部誌13 | ナノ


すきの温度



銀色のスプーンが穏やかな室内照明をきらきらと跳ね返していた。スーパーで買い揃えた安いスプーンだ。足りなくなってからひとつ、ひとつと買い足していったから食器棚の中のカラトリーはてんでばらばらなデザインで構成されていた。たしか、冬島慎次となまえが奇妙な同居をはじめて、おそらく一ヶ月経った頃に、思いつきのように安売りの牛バラ肉が入った買い物かごに投げ入れたスプーンで、カップの中身をぐるんとかき混ぜて、陶器のふちをこつこつと軽く叩いた。
ひとつ数万円するような高級な陶器相手には絶対にしてはならない所作だが、この場合は問題はない。この無愛想なマグカップの由来も、このスプーンと大差がない。
安いカップに入っているココアも牛乳もまた、近所のスーパーで買ったものだった。
カップを買ったのはなまえで、スプーンを買ったのは慎次で、ココアを買ったのはなまえで、牛乳を簡素なメッセージに従って買い足したのは慎次だ。
ちょうど、半々だ、と人肌より少し暖かいくらいにあたためられたココアをなまえに差し出しながら慎次は思った。
「ん」
小さな会釈と音で、なまえは慎次に礼をいうとカップを受け取った。てのひらで包んで持っているというのに、なまえはカップに向かってふぅふぅと息を吹きかけてココアを冷ます。
なまえはひどい猫舌で、それを見ながら慎次は軽く笑って、自分の分のインスタントコーヒーのカップの取っ手を持った。なまえのココアのときとは違い、やけどをしないように気をつけながら。
ふう、となまえにならって息を吹きかけて、試しに唇を付けて「アチ」と声を出す。粉末に熱湯を注いだだけのインスタントコーヒーは流石に熱かった。幸いにして、上の歯茎の薄皮がべろりと剥がれるような事態にはなっていない。
なまえはそれを見て「ふふ」と赤い唇をゆがめて笑い、ココアに唇を付けて「あつ、」と顔をしかめた。今度はそれに慎次が笑った。
慎次は慎次専用のドーナッツ型のクッションを手元に引き寄せて、その上に尻を乗せる。座り仕事の多い人間には欠かせないクッションだ。念の為に、やわらかなラグの上にぺたんと座っているなまえに、使っていない方のクッションを進める。なまえはココアを手放さないままに首を左右に振った。なまえは、地べたに好んで座る。クッションの上や座布団の上をすすめても、十回のうちに一回くらいしか座らないし、しばらく経ったら「やっぱりいらない」というように横に避けてしまう。
それから、なまえに定位置というものはなくて、いつも少しづつ違う場所に座っている。猫や犬だって、クッションを置いておけばその上に座るというのに、慎次はまるで気まぐれすぎる猫を相手にしている気分になってしまう。
「もう、時差ボケはよくなった?」
なまえがレンジで50度にあたためた牛乳にインスタントのココアパウダーを混ぜたなまぬるいココアをやっとひとくち分、口にしたところで、慎次に問いかけた。
時差ボケ、という言葉に適応するのに少しだけ時間がかかった。遠征艇酔いのことを指しているのだとようやく気がついて「ああ、治ったよ」と慎次は答えた。
なまえは一応、つとめはボーダーということになっているが、遠征艇に関する機密を公開されるほど組織に深く関わっていない。
能力がないわけではない。なまえにはその能力が十分にあることを慎次は贔屓目にも知っていた。少なくとも、なまえと慎次がこの部屋で同居をはじめる前には、その一歩手前まで行っていたことを慎次はきいている。
その一歩引いたような姿勢に対して、含ませるように「時差ボケね」と言った。
なまえはいつものように「A級隊員ともなると、出張も大変だね」と微笑んだ。
「……一緒に来ても良かったのに」
「そんなに、いいところだったの?」
いいところ、と聞かれて慎次は狭い遠征艇と、ロストした場合、帰ることのできない、薄氷を踏むような旅を、風景を思い出して答えに戸惑う。
答えに詰まる慎次に向かって、呆れたようになまえは笑って、無理をするなよ、と声をかけるときと同じように横並びの肩に肩を当てた。
インスタントコーヒーがこぼれないくらいの、軽い振動に、褐色の液体が波打った。
「……きみの、正直な所、おれは結構好きだよ」
すき、という声だけを切り取って、反芻する。そこに含まれる、温度を吟味するように舌の上で転がして、慎次はもう一度熱いコーヒーにチャレンジした。

真っ暗な部屋に浮かぶ背中を、覚えている。

一度目を離したら消えてしまいそうだ、という比喩が、あれほどに似合うシチュエーションを慎次は他に知らない。
慎次は下に弟が二人いる。そして、慎次の上にもうひとり、兄が居た。居た、という過去形だ。過去の話。
あの、消えてしまいそうな背中を見る、前の話だ。
慎次と背格好がよく似ていると言われていて、頭も良くて、健康で、そのくせ慎次と違って異性によくモテた兄が居た。
その、異性によくモテる兄は、なまえの恋人だった。
違う。なまえの恋人が、慎次の兄だった。慎次にとっての認識の順番は、これが正しい。
兄弟というのはよく似るもので、ひとの好みまでよく似ていた。
兄は優等生だった。優等生の兄はなまえが恋人であることを隠して、なまえのことを友人だと周囲に語っていた。だけれども、慎次には、なまえと兄の仲が「親友」という言葉の範疇におさまらないことを、ふたりが同居をはじめる前から知っていた。
慎次が持たないものを持っていた兄は、がんを告知されてからわずか一年足らずで、闘病の甲斐なくこの世を去った。
兄が闘病を続ける間、冬島家をあくまでも「親友」という立ち位置から甲斐甲斐しくサポートし続けていたなまえの姿を、慎次は覚えている。
こっそりと「恋人だって、言えばいいのに」と言って「言わないって決めたのお前だろ」と軽口を叩きあうふたりの会話をドア越しにきいたこともあった。
ふたりの間に、慎次は踏み込まなかった。だから、慎次がはじめて、場所だけは知っていたふたりが住んでいたこの部屋に足を踏み入れたのは、あの時がはじめてのことだった。
よく晴れた日で、兄の四十九日が終わった日、なまえが忘れ物をしていった日。はじめて慎次は兄となまえの部屋に、足を踏み入れた。
二人の部屋に、両親や弟は遺品整理のためやらなにやらと何度か訪れていて、冬島家に合鍵が預けられていて、その鍵を借りて慎次は部屋に入った。
昼間だというのに酷く暗い室内に、なにか、異様なものを感じ取りながら踏み入れた慎次が見たのが、乱雑に「家具という家具を」隅に積み上げて、空いたスペースにぽつりと立って、窓の外を眺めているなまえの背中だった。
思えば、なまえは、とてもしっかりしている人で、忘れ物を、しかも、届けなければならないほどに大切なものを忘れることなどめったにない人だった。
振り返ったなまえが、慎次を見て、兄の名前を呼んだことを、慎次は覚えている。
その唇が空を切るように、愛をつぶやいたことを、覚えている。

慎次は、兄が居なくなったなまえの空白につけ込んだ。

なぜ、誰も気が付かなかったのか不自然なほどになまえは痩せていて、ひどく憔悴していた。取り繕うのがうますぎたのだ。
慎次は、ちょうど良いから、と周囲に言い訳をして、なまえと兄の部屋に転がり込んだ。

なまえと兄がしていたように、誰にもばれないように、なまえの体調のバックアップをして、なまえがぐちゃぐちゃにしてしまった部屋の中身を整えた。
大抵のものが、壊れてはおらず、そのまま使えた中で、いくらかすでにゴミに出されていて足りなかったものは買い足した。
なまえがまっさきに捨てていたのがカラトリーだった。
口にする必要がない、生きていく必要がない、という決意をあらわすかのように、食器類は破壊されていて、カラトリーはゴミに出されていた。四十九日のその日はゴミの回収がある日ではなくて、そのときのゴミ捨て場になまえが出したゴミはなかったから、かなり前に捨てられていたことになることに、慎次は目を瞑って、ただ、食べるべきものをなまえに用意して、口の中にねじ込んだ。
いらない、必要ない、と、なまえは言わずに、ただ、唯々諾々と慎次の行為を受け入れた。

なまえはもともと、健康的な精神の持ち主だった。あまりにもなまえにとって兄の存在が大きかっただけで、自死を好き好んで行うような人間ではなかった。
そういうところが、慎次が好きだったところで、兄にとってもそうだろう、と慎次は思っていた。
だから、なまえは半年ほどで生活リズムをすぐに取り戻した。

『この街を、出ようと思うんだ』
なまえが、そう言い出したのはそれからすぐのことだった。
なまえは、健康的な精神の持ち主だった。何かに依存しすぎない。彼の家族のことをあまり聞いたことはなかったが、それぞれが色んな所で自由に好きなことをしている、そういう家柄だとなまえが一度だけ言っていた。多分、なまえもその血を引いているのだろう、ということは想像に難くないことだった。
兄のかわりに成っているつもりだった慎次には、寝耳に水だった。
『え、……どういう、』
『だから、この部屋を引き払おうと思う。きみも、次にどこに住むか決めてほしい。ここで住むなら手続きをしないと。……ひとりで住むには、大きすぎるかな』
軽く笑う声が弾く「おおきすぎる」という言葉に、慎次はあの背中を思い出した。目を離せば、消えてしまいそうな背中。離さなくても、去っていきそうな人を目の前にして、慎次の瞳が揺らいだ。その揺らぎをみつけたなまえは、苦い表情を浮かべながら諭すように首を傾げた。
『慎次くんは、やさしいね。……きみのやさしさに、いままでずっとつけ込んできたことをおれは謝らないといけない』
やめてくれ、謝らないでくれ、という言葉は音にならなかった。
『多分、きみは知ってるね。おれと……きみのお兄さんが、付き合ってたこと。誰にも言わないでいてくれたことを感謝するよ。……それから、おれは、きみが……そう、おれとあの人がお互いに向けあっていたような感情を、おれに向かって向けていることを、薄々、知ってた』
なまえらしい解説の仕方で、端的に告げられた事実に、慎次の喉がひゅうと嫌な音をたてた。
『でも、おれは、きみに、その感情を返すことはできない。……きみのことは、好きだよ。家族みたいだと思ってる。……そうだね、みんな、きみが、あの人に似ているって言うけど、おれは、あまり、似ていると感じたことはない』
だから、ごめんとなまえらしい誠実さで、なまえは謝った。
『きみには、とても助けられた。次に進もうって勇気をおれは、きみにもらった。……とても感謝してるよ』
彼の笑顔は、とても健康だった。彼がぼろぼろになっていたときから、丁寧に体調管理をしていた慎次だからよくわかった。なにひとつ、問題がないということが、つけ入る場所がないということが、苦しかった。
『そうだね……、おれは、ちょっと遠いところに行こうと思うんだ。前から見てみたい光景があって、それを見てから、次の場所を決めようと思う』
実に彼らしい、と慎次は思った。思いながら、慎次は、つけ入る場所を探した。
そして、それは酷く簡単に、慎次の前に転がしだしてきた。
『きみが困ったときは、必ず力になるよ』
ひとかけらの、慎次に向けられた、温情が、慎次の前に転がった。
ひどく、汚くて、ひどく愚かしいことをしている自覚があった。
それでも、そうせずには居られなかった。
『……今、とても困っている、と言ったら?』
なまえは、困った顔をしながら、もう、自分の分の荷物は捨ててしまったことを告白した。

なまえが口にした、好きという言葉は、兄に向けられていたものとは違う。慎次への恩に報いるように、なまえは慎次と同居を続けている。いつ、この場所を捨てても良いというように、いつも居場所の整理をしながら。
コーヒーは、まだまだ熱かった。ひどく熱いコーヒーが喉を焼いて、胃に落ちる。
「……なにか、困ったことでもあった?」
たしかめるように差し出された問いの、キーワードを取り間違えるほど、慎次は愚かではない。取り間違えないことが愚かなのかもしれない、この人を自由にしないことが愚かなことなのかもしれないことは知っていた。
『ない』といえば、明日には彼が居なくなっていることを、慎次は知っていた。遠征に出ている間は良かった。彼は、慎次がどこか不安な場所にでかけている間にいなくなるような卑怯な人間ではないことを確信していたから。
あんなに熱かったコーヒーが、胃の中で冷えていく。
「……まだ、」
困っている、と小さく告げる。
「それは、仕方ないね」
なまえが柔らかな声で答えた。
冷えてしまった胃を温めるように口元に運んだコーヒーが熱くて、慎次はアツ、と声を上げた。まだ熱いの、と笑うなまえの声が、慎次は好きだった。
その好きが、未だに彼の「好き」と温度差をもっていることを知っていた。



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