部誌13 | ナノ


蛇足



「明日、水族館に行かないか」
 相手に配慮した問いかけの控えめなかたちの誘いはとても風見くんらしく、しかしあまりに唐突だった。
 珍しくまともな人間らしい時間に帰宅した彼は、夕飯を家で食べるという連絡を私が確認してから慌てて一人分を二人分に変更したあんかけ焼きそばを食しながら、明日の朝食はパンにしないかとでも言うような気軽さでその言葉を発した。しかし私のほうはといえば、休日はおろか家で顔を合わせることすら珍しい超絶多忙な同居人からのデートの誘いに、口に運ぶ途中だった焼きそばを箸から取り落とした。礼儀に厳しい彼が、薄いけど形はいい眉をひそめたのがわかる。
 だって私の彼の風見裕也は、警視庁勤めの警察官で、昼も夜も、曜日も祝日も関係なくお仕事に励む日々を過ごしているのだから。
「明日、休みなの!? 普通に、日曜日が!?」
「そうじゃなかったら誘わない。水族館、行きたいと言っていただろう」
 にわかには信じられず、ぐっと身を乗り出して確かめると、その勢いに風見くんが苦笑した。
 ほんとにほんと? 彼と休日が重なって出かけられるなんて、めちゃくちゃ久しぶりだ。付き合いはじめのころだって頻繁にデートしたわけじゃないけれど、それでも連絡を取り合うことはできたし、二週間に一度くらいは一緒に食事に出かけて、月に一度くらいは休日をともに過ごすことはできていた。しかし彼と私で結婚を前提に同棲を始めたころ、そうちょうど引っ越しの段ボール箱がようやく部屋から姿を消したころに、彼は部署内で出世したらしくて、それから顔を合わせることはおろか、メールもLINEもなかなか返ってこない状況になってしまった。
 風見くんのお仕事について私は詳しいことを教えてもらっていないけど、それは極秘事項とか守秘義務とかいろいろあるから仕方ないのだろう。
 それでも風見くんに愛想を尽かさずいられたのは、彼が私を気遣ってくれていることが、いつもいつも、細かい言動から感じ取れたからだ。私の細々とした家事について、彼は常々感謝の言葉を忘れずにいてくれて、お互いの勤めの時間がすれ違ってなかなか顔を合わせられないときも、風見くんが家に戻ってきたときは必ずテーブルの上に短い謝辞の書かれたメモ用紙が残されている。
 今日のこのお誘いだって、何ヶ月か前の夜に二人でテレビを見ていたときに紹介されていた水族館を、私が「いいなぁ」って言ったことを忘れてなかったからだ。風見くんはいつでも私を見ていてくれて、私のことを尊重してくれる。だからといって仕事をおろそかにしないけど、私はそんな彼が好き。
「どうする? 既に用事があるのなら無理にとは言わないが――」
「ううん、暇! とっても暇!」
 首を振る私の目は、輝いているに違いない。無骨で地味めな服装を好む彼のなかで目立つ、お洒落なフレームの眼鏡の奥で、武士みたいな鋭い一重が穏やかに揺れた。
 振って湧いた水族館デートの機会。もしかしたら、風見くんの上司さんがあまりに働きづめの彼を気遣って非番にしてくれたのかもしれない。そうだとしたらありがとう上司さん。有意義に使わせていただきます。



 胸を躍らせて一晩を過ごした私は、水槽を囲んですり鉢状に座席が配置されたイルカショーのステージで、中段ぐらいの遠くもなく水もかからずの順当な位置の席に、複雑な思いで腰を下ろしていた。
 隣には風見くんがいて、目の前では賢いイルカちゃんたちがトレーナーさんと息の合った演技を披露している、絵に描いたようなデートの構図。なのに、私は一晩中楽しみにしていたこのショーを、素直に楽しめずにいた。
「私、子供のころからイルカに乗って泳いでみたいと思ってるんだよね」
「それならカナヅチを直すところからだな。プールに落ちたら目も当てられない」
「カナヅチだからだよ。ほらみて、あんなにスイスイ泳いでる」
 なされる会話だけ聞けば、イルカショーを楽しむカップル。しかし――私は、ショーに夢中なふりをして、右隣の風見くんをちらりと盗み見た。
 私の話に淀みなく返事をしながらも、彼の視線はほとんどイルカに向けられていなかった。イルカを愛でる私の隣で、私の目を盗みながら観客席のあちこちに目を向けている。その視線は切っ先鋭い日本刀のようで、明らかに普通の彼じゃない――警察官として職務に就いているときの、それ。
 誰かを探しているのか、彼の目はぎろり、ぎろり、とプールの周りに巡らされた観客席の隅々を監察しているように見えた。私は、彼のジャケットの肘のところをひっぱりたい気持ちに駆られたが、右手でショルダーバッグの紐をぐっと握りしめて堪える。
 私たちは、彼の非番の日に米花水族館へデートに来た、ただのカップルなのだ。風見くんが険しい視線で何かを探していたなんて私は見ていないし、気づいていない。そう言い聞かせれば、抱いた不安は払拭され、普通の休日としてたまのお出かけを楽しめる気がした。

 水族館は、楽しかった。水槽の中のタカアシガニは手足の長さを持て余す様子がどこか風見くんに似ているように思えて、私は笑いのツボにはまってしまってしばらくどうしようもなかったし、大きな水槽の中にマグロと一緒に住まわされ、巨大な銀色のちからの渦となって泳ぐイワシの姿には二人して圧倒されていた。暗くて、少しひんやりとした室内。青く光る水槽の前に佇む私たちは、どこからどう見ても普通の、何の変哲もないデートに興じる男女。
 決して、風見くんがスマホでどこかに連絡するのが多かったり、私の知らない男の人とアイコンタクトを取っていたりだなんて、そんなことはないのだ。
 一通り展示を見終わったところで、風見くんは「カメラをどこかに忘れたようだ」と言い出した。彼は最近の人には珍しく、写真を撮るときはスマホでなくコンデジを使う。たまに昔懐かし使い捨てカメラも。「仕事柄」、スマホのカメラ機能より親しみがあるらしい。
 今日はコンデジを持ってきていて、彼はそれをこれまで見てきた展示のどこかに忘れてきてしまったという。ラッコのところで私の写真を撮ってくれたのは覚えているから、それ以降というわけだ。
 一緒に探すという申し出は断られ、風見くんは私に「そこのカフェで待っていてくれ」と言い残して、来た通路を戻ってしまった。一人残された私は哀れ、水族館内のお洒落なカフェで、魚やイルカのオブジェをぼうっと眺めている。
 私が頼んだ海色のクリームソーダは、青く冴え渡っていたはずの炭酸水にバニラアイスが溶けてしまって、水色に濁ってしまっていた。そんなぼんやりとした飲み物を、ぼんやりとした私はゆっくりストローで吸い上げていく。
 これはインスタ映えで話題のメニューで、私も友人からこれの噂を聞いたのだが、生憎私自身はツイッターもインスタグラムもやっていないので、見せびらかす相手がいないのである。風見くんと同棲を始めるときに、彼の仕事上そういったSNSの類は控えてほしいと頭を下げられ、アカウントを削除したから。
 SNSに未練はないけれど、美しく盛りつけられて出てきたクリームソーダの感動を共有する相手がいないのは、少々つまらなかった。私はため息をついて、腕時計を確認する。風見くんがカメラを探しにいって――ほんとに?――もう、40分近くが経っていた。
 もう一度、マリアナ海溝よりも深いため息をついていたら、私の名を呼ばれて振り返る。するとそこには、テーブルの間を縫ってこちらへ歩み寄る、風見くんの姿が。
 すこし息を弾ませ、彼が急いで戻ってきたことが容易に想像できる。眉毛は申し訳なさそうに下がって、折角の武士も形無しだ。しかし何より目立つのは、左腕に抱えられた、大きさ50cmはあろう、水色のイルカのぬいぐるみ。
 はあはあと乱れた息のまま、風見くんは私のそばに立ち尽くして、何も言わない。きっとこの場にふさわしい言葉を探しているのだ。
 私は、迷える風見くんに、助け舟を出す。
「カメラ、見つかった?」
「あ、ああ……」
 たぶん、彼が言うべきか迷っていたのは、こんなことではない。でも私は、今日のデートの着地点は、ここにしておきたい。
 伝われ、伝われ。笑顔の奥で、私は念じる。そのイルカのぬいぐるみは、今日のデートを記念した、あなたから私へのプレゼントでしょう? それ以外の、何ものでもないでしょう?
 風見くんはしばらく逡巡して、その薄くて形の良い眉毛をきりりとつり上げて、決心のついた面もちで口を切る。
 私が好きだと言った、イルカのぬいぐるみを差し出して。
「今日は、すまなかった。これは、お詫びだ」
 その言葉を正面から投げられたのに、私は硬直した笑顔のまま、するりと視線を横に滑らせてしまった。泣きそう。泣かない。泣いちゃだめ。
 風見くんは、ほんとにバカだ。朴念仁。道理を知らない。
 あのね、普通のデートは、楽しかった一日の最後にお詫びの品なんか贈らないのよ。喧嘩したとかならともかく、私たち、してないでしょう? 私は40分待たされたけど、付き合いの長いあなたは、私が二時間ほっとかれてもぜんぜん気にしないたちだって、知っているでしょう?
 せっかく、楽しい一日だったのに――楽しい一日にしようとしたのに――どうしてこう、風見くんは一言多いのだろう。



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