部誌14 | ナノ


誰がお前のことなんか、



『人間関係で悩んだら、猿でも分かるパートナーとの絆の深め方』
アホみたいなタイトルの本である。
もちろん、僕が買って読んでるわけじゃない。そんな手にとってるところを見られただけで恥ずかしいような名前の本を、僕が買うわけがない。
大体、猿でもわかるってなんだよ。悩んでるのは人間関係だぞ。猿がわかってどうするんだよ。いや、そういう問題ではない。猿でも分かるような方法で絆を深められたくない。
もし、自分のパートナーがそんな本を持っているところを見かけたら、何をされても疑いの眼差しを向けてしまいそうだ。
そもそも、この男(おそらく、男だ)は、自分の頭を猿並みだと自認してこの本を購入しているのか。
自分が馬鹿だと認められることも見上げたものだが、自分の頭が猿並みであることを喧伝して回るような本を、公共の場で読める根性も見上げたものだ。
どちらも真似したくはないが。
――そもそも、この男にはこんな本が必要なのか?
言ってはなんだが、この男、かなり、顔が良い。
ただ、男前な方向ではない。美少女と見紛うような顔立ちをしている。キラキラと色素の薄い銀髪に、ブルーの瞳、釣り眼がちな美少女のような顔。
爽やかに微笑みかけられると、惚れてしまいそうである。
いや、惚れてしまったのだ。惚れてしまったのでなければ、揺れるバスの車内で人混みの向こうにいる男の読んでいる本のタイトルを目を眇めて読んだりしない。
正直、読むんじゃなかった、と思った。
読まなければ、淡い恋心を抱いたまま、帰路につけたかもしれないのに。いや、いつまでも猿なみの頭の男に心を奪われていなくて良かったのか。
俺の心を弄んだ女神を恨みそうだ。
そうだ、今日は朝から何かと運が悪かった。
今日は朝から雨だった。足元はぐちゃぐちゃで、クリーニングに出したばかりのズボンの裾に泥が跳ね返って汚れてしまった。新聞にのっていた星座占いでは、最下位だった。最下位だったことにショックで、恋愛運の文章に目を通さずに新聞を捨ててしまったことが悔やまれる。あんな地方紙の占い欄なんて、締切に追われた編集者が毎日適当に書いているに決まっているのだが、溺れる猿は藁をも掴むのだ。そこは猿ではなかった気がする。僕まで馬鹿になってしまったかもしれない。
仕事でもミスをしてしまった。人間、誰しもミスはする。それはそうとして、その後が最悪だった。僕を目の敵にしている同期の男に、見つかってしまったのだ。胸糞悪かったので、以下割愛だ。
悪かったことは思い出すだけで疲れてしまう。
そんな疲れた僕は、ポケットからペンを落としてしまった。
社会人になったときに、立派になれよ、と特に親しくもない叔父さんから贈られた程々のペンである。
自分で買うには少し高いが、生涯これ一本を大事に手入れして使う、というには少し、物足りない微妙なペン。貰い物にケチをつけるのはよくないことだが、憧れの大人から贈られたステーショナリーということで、少し期待してしまっていたのだ。
確かに、これくらいが僕の身の丈にはあっているのかもしれない。何しろ、僕は僕のためにペンのインクを毎日補充して手入れをしてくれる秘書は居ないのだ。いや、こういうものの手入れは、自分でやってこそ一人前のビジネスマンなのかもしれない。
どちらにしろ、どういうつもりで叔父さんがペンをくれたのかはわからない。ペンをくれた叔父さんはアレから1年で経営していた会社が倒産して蒸発した。それを見越していたのか、その前に両親は叔父さんとの縁を切っていて、その借金がうちに回ってこなかったのは、さすがと言ったところだろうか。
うちの両親は、大成功こそおさめやしないけれど、こういったところに妙に勘が鋭くて、小回りがきく。僕にはない才能だ。
『おまえは、すこし要領がわるいから』というのが父と母に子供の頃から聞かされた言葉で、僕の心に呪いのように突き刺さる。
話がそれている。
僕が落としたペンの話だ。
失くしてしまった事に気がついたら、そんなペンでも僕はそれなりにショックを受けただろう。
明日の仕事に差し支えたかもしれない。
『あ、おい、アンタ!』
バスのタラップに足をかけたそのときに、後ろから粗暴な声がかかった。何か面倒事だろうかと、僕は相手を刺激しないようにゆっくりと振り返った。少し粗暴な青年の声は、お世辞にも育ちが良さそうではなかったのだ。
振り返った僕は、驚いた。
『これ、落としたぞ』
黒い軸のペンを手に美少女がなんの衒いもなく笑っていた。
『あ、ありがとう』
『おう、気をつけろよ』
乗車を待つ人の視線に急かされながら僕はお礼もそこそこにバスに乗り込んだ。顔は美少女だが、少女ではない。声は青年のものだ。男だろう。あの顔で、男なのだろう。いや、それはもう、どちらでもいいことだった。同じバスに青年も乗り込んだ。僕は、バスの席に座れたらいいな、と思いながら見ていたのだが、朝からの雨は夕時になっても降り続いていて、雨を避けたい気持ちは誰もが同じなのだろう、バスの中は満員だった。
一番混みそうな路線のバスは避けたというのに、車内は雨の日特有の生臭い匂いが立ち込めている。
やっとのことでつり革につかまりながら、僕はさっきの青年の眼の前の席が空いていることに気がついた。彼は善行を積んだ。彼がその席に座るのなら異論はない、と独りよがりなことを考えながら、僕は青年の横顔に見とれていた。
ところが、彼はその席に座らなかった。へらへらと軽薄そうに手を振りながらけして丁寧とは言い難い口調で老婆に席を譲った。
なんて素晴らしい若者だろうか。
僕はささくれだった心が洗われるような気分でその青年の青空のような青い瞳を見ていた。横顔だし、結構遠くにいるので青だとはっきり判別できるわけではないのだが、僕の網膜には彼の美しい瞳の色が焼き付いていた。
少しづつ車内が落ち着いてきたところで、彼は手すりにもたれかかった。体幹が強くないのだろうか。少し、フラフラしているような気がする。バスに乗り慣れていないのかもしれない。彼は新聞を広げている隣の男をしばらく見つめたあと、おもむろに懐から本を出して、読みはじめた。
読書! 彼が読む本はどんな本だろう? 純文学なんて似合いそうだ!
もし、時間を巻き戻せるのならば、胸をときめかせたあの瞬間の僕を殴りに行きたい。いや、そんなもったいないことに時間を巻き戻すような貴重な体験を使いたくない。
どこかで事故でもあったのだろうか。ラッシュの時間帯だからか、道路は混んでいてバスはジリジリとしか動かない。その御蔭で読書はとても捗りそうだ、と僕は思う。揺れる薄暗い車内の中で、僕はその本のタイトルに目を凝らした。
ストーカー行為だと行為を冷静に見つめる自分を、見えてしまっただけなのだと無理のある理論で宥めすかしながら、僕はその本のタイトルを読み取った。
『………人間関係で悩んだら、猿でも分かるパートナーとの絆の深め方……』
…………なんて?
いや、何かの間違いかもしれない。疲れているせいで僕の目がおかしいのかもしれない。なんかもっと文学的なタイトルかもしれない。
もう一度よく目を凝らす。
街灯が都合よく彼の美しい横顔と一緒に、その本のタイトルを照らした。
『人間関係で悩んだら、猿でも分かるパートナーとの絆の深め方』
僕は、空を仰いだ。
……こんな本を、真剣に読むやつがいるのか?
そもそも、どんなやつがどんな顔をして、この本を出版したんだ?
僕は悩んだ。
そのきれいな横顔と、ビビットな色の猿が踊る表紙を見比べた。
美少女顔の青年は、本のページをめくり……ニヤニヤと笑う。ニヤニヤと何かを想像して小さくガッツポーズを決めて、首をかしげて、ページを捲る。
……馬鹿だ。
僕は、確信した。
天はこの男に、二物を与えなかったのだろう。こんなにきれいな顔なのに、中身は多分、馬鹿なのだ。
考えていることがすぐに分かりそうな顔だ。
『この方法で……アイツに…こうして……ムフフ……いや、でもアイツ……次だ!』
そんなことを考えているに違いない。
俺のときめきを返してくれ。
わかっている、青年に罪はない。僕が勝手に彼の顔に見惚れてしまっただけなのだ。思えばはじめから喋り方が粗暴だった。
わずか……何分だろう。数分の恋だった。儚かった。
そんなアホ丸出しの本を読んでいる男の顔だと言うのに見とれてしまうのはなぜなのだろう。
刈り上げられた後頭部がニヤニヤと釣り上がる口角を引き立てる。
たえきれないというように、ちらりと見える歯がかわいい。しばらく妄想に浸ったあとに、しゅん、と萎れるように落ち込む姿に胸が締め付けられそうになるのは何故だろうか。
バスが動きはじめる。車内に差し込んでいた夕日はすっかり消えて読書には向かない明るさになっていく。諦めたように雨に濡れてくたくたになった新聞をたたむ男にならうように、彼も本を懐にしまった。
「あ、降ります!」
馬鹿みたいに大きな声を張り上げて、青年はバスから降りていく。慣れていないのか、あたふたとしながら僕の横をかき分けるように進む。
この周囲に住んでいるのだろうか?
ここに住んでいるというのはどういう仕事なのだろう。
それよりも、僕は、もう一度あの青い瞳で僕を見てほしくて、その悪目立ちする男に声をかけてしまった。
「……あの!」
「……お?」
停車時間はさほど長くない。なのに彼は足を止めてまっすぐに僕を見てくれた。
「さっきは、ありがとう。助かった」
叔父がくれたペンなのだ、というような恥ずかしい言葉を飲み込みながら、最低限のことを述べる。青年はからりと笑って、額に手を持ち上げて、敬礼した。
「どういたしまして」
彼の職業が、わかったような気が、少しだけした。

どこかで観た顔だ、と一面を飾る彼の顔を、過去の新聞から見つけ出すまで、あと3日。その新聞の僕の星座の運勢は一位だった。
ちょっとした運の良さに、僕は喜んだ。

厄介な病にかかったものだ、と自嘲しながら、僕はその新聞を、まだしばらく大事にとっておくことになる。

本当に、僕の恋が覚めるまで。



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