部誌13 | ナノ


赤は偽らざる



 あなたに完璧は向いていない、と言うその唇の動きを、見ていた。
 きみが。おまえが、それを言うのか、と、思わなかったと言えば嘘になるし、あなたはそう言うだろう、とも思えた。
 深刻な話の流れではなかったと思う。さっきまでふつうに散歩して、ふつうに月を眺めて、そのなんでもない時間の、ほんの隙間に漏れたとでもいうような。切り捨てるような言葉に反して、静かでさりげない物言いだった。私だってそうだねと笑って返して、それで終わった話だった。
 ああでもきっと私はずっとそのことを考えていたんだろう。
「あなたを神のようだと思ったことはない、とも以前言いました」
 脳裏にちらつくグリーンバックに、代わる代わる似つかわしいような、いつか見たような景色がよぎって、そのただなかで天草四郎の琥珀の双眸が静謐を訴える。夜の公園、カルデアの白い廊下、青白いマイルームのベッドに並んで座った時、真昼の凪いだ海、どこかの星空。本当はこんな場所でした話ではなかった。けれどきっとあなたはいつもそう思っているのだろう、と私は思っているのだろう。あなた越しに見た景色すべてを背負って、天草四郎時貞の似姿が口を開く。
「あなたは完璧ではない」
 そうだね、と、また笑って言うことができただろうか。
 私は完璧ではない。
 刻まれた言葉の重みで溺れて視界が霞んでいく。暗く蒼い、意識の底へ沈んでいく。
 眠りの淵から引き上げられていくことは、海に溺れる心地に似ていた。

 瞼の向こう側から透ける光を知覚するより先に、指先にリネンとも違うさらりとした感触を覚えて、脳をどうにか動かして正体を探る。
「いたっ」
 髪だ。予想よりも寝ぼけたような不意を打たれた声と握った感触ではっとして目を開けると、琥珀色の瞳が半眼でこちらを眺めていた。
「ごめん四郎、起こした?」
 寝ぼけて髪を引っ張って起こしてしまったなら申し訳ない。項から流れる少し長い襟足を掴んでしまっていたらしい手を離して詫びの代わりに耳の後ろから指を差し込むようにして撫でると、半眼になっていた双眸がゆるく細められた。伏せた睫毛までがしろいのが、褐色の肌に際立つ。
「少し驚いただけです」
「痛かったのでは」
「いいえ」
 ほんとにい? 今度は私のほうが半眼になったが、天草のほうはもうすっかり目が冴えたのか微睡みを感じさせないいつもの顔で微笑むばかりで、諦めて髪を梳いていた指先で項の毛をわしゃわしゃとかき混ぜてから手を引き戻した。
 そのまま身を起こすでもなく、枕に頭を懐かせたままぼんやりと天草を眺める。天草の背の向こう、海に面したテラスに通じる大きな窓に掛かったカーテンから洩れる朝日が、淡く逆光となって天草の輪郭をうすいだいだいに浮かび上がらせているのが、きれいだと思う。月影にあっては銀糸にも見紛うしろい髪の端が透けて、少し眩しい。
「まだ眠いですか」
 目を細めた私をそう判断したのか、天草が親指の腹で目元をなぞる。少し硬くなっている指の腹や掌の皮の厚さは、彼が戦うものであることの証左で、その手に重ねる私のそれは触れるとやわく頼りないように思えた。
「ううん、もう起きる。……四郎、寝起きだからかいつもよりあっつくない」
 すり、とほどよく温かな掌に軽く頬を寄せてから身を起こす。両手を組んでぐっと上に伸びをするとパジャマの袖が肩まですとんと落ちてくるのにももう慣れてしまった。ホテルに備え付けのサテンのパジャマの着心地は抜群だけれどワンサイズかつ男女兼用なので私にはだいぶ大きい。
「じゃあ着替えてくるから……あまくさ?」
 朝食はブッフェでいいか確認しようとして隣を見ると、天草は自分の掌を見てぼんやりとしていたが、呼びかけに気付くと首を振って身を起こした。
「いえ。……光」
「なに」
 振り返った私を、天草はやはりじっと見て、やがて「なんでもありません」と言って着替えに行ってしまった。ええ、なに……。
 妙な態度に首を傾げつつも、私も着替えることにした。
 ルルハワのホテルは傾向としてどこも窓が広く、陽の光をたっぷり取り込む作りになっている。まあこの開放感がリゾートらしいといえばらしい。
 さんさんと差し込む陽が嫌味なく爽やかな陽気なのもよい。夜の名残でまだあたたまりきらないバスルームの大理石を模したタイルに素足を冷やされながら洗面台で顔を洗って、鏡の中の自分と向き合う。
「ひどい顔」
 鏡の中の女が苦笑する。原稿続きで肌は荒れているし、寝起きで髪はぼさぼさだし。ただの人間のようだ。いや、ようだ、ではなく、結局私は、そうあるしかないと決めてしまった。
 鏡の中の私の髪は、絹を紡いだように美しい黒髪ではなく、私の瞳は空と海を切り取って填めこんだ美しい青ではない。伸びやかでしろく美しい肢体もなく、病まず老いない器でもない。
 ありふれた茶の瞳が、鏡越しに私をじっと見る。
 私は病み、私は膿み、衰え、疲れ、餓え、妬み、怒り、恨み、老いていくだろう。もっともつよき輝きの一瞬で固定された英霊たちとは比べるべくもない、取るに足らない人間のひとりでしかない。たとえ私が、天草ともこの世界とも一線を画する『げんじつ』から足を踏み入れた外なるものであっても、私は、結局のところ私でしかない。
「……へんな顔」
 鏡を汚さぬよう、触れぬよう注意を払いながら、鏡越しに手を伸ばして目元を撫でる。天草がさっきそうしたように。天草四郎の、たゆみなき努力で出来た美しい手が触れたところ。
 じっと目を合わせる鏡越しの私の、数少ない好きなところは、ほんの少しだけ天草の色と似たこの瞳だった。今朝見た夢を、思い出す。正確には、夢の中の私が取っていただろうあの頃の姿を思い出そうとする。

 美しくありたかった。それは見目だけの話ではなく、美しいものとして心に残されるようなものでありたかった。
 優しく、正しく、清く、嫉まず、怒らず、人に与え、それを喜びとするような。
 それを体現するならば、美しい絹のようなまっすぐな髪は似つかわしいだろうと思った。
 瞳の色はそれぞれに美しさがあるけれど、黒檀のような髪にはきっと蒼穹の色が似合うと思った。

 今の私といえば、それらを取り払ったつまらないものだ。天草と『こう』なってから、大事に抱えてきた耽美な装飾の数々もなかなか出番がなく画面にも華がなくさみしいと思っている。もっと「豪奢な金の巻き毛は昼下がりの陽射しに煌めき」とか書きたい。
 それでも否応なく時は私の背を押し、手頃な服に着替えたら天草と朝食に向かわなければならない。
 どうせ朝食の後は原稿だろうと適当なワンピースを被り、先日買ったロールオンタイプの香水を首筋に馴染ませて、最後に鏡ともう一度だけ向き合う。
 繊細な美姫の顔ではないけれど、顔色は悪くないだろう。唇も今日は発色がよく紅い気がする。色付きのリップはいらないかな、と独りごちて保湿用のリップクリームだけを塗って部屋へと戻った。

 朝食のブッフェは相変わらずどれを取っても美味しかったが、特にフレンチトーストは染み具合が最高だった。昼もあれがいい。が、天草はそろそろ和食が恋しいと言っていたのでストリートのスシレストランというのも有りかもしれない。スシレストランでちゃんとしたスシが食べられるのかは知らない。
 そんなことを考えながら部屋に戻り、さて嫌だけど(本当に嫌なんだよな……自分で参加すると言っておいて……)原稿に取りかかるか、とデスクに向かおうとしたところで、天草から声が掛かった。
「光」
「なに、なになになに!?」
 はじめの一言で肩に手を掛けられ、そのまま押されるようにしてデスクではなくベッドの縁に腰を落とされて混乱がそのまま口を突いた。いやなに?
 そのまま私の隣に腰掛けた天草の、琥珀の双眸がじっと私を見下ろす。笑ってもいない真顔に、瞬時に脳内で「なんかやらかした?」「怒らせた、いやなんで?」と疑問符が駈け巡る。
 天草の左手が私の肩を押さえたまま、向かい合うようにさせられて膝が触れる。右手が伸びてきて、私の頬に触れる。天草が頬に触れるそれ自体は珍しいことではないけれど、意図が分からない。
「し、四郎」
 私なんかした? と聞きたかったけれど、真っ先に自分の失態を疑うのは自己肯定感の低さの表れだと理性でぐっと押し留めて名のみを呼ぶ。触れる掌と頬の温度は馴染んで心地よいのに、天草を包む空気は硬い。
 四郎、ともう一度呼ぶも返事はなく、頬に当てた掌がゆるゆると首筋に下りて、背がぞくりと震えた。
 『掌が首筋に下りて、背がぞくりと震えた』? ちょっとよく分からない。ちゃんと説明してほしい、今なにが起こっている?
 天草はやはり黙ったままで、琥珀色の双眸に浮かぶひかりの色は相変わらず図れない。私には珍しいことに目を合わせていられず、視線を少し落とすと褐色の肌に生成色のシャツがよく似合っていた。二つ開けたボタンの間からちらりと覗く鎖骨から、首筋と喉仏の凹凸が健康的な色気を醸し出している。かっこいいので隠してほしい。
 モノトーンのノースリーブワンピースなので肩は剥き出しで、そこに触れる天草の掌の温度と力強さをいやでも意識してしまう、いや、嫌じゃないです。嫌じゃないけど。加えて言うなら天草はハーフ丈のカーゴパンツで、私のワンピースも膝上丈なので、身じろぐと生の膝が触れ合ってしまう。嫌じゃないけど。
「あの、あまくさ……」
 これはなに、というかナニ、いや、どういう意図なのか、琥珀の瞳を見上げて三度呼び掛けると、天草の眉が僅かに寄った。怒った!!?!?!?!!??
「光」
 はい。返事は吐息で終わった。ずり、とシーツを滑って天草が身を寄せてきて、膝のみならず服越しの腿がくっつく。
「やはりそうだ。熱がある」
 声なく固まる私の額に自分のそれを合わせ、天草がそう言った。
「ねつ」
 近すぎて焦点が合わないが、近すぎて視線が絡まっているのがあからさまで恥ずかしい。
 というか、熱。
「気のせい、では」
 悪足掻きとは悟りつつ体を離そうとして、逆に肩に掛けていた手を背に回されて引き戻される。逃げ場がない。
「微熱でしょうが気のせいではないでしょう」
「あったかい朝ご飯食べてカロリー摂ったあとだから……」
「起きがけに私の手を熱くないと」
「ぐう」
 ぐうの音が出た。
 気付いていなかったと言えば、それはもちろん嘘になる。他ならない自分のことだ。体調こそ悪くはないが、先日の鼻風邪をたぶんまだ引きずっている。
 とはいえ。
「……たぶん三十六度代だから平熱の範囲だと思います!」
「平熱が三十六度になってから言うことですね」
「ぐううううう」
 その後も苦し紛れの抵抗を見せた私はかなり奮闘したと思うが、結局天草にやりこめられ、その日はベッドの住人となった。ワンピースは朝食に着たきりパジャマに逆戻りだ。
 ご丁寧に肩まで引き上げられたブランケットを口元まで引っ張って、ベッドサイドのデスクに備え付けの椅子に腰掛けて監視員の佇まいで私を見下ろす天草をねめつける。
「なんでバレたの……」
「隠すつもりだったんですか」
 心外そうに言われると心が痛い。いや、けれど、だって。もごもごとブランケットの内側で言い訳が蟠る。
「……三十六度代で体調を崩す人……ふがいないでしょ……四郎に心配させることでもないし……」
 三十六度代で体調を崩す人こと私のその言葉を聞いた天草四郎時貞は、お手本のように「やれやれ」とわざわざ口に出して肩を竦めた。小さなため息まで完璧な仕草だった。は、腹立つ……。
 ぎし、と椅子が鳴って、天草が背を屈める。ひたと頬に当てられた手はやはり、常よりは馴染んでぬるく感じられた。不甲斐ない。
 頬を滑らせた手でブランケットから口元が暴かれて、親指の腹がゆっくり唇にあてがわれる。むずかって首を左右に振ろうとしても、元々天草のいるベッドサイドを向いていたので枕に押しつけるか天草の掌に頬を寄せているような具合で余計に恥ずかしい。
「唇、いつもより赤い」
 ふっと、馬鹿にするように笑われて、本格的に恥ずかしくなって暴れた。暴れたことにしたい。
 そんな風に目を細めて、仕方のない人だとでも言うように唇をゆっくりと撫でられて、私に何が出来ただろうか、いや何も出来まい。出来まいじゃないんだよ。出来てほしい、不甲斐ない。
「不甲斐ない……」
「なくないなくない。こちらへ来てから陽気が変わったので当てられたんでしょう。ゆっくり休むことですね」
 時間はまだありますから。
 そう言って頭を撫でた天草は嘘吐きだ。

 天草四郎時貞は、人類の救済を願っている。たとえば「みんながしあわせになりますように」と幼子が七夕の短冊に書くように、まっすぐに、祈っている。
 けれどそのために彼は、ヒトの欠損を憎んだ。人が人を憎み、時に愛し、しかして個々の意志さえ問題にならぬ社会といううねりの中で数多の欲によって挽き潰されるままならぬ現実を憎んだ。憎んだのだろう。
 あまねく全てのヒトに幸福に、安寧にあってほしいと願い愛するがためにそのヒト自身が抱える欠損によって傷つけあうことを憎み、哀れみ、そして諦めたのだろう。ヒトを、人を愛することも、憎むことも。
 だから彼はもはやヒトの愚かさを前にして憎まない。
 だから彼はもはや人、その個人を愛することもない。
 そう決めたと、かつて言った。
 彼の望みは果てしなく、そして欲深い。
 肉体を捨てた先に在るだろう完璧なるヒトを、彼は目指した。
 肉体は病みに腐り、老いに朽ち、餓えに震え、欲望に歪む。その醜さを、その業を、あまねくヒトを縛る罪の鎖を断ち切る術を、第三魔法と誰かが名付けたそれを、天草四郎時貞は求めた。
 病に怯える弱さも、老いを拒む浅はかさも、餓えで奪い合う醜さも、欲望に支配される愚かさも、病を癒す献身も、老人の曲がった背に添える手の思いやりも、餓えただれかのためのスープの温かさも、誰かを守りたいと、そうかつて誰が願ったことさえ、等しく塗り替えてしまわなければならないと欲した。
 彼の描く完璧なる永遠の安寧はさぞ美しい光景なのだろう。
 地表のテクスチャは裏返り、全ての魂が星幽界へと輝きながら昇っていくとき、人がかつて憧れ語り合った英霊への憧憬もまた消え失せ、天草四郎時貞というひとさえ、安堵のうちに永遠を手にするのかもしれない。
 それまで、天草四郎時貞は止まらない。もはや止まることが出来ないのだろう、と、思っていた。
 果てのない願いは高く、きっと彼には美しく星のように輝いて、あの琥珀の双眸を射抜く。それは恋に似ている。
途方もない高みにある人類救済という宿願は、全ての生を費やしたとしても辿り着くのに足ることはないだろう。そうである以上、彼の歩みを止めるものを振り払い、独り、きっと『その日』が来ないとしても、彼は歩みを止めないのだろう。

 だから私は、あなたの手を取りたかった。
 真実など知らない、知る由もない。あなたの絶望も、憎悪も、かつて人々に抱いただろう親愛も、希望も、きっと何一つ知らない。
 ただ、あなたの願いに報いがあることを祈った。
 人を憎むことを捨てたと言うのなら、あなたはきっと、全ての人を愛すると言うべきだった。
 全てを愛すると言わず、救うべく人への愛すら捨てただ願いのためだけにひた走ると決めたのは、偽ることが出来ないからだろう。
 その弱さにも似た誠実を、愛しいと思った。
 等しく全てを救う幸福と安寧を祈る無垢さを、美しいと思った。
 その願いは間違っていない。その祈りは過ちではない。
 ただ、そのために自らの愛さえ捨て、人の喜びさえも切り落とすと決めてしまう前に。
 その永劫の歩みの前に、ただ一度でいいから、立ちたかった。

 愛さないと言うならば、それでもいい。
 憎みさえしないと言っても、いい。
 切り捨てられることさえあるかもしれない。
 それでいい。
 ただ、あなたの手を取りたかった。手に触れたかった。
 あなたの永い歩みが、孤独に苛まれないように。
 きっと美しい思い出だったと、一瞬でも振り返ればいいと、呪いを掛けたかった。

 そうして装った美しさを失って尚、浅ましい私はここにいる。
 どうしてもっとうまく偽れないのだろう。
 一度は偽ると決めたのに。どうして綻んでしまうのだろう。
『あなたは完璧ではない』
 今朝の夢に見た、かつて天草に言われた言葉が耳の奥で反響する。
 私は完璧ではない。
 唇を噛みしめる。ああまた、赤くなってしまうだろうか。
「……どうしました。体調が優れませんか」
「ううん……」
 私が寝込む合間にと資料の整理をしてくれていた天草が、私が寝返りを打った衣擦れで振り向いた気配を感じて、背を向けたままゆるく首を振る。
 時間ならあるなんて、思っているはずがないのに。
 組み上げられたモラトリアムの籠の中でこうして燻っていることが、不本意でないはずがないのに。
 不意に、デスクとは反対のベッドサイドのコート掛けに掛けられたままの、天草のストラが目に入った。
 愛と殉教を示す、真紅のストラを備えたローブにもマントにも似たそれを、天草は祈るように身につけることを知っている。
 完璧なほうがいいに決まっているし、完璧を愛しているはずなのに。
 ありのままの人間は不合理だ。
 それでもひとまず熱を下げるほかはなく、ベッドから出してもらえる気もしないので、私はそれきり黙って目を閉じた。




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