部誌13 | ナノ


真夏の酷寒



 ピンポンと、1Kの部屋に来客を告げるチャイムが響く。
 ベッドに横になりながらスマートフォンをいじっていたなまえは、怪訝な顔でゆっくりと身を起こした。部屋の時計を確認すれば、時刻は21時。昼間の茹だるような暑さも多少落ち着き、網戸にした窓から入る夜風を心地良く思っていたところだが、客人が訪れてくるには少々遅い時間だ。
「はーい」
 ひとまず返事をして、立ち上がる。通販を使った心当たりもないし、誰かが訪ねてくる約束もない。首を傾げながらも、玄関まで歩いて行く。
「どちらさまですか?」
 ドア越しに声をかけるが、返事はない。そこで初めて、薄気味悪さを覚えた。
 なまえは眉を寄せながら、玄関のサンダルをつっかける。そのとき、再度チャイムが鳴った。まるで家主を急かすように。
「どちらさまですか?」
 もう一度尋ねるが、やはり返事はない。どきどきと、鼓動が早くなっていくのを自覚する。不審者――その言葉が、頭をよぎった。
 このまま応対せずに、無視してしまおうか。そんな考えも浮かぶが、この不審な来客の正体がわからず悶々とするのは嫌だった。ごくり、つばを飲み込み、ドアのU字ロックをかける。そのままゆっくりと、鍵のつまみを回した。
 開けた先に、包丁を持った女が待ち構えていたら、どうしよう。そんな想像が浮かぶものの、すぐに自分の冷静な部分が「考えすぎだ」と否定した。とにかく、開けてみなくては。開けて、確かめなくちゃいけない。
 呼吸を一つ。それからゆっくりとドアを開けていく。
 U字ロックの制限いっぱいまで開けるが、ドアの隙間から見えるのは、普段と何も変わらない、アパートの通路だった。不審なものは何もなく、ただ蒸し暑い夜があるだけだ。
 不審者は死角に隠れているのかもしれない。とにかく今は外に出ず、明日の朝にでも確認すればよいだろう。なまえは不安にざわつく胸を務めて無視して、ドアを閉めた。
 そのときだった。また、チャイムが一度押された。
 ドアを開ければ、こんな悪戯――悪戯であってほしい――をする輩がいるに違いない。けれど直接対面する度胸などなく、しかし正体がわからないのも落ち着かない。なまえは物音を立てないように注意して、覗き穴に目をつけた。
 そこには――誰の姿もなく、ただアパートの明かりに吸い寄せられた虫が飛び回る通路だけがあった。



「――ってことがありまして、昨夜はもう、休むどころじゃありませんでした」
 ポアロのカウンター席でぐったりと項垂れるなまえは、昨夜の怪奇現象について安室と梓に語って聞かせていた。結局チャイムは一晩のうちに何度も鳴らされ、まともに眠ることもできなかった。
 陽が昇るまで耐え、ポアロのモーニングタイムに合わせて店へと逃げ込んだ次第である。
 なまえの話を聞いた梓は両腕を擦って「やだ……」と漏らした。
「それ、幽霊とかじゃない? 昔その部屋で何かあったとか……」
「不動産屋からは聞いていないですけれど」
「君に捨てられた女性の生き霊かもしれませんよ」
「……否定、できませんね」
「……とりあえず、塩まいとく?」
 調理用の塩を示した梓を丁重に断り、なまえは思案顔の安室に水を向ける。
「安室さんはどう思います?」
 振られた安室は、「そうですねぇ」と顎に指を添えて思案する。
「普通に考えればストーカーあたりですが、なまえ君の見る限り、不審者は見かけていないんですよね?」
「そうなんです。人間だったらそれはそれで怖いですけれど、その場合警察を呼べばどうにかなるでしょ? 姿が見えないからこそ、得体が知れなくて怖いです」
 なまえは目元を手のひらで覆い、深く息をつく。うとうとするたびにチャイムに起こされ、ほとんど眠れなかったのだ。寝不足の頭は不安感を増幅させる。
 疲れ切った様子に、見かねた梓が「ここで少し寝てもいいよ」と優しく声をかけた。休日の早朝、開店したばかりのポアロに客はなまえしかいないが、なまえは首を振って厚意を辞退する。やはり飲食店で居眠りをするのは気が引けた。
 精気のないなまえを眺める安室が、フムと一つの意見を静かに挙げる。
「インターホンの故障……ということは考えられませんか?」
「えっ、鳴らない故障ならわかりますけど、鳴る故障ってあるんです?」
 意外そうに目を丸くする梓に、聞いていたなまえも力なく頷いた。
「ええ、ぼくもその可能性を考えました。今朝、アパートの管理会社にも電話して。業者に来てもらうことになってます」
「そうなんですか? じゃあ、故障にしろストーカーにしろ幽霊にしろ生き霊にしろ、ひとまずは業者待ちってことになりますね」
「でも、休日の関係で、業者は明日の午前中にしか来れないんですって……」
 げっそりと、一晩で憔悴した顔で、なまえは力なく笑う。水道トラブルや警備会社関係ならともかく、インターホンとなると年中無休というわけにはいかないようだ。
 仕方ないと納得はできるが、では不意に鳴り響くチャイムに怯えてあと一晩を耐えなければいけないのかと思うと気が滅入った。
「とりあえず今夜は、誰かにウチに泊まってもらおうと思うんです。まだ、ぼくの幻覚幻聴の線がありますから」
「泊まってくれる人のアテはあるの?」
「もし実在の人間だった場合、腕っ節が強い人がいてくれると頼もしいので、知人の刑事さんにお願いしてみようかなって」
 脳内に佐藤美和子の顔を描く。彼女なら人間相手だろうが幽霊相手だろうが一発で仕留めてくれそうな安心感がある。
 佐藤が女性で、なまえが男だという問題はあれど、お互いに姉と弟程度にしか思っていない関係に、男女の仲もクソもないと断言できた。あとは、彼女が今夜は休みであってくれればよいが。
 たった一晩で心身ともに疲れてしまったなまえが、大きくため息をつく。そんななまえを心配げに見守っていた梓が、唐突に手を叩いた。
「そだ! 今夜は安室さんに泊まってもらうのはどう?」
「はあ?」
 二人の声はぴったり重なって、梓に視線が集まる。突拍子もない提案をしてきた梓に、二人とも苦笑が隠せない。
「そりゃ、安室さんが来てくれたら頼もしいですけれど、でも……」
 ちらり、安室の様子をうかがう。現在なまえは安室透へ自分の想いを打ち明けたところであり、絶賛片想い中である。気まずいということはないが、安室はきっと迷惑に思うだろう。
 いつものようにきっぱりと断られるだろうと思いつつ、一応、僅かばかりの期待を抱いて「どうですか」とお願いしてみる。
 怖々尋ねたなまえを一瞥、安室は天井のほうに目を向けて、わざとらしく「そうですねえ……」と考えるポーズを取った。きっと、何か理由をつけて断られる。
「一晩ですよね? 構いませんよ」
「きゃー!? やったねなまえくん!!」
 当事者よりも先に、何故か梓が黄色い悲鳴を上げて喜んだ。なまえのほうはぽかんとして、現実を受け入れるのにいくらかの時間を要していた。



 まさか彼を家に招くなんて、思ってもいなかった。
 昼間の時間を図書館で潰したなまえは、閉店時間に合わせてポアロに顔を出し、安室と合流した。なまえのアパートはポアロから歩いて十分ほど。そのため、安室の愛車は駐車場に停めたままにしてもらった。
「窓はちゃんと施錠していますか?」
 流石探偵といったところか、安室は部屋に入るなりベランダの様子を確認する。二階であるこの部屋は、その気になれば、いくらでもベランダから侵入できる。
「ピンポン騒ぎが起こる前は開けて涼んでいましたけれど、一回鳴ったあとは、気味が悪くてずっと閉めてます。鍵も、ちゃんと」
 一日の不在で、部屋には熱気が籠もっていた。普段はあまり使わないエアコンのスイッチを入れ、設定温度を少々低めにする。
 ベランダから外を覗き、鍵を確認した安室は、まもなく室内へと戻ってきた。
「異常はありません。今のところ、この部屋で過ごして問題はなさそうです」
「……ありがとうございます」
「いえいえ、探偵業のほうへの依頼ということにしておきますから」
 安室はにこやかに、普段ポアロで眺める姿と特に変わりはない。だからこそ、その彼が自分の部屋で座椅子に座っているという状況が、なまえには非常にちぐはぐに思えた。
 とりあえず、またチャイムが鳴るまでは、なまえたちにできることはない。お互い夕食は済ませているので、あとはシャワーを浴びて寝るだけだ。
「ぼくのTシャツとハーフパンツでいいですか?」
「ああ、いや、僕はこのままで結構です。朝までは君のボディーガードですから。明朝、自宅に戻ってからシャワーを浴びます」
「いや、そこまでしていただかなくても……きっとただの故障ですよ」
「でも、なまえ君は怖いのでしょう」
 まっすぐに指摘され、言葉に詰まった。曖昧に笑いながら、視線を彷徨わせ、どう答えるべきか思案する。
 確かに、なまえは何度も何度も呼び立ててくるチャイムに、腹の底から冷えるような恐れを抱いてた。それは不審者が気持ち悪いとか、霊が怖いとか、そういう漠然としたものではなく――きっと、もっと明確に認識する、恐怖。
「あの、」
 言いかけたなまえを遮って、室内に軽快な電子音が響く。ピンポンと、日常聞き慣れた音は、今は恐れの対象。
 安室は口元に人差し指をあて、「喋るな」とジェスチャーをした。そして足音を立てないように、しかし素早く玄関まで歩み寄ると、ためらい一つなく覗き穴へ目をあてた。
 なまえは覗き穴を見るのが苦手だ。自分が覗いたとき、もし向こうから誰かに覗き返されたらと想像すると、躊躇してしまうのだ。故に安室の思いきりのよさに、少々驚いてしまう。
 そんななまえをよそに、安室は覗き穴から顔を離し、こちらに向けて首を横に振った。「誰も見えない」という意味だろう。そのまま彼の手はドアの取っ手を握り、もう一度なまえへアイコンタクトを取った。きっと「開けるぞ」というそれに、家主は頷いて許可を出す。
 ガチャ、と大きく音を立てて、安室は勢いをつけてドアを開いた。なまえの位置から見える範囲では、誰かがいる様子はない。安室は油断せずにドアの周囲の様子を探り、通路へと出て行く。
 一瞬彼の姿が見えなくなり、三十秒ほどで戻ってきた。ドアを閉め、入念に施錠した安室は、見つめるなまえに首を振る。
「……故障か、霊ですね」
 暗に、人の居た形跡はなかったと告げられ、なまえはいっそう、足下から冷えが襲ってくるような感覚に苛まれた。
 その場に思わずしゃがみこむと、気分が悪くなったと思ったか、安室が寄ってきた。
「……呪い殺されたらどうしよう」
「呪われる心当たりがあるんですか」
「ある。ぼくはずっと傲慢に生きて、人を傷つけてきたから」
 ほんの少し前まで、なまえと女性との交際状況はひどいものだった。気まぐれに付き合って、また気まぐれに別れ、ただ単に自分の虚無感を埋める存在としてしか彼女らを扱っていなかった。
 だから、もし恨まれ呪われていたとしても、自業自得。それは納得しているものの、安室透への恋心を自覚してしまったなまえにとっては、死はとてつもない恐怖であった。
「ぼくは、安室さんにたくさんたくさん好きって伝えるまで、死にたくない」
「……安心してください。呪いで人は死にません。真に恐ろしいのは、生身の人間です」
 よしよしと、子供をあやすように、安室は震えるなまえの肩を叩く。そんな二人が身を寄せた部屋にまたしても無遠慮なチャイムが鳴り響くが、はっと顔を上げたなまえの耳を、安室が塞いだのだった。



 翌朝一番に来てくれた業者は、ほんの五分ほど点検して「故障ですね!」と明るく言い放った。二晩恐れた自分が馬鹿馬鹿しく思えるほどの単純さに、なまえは恥ずかしいやら申し訳ないやら、その後数日、ポアロに寄りつけなかった。



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