディノ・ゴルツィネだった。
埃まみれのなまえを風呂に入れ、綺麗な服を着せて温かい食事を与えてくれた。それでも警戒心を抱くなまえに一室部屋を用意し、柔らかな寝場所と一人になる時間をくれたのも彼だった。
何週間か経ったある日、なまえがゴルツィネに心を開き始めた時に紹介されたのがアッシュ・リンクスだった。
アッシュ・リンクスは綺麗な顔をした男だった。金髪で、色白で、どこか色っぽい。
ゴルツィネの様子からも彼がゴルツィネのお気に入りだという事がすぐにわかる位、とても大事にされていた。
そんなアッシュはなまえを一瞥し、まるで可哀想なものを見るかのような目をなまえに向けた。
何故そんな目をされなければいけないのか。その時のなまえにはわからなかったがその晩の夜、答えはすぐにわかった。
ゴルツィネがなまえの身体を暴いたのは、その日が初めてだったからだ。
それから何年経っても、なまえはゴルツィネの屋敷にいた。
正確に言えば、あれから外には一度も出して貰えず、館と庭だけがなまえの世界になった。脱走しても連れ戻され、手荒く扱われた後で優しくなるゴルツィネに逆らう気力も失われ、素直に従った方が楽だと気付いたからに他ならない。
いつもは静かな邸内が騒がしい事に気付いたなまえが騒ぎの場所へと近付くと、そこには銃を持ったアッシュと黒髪の男が慌てて逃げているようだった。
「やぁ、アッシュ」
武装しているアッシュをいつものように呼び掛けると、アッシュは驚いたようになまえを見つめた。
「なまえ……」
「アッシュ、知り合い?」
ああ、と戸惑いがちに頷くアッシュになまえは小さく笑った。
「俺はなまえ。君は?」
「……奥村、英二」
「ああ、君が」
ここ幾日か何度も聞いた名だった。
アッシュのお気に入りで、弱みだと。
なまえはゴルツィネが請け負う仕事のほとんどがどんな内容なのかは知らなかったが、マフィアのボスというだけで銃やナイフが飛び交う事を知っている。その末に、人が死ぬことも。
そして、アッシュはゴルツィネから戦えるように訓練され、才能が伸び続けている事は知っていた。アッシュが才能を伸ばすたびにゴルツィネがご機嫌でアッシュの事を褒めるからだ。
敵の前では冷酷非情になるアッシュが大切にしている男。
それがなまえの目の前にいる「オクムラエイジ」だという。
なまえは英二の顔を覗き込んだ。
幼い顔をしている彼の眼はとても綺麗で、澄んでいる。
汚い裏世界を覗いているくせに曇らないその瞳に、アッシュの弱みになった理由を少しだけわかった気がした。
「英二、もういい。なまえ、先を急いでるからもう行くぞ」
エイジの手を握り、この屋敷から出て行こうとするアッシュをなまえは止めなかった。二人の背中が見えなくなるまで見届けよう思った矢先、ふとアッシュが振り返った。
「……なまえ、昔の馴染みだから言っておく。今すぐここから逃げろ。逃げるなら、今しかない」
真っ直ぐになまえを見るアッシュは、なまえを可哀想な目で見つめている。
アッシュはゴルツィネに苦しめられている。
昔も、今も。だからゴルツィネには従わないし、殺されるかもしれないのに刃向い続けている。それを間近で見てきたのは、なまえだった。アッシュと交わす言葉は多くはなかったが、似たような歳の子どもがゴルツィネの側に何年も居続ければ、何となく、お互いがどんな感情を持っているのか位わかるのだ。
けれども、なまえはアッシュのようにはなれない。それはきっと、アッシュにもわかっていた。
なまえはゆっくりと首を横に振ると、アッシュは口を固く結び、エイジの手を引いてあっという間に外へ繋がる道へと走りぬける。
彼等の背が見えなくなって、なまえは壁を背に蹲る。
「……アッシュ」
きっと彼は、もう二度とここに帰ってくることはないのだろう。なまえとは違い、外の世界で生きていけるアッシュには、なまえの知らない間にエイジという大事な人間が出来てしまった。
「羨ましくなんか、ないさ」
もともと、アッシュとなまえは違いすぎた。
ゴルツィネから同じように可愛がられていた筈なのに、なまえは戦う訓練を受けることなく、勉強を教えられることもなかった。だから、なまえは今でも自分の名を書く事は出来ないし、読む事だって曖昧だ。
そんななまえがアッシュと同じように外で生きていける訳がなく、また、逃げた所でどうしていいのかもわからない。
ゴルツィネは最初からなまえを飼い殺すつもりだったらしい。
籠の中の鳥のように、外の世界を眺めるだけしか出来ず、扉が開いた所で逃げ出す勇気もないのだから、ゴルツィネの目的は成功したと言えるだろう。
ゴルツィネにとって、本当に成功してほしかったのは、大事に育ててきたアッシュの方だったのだろうけども。
「……うっ、うう……っ」
血と硝煙の臭う館はとても怖い筈なのに、なまえはそこから一歩も動けなかった。
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