部誌13 | ナノ


蛇足



 今日もまた、誰も知らないところで日本は救われた。
 徐々に解けていく人並みの緊張感と、それを促して帰りのバスへと誘導する警官達の目を盗み、男は先ほど爆発があったあたりへ向かっていた。警視庁公安部に所属する身として人員誘導及び市民の安全確保という名目で配備されてはいたものの、この混乱の中では一人消えたところでどうということはないだろう。上司の風見には見つかれば小言を貰うかもしれないが、男が抜け出した理由を聞けば納得してくれるはず……いや、それとも忠誠心の強い彼のことだから更に叱責されるだろうか。
 どちらであっても構わない。男にとっては今、暗がりからよろめくように現れたきんいろの手負いの獣のほうが重要だった。まずは五体が満足であることを視認してほっと息をつく。
「ご無事ですか」
 声を掛けるまでもなく自分の存在には気付いていただろうが、敢えて呼びかけてから近付く。名を呼ばないのは、万が一彼の名が誰かの耳に入ることを恐れるからだ。
 街頭の、あるいはパトカーの赤色灯の光はまだ遠い。薄闇にくすむ金髪が小さくかぶりを振る。
「ああ、俺のほうは……問題ない」
「肩を負傷されているようですが」
「掠っただけだ」
 ジャケットの上から押さえつけた肩の傷がいかほどのものかは測れなかったが、問題ないというのは嘘だろうな、と思った。そのまま、嘘でしょう、と言いかねない喉を、ひと呼吸の酸素と共に飲み下す。
 上官である彼が問題ないというのであれば、それは仮に問題があったとしても、お前達は触れるなと言っているのと同義だ。彼が彼自身と自分達の間に引く線は、度々このような形で目の前に現れる。
「……申し訳ありません。この混乱で、いつもの病院に降谷さんを秘密理に運ぶのは、難しく」
「分かっている。だから言っているんだ、掠っただけだと。この程度、自分で手当できる」
 若くも長身な降谷とは、相対すると彼の方が頭半分は高い。痛みからか俯いていた顎を上げ、遠くを睨むようにされると、それだけでもう自分には彼と視線を交わらせることさえできなくなる。日本人離れした式をの薄い瞳を、常は隙なく整えられている前髪が視線を拒むようにおりている。いや、実際拒んでいるのだろう。風見を、自分を、そうした公安の者たちを部下として、手足として使うことはあっても、内面を打ち明けることは良しとしない。
 ふがいない、と歯噛みする。自分よりいくらも若い彼が、ここまで命を張っているのに、自分達に出来ることと言えば、裏で動く彼の更に裏で駆けずり回る程度のことだ。それだって十全にこなせているとは言いがたい。東都水族館の一件のみならず今回でさえ結局、肝心な最後の局面に居合わせることはおろか、男にはなにがどうなって探査機のカプセルの軌道がずれたのかさえ理解できていないのだから。
 降谷は立ち尽くし地面に目を落として拳を握る男を一瞥したが何も言わず、やや足を引きずりながらも男の横をそのまま通り過ぎようとする。男にはそれを止めることはできない。
 が、男の横を通り過ぎた次の一歩で、降谷の体が傾いだ。
「ッ降谷さん」
「構うな……っ」
 たたらを踏んだ降谷に伸ばそうとした手は、鋭い声に制されて彼の袖にすら届かなかった。宙に浮いた手が行き場を失って空虚に揺れる。
「…………余計なことをしなくていい。お前は、お前達は、自分の職務を全うしろ。俺がどうなろうとだ」
 一方的な物言いを、どこか慰めるようだとさえ感じたのはおそらく男の勝手な幻想だ。分かっている。振り向きもしないこのきんいろの毛並みの猟犬に、尽くすべきものこそあれ、頼れるものなどない。少なくとも自分が知っている限りでは。だからこそ彼は道路に垂れかねない血を残すまいと肩を握りしめて、ひとりで立とうとしているのだ。
 それが、どうしても我慢がならない。
 反射的に腕を取られて投げ技か締め技を決められることを覚悟してから、男は今度こそ、伸ばしかけていた手で降谷の怪我をしていないほうの腕を掴んだ。
「降谷さんにどうかなられては、困ります。まだこの国にはあなたが必要だ」
 俺には、という言葉は飲み込んだ。これは恋情ではない、愛情でもない。ただ、男にとって降谷零という男は、星なのだ。降谷零が絶え間なく自己を燃やし、その光が届く限り、自分は在り方を見誤ることはない。この国を、人々を守るという大義の上で、それでも時に夜闇に紛れてしかそれを成すことのできないゼロという存在に身を浸した己を、見失うことはない。
 答えがないのをいいことに降谷の腕を引っ張って肩を貸す格好になると、はあ、と呆れと疲れが入り交じった溜息がした。
「手なんか借りなくても一人で帰れる……と言っても聞かないんだろうな」
「手ではありません、足です。一人がいいなら今だけ足が四本になったと思ってください」
 ゆっくりと歩を進める降谷に歩調を合わせ、ついでに長身に見合って足長の彼の歩幅に合わせてやや大股になりながらわざと真面目腐って言えば、彼はついに諦めたようでもう一つ溜息をついた。肩を組んでいるせいで表情が窺えないのが残念だ。
「お前、余計なおせっかいで得を逃すタイプだろう。酒を飲みっぱぐれるとか」
「いいじゃないですか、楚の国の男だって酒を飲まなかったおかげで長生きしたかもしれませんよ」
「減らず口を……っつ……」
「ほら、やっぱり痛いんじゃないですか」
「痛くないとは言ってない」
 肩をつねられていたた、と声が出る。とんだ開き直りだ。それでも、例えこのひとときだとしても、物理的なものだとしても、彼の支えになれるのであれば、良しとしよう。
 蛇に足は要らない。ごもっともだ。けれど足があったら歩きやすくなることも、あるんじゃないだろうか。
 セーフハウスまで送ると言ったら断られるだろうか、少なくとも一度目は断られるだろうな、と思いつつ、男は降谷零の文字通り足の役割を粛々とこなし、エッジオブオーシャンの夜を往く。



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