部誌13 | ナノ


真夏の酷寒



みょうじなまえは寒がりだ。
しかしながら、彼は夏よりも冬のほうが好きだった。
なにしろ、夏はいろんなものが醗酵したり蒸発したりして臭気を放つ。常人離れしたサイドエフェクトの嗅覚を持っているみょうじなまえにとって、大変過ごし辛い季節になる。
その点で、妙な匂いが凍てついて、ついでに鼻先まで凍りそうなほどの冬はとてもいい季節だ。
付け加えると、みょうじなまえは寒がりである上に暑いのが苦手で、最新型のエアコンを駆使し、室内を適温に保つことは彼の夏の過ごし方には欠かせない。
近頃のエアコンは良い。勝手に室内の温度を察知して、直風があたらないように冷気を送り出してくれるハイテクな機能がついている。これのおかげでここ数年のみょうじなまえの夏風邪はぐんっと減って、最近では「夏場はクーラーで冷えて風邪を引くもの」という恒例行事をすっかり忘れていた。
「――っくし、」
「……おお……鼻水出てる」
指摘されなくとも、わかっている。鼻の下が濡れる感触に、みょうじなまえは顔をしかめる。ずるずると一旦外に出たものを吸い上げることは屈辱的だ。
黙ってなまえが手を差し出すと、目の前に正座した青年が、コテン、と首を傾げてお手をしてみせた。犬にやらせるアレだ。
髭の生えた高身長の男がそんな仕草をしても可愛げの欠片もない、と言いたいところだが、なまえは彼が小さくてかわいらしい(言動はひとかけらもかわいらしくなかったが)少年だった頃を知っているため、どことなく憎めない。
いや、それでもこのケースでは彼のかわいらしい行動は憎たらしいばかりである。
口を開くためにやむなくずるずる、と液体をすすり上げると、嗅ぎなれた自室の匂いの中に
微かに青年の生きた匂いが混じっていることがわかる。かすかに、汗の乾いた匂いがしていて、彼がひどく暑い中を歩いてきたのだという証のようだった。
かすかに、しか、わからない。
何しろ鼻が詰まっていては、人並み優れた嗅覚も常人以下に落ちる。
「……ティッシュ」
暑い中を賢明に歩いてやってきた一応のところ客人に向かって、みょうじなまえは要件を述べた。それで合点がいったらしい成人済みである太刀川慶は「ああ、」と頷いてから少し離れたところにあるティッシュケースを持って、なまえのところまで持ってきた。
それを無言で受け取ると、みょうじなまえは非常に不愉快な鼻水を薄い紙に吸わせた。
「先生、風邪?」
「……誰のせいだと思っている」
なまえの怒気を感じ取ってか、慶はビシリと背筋を伸ばすとキョロキョロと視線を動かして部屋の隅にあった空っぽのゴミ箱を持ってきてなまえの目の前においた。BORDERの施設の一部である宿舎の一室は、なまえが入居したときになまえの好みに合わせて完全にリフォームした。匂いに問題がある、というよりもなまえの趣味の問題だ。なまえの趣味は模型だ。ただし、なまえは手先が器用ではないのでコレクションの数がそう多くがないことは、引っ越しという事業にとっては良いことだった。家具もすべて、模型を中心に選ばれている。そのインテリアの一部であるゴミ箱はなまえ好みの色形をしていた。
なまえはそのゴミ箱に黙ってちり紙を捨て、新しいティッシュを鼻の下に押し当てた。
こういうときに普通のティッシュで鼻の下をゴシゴシやると皮膚があまり丈夫ではないなまえの鼻の下はすぐに真っ赤になる。講義の予定だって入っているのに、あまりにも格好がつかないうえに壇上でまで鼻を噛むところを想像するとうんざりする。
こういうときのために柔らかいティッシュというものがあるのだが、あいにくと、ここのところずっと鼻風邪など引いていなかったから在庫がない。
なまえにとって夏風邪というものは鼻からくるものだった。
鼻から来て、そのあと熱が出る。ああ、熱が出るのでは講義には出られない。休講にしてろくでもない学生に単位をやるのは業腹だ。熱が出ると、頭痛がする。酷く怠くなるのだと、その兆候のように冷える背筋になまえは顔をしかめた。
なんだか、一時期はこんな風邪ばかり引いていたような気がする、と記憶をたどる。
「なまえセンセ、風邪ばっかり引くな〜」
ケタケタと笑う慶に、記憶が喚起される。なまえはカチン、と今まで以上にキレた。
なまえの本気の怒りに、慶が笑いをスッと引っ込めると顔を青くしながら目を泳がせた。
何かを言ってやるべきか、それともこの部屋から叩き出すべきか熟考するなまえに対して、オロオロと慶は言い訳を考えている。
平常時(鼻が詰まっていないとき)のなまえは、匂いでひとの感情がわかる。相手がどれくらい起こっているのかも、寛容であるのかも匂いが教えてくれる。
慶にはその能力は無いはずだったが、彼はなまえの怒りを正しく認識することが得意だった。どれくらいまでなら許してくれるとわかっていてやっていることがこの上なく腹立たしいのだが、最近はそれを許してしまう自分にも問題があることも、徐々にわかってきた。
太刀川慶がなまえに対してやらかすことは、大抵は、害がないことなのだ。
プライバシーの侵害やセクシャルハラスメントという点では問題があるのかもしれないが、なまえがそれを「害がない」と判断しているのだから、害がない。
しかし、今回はそれとは違う。
太刀川慶が、やらかしたことの概要はこうだ。
まず、みょうじなまえにとって、今日は休養日で、午後は自室で昼寝をすべく、ソファーに横になった。この部屋のエアコンは非常に優秀で掛布は必要ない。
日頃の睡眠不足を癒やすべくして寝ていたなまえの部屋に侵入者が現れたのが、被疑者の供述によればなまえの睡眠の約1時間後だろう。
真夏のまだまだギラギラと太陽が照りつける中を歩いてやってきた太刀川慶は、彼が勝手に作ったみょうじなまえの部屋の合鍵で、なまえの部屋に侵入し、勝手知ったる部屋でなまえが熟睡していることを知るとこれ幸いとエアコンの設定温度を5度下げた。
そして、真夏の午後に、みょうじなまえの部屋は冷蔵室のごとく冷やされた。
一度寝ると天変地異が起こっても起きないと折り紙つきのなまえは極寒の部屋で寝つづけ、エアコンの設定温度を下げた張本人はフローリングの上に横になって入眠し、夕方、なまえは決まった時間に異様なほどの体の不調に魘されながら起きて、床の上に転がっていた犯人を見つけ大体の事情を察し、今に至る。
一度眠ると起きないなまえだが、決まった時間にきちんと起きることは得意だった。
そして、なまえが異様な程夏風邪を引いた夏は、太刀川慶の家庭教師をしていた夏だった。あのときの風邪の原因も、今とほぼ同じで、そのときも下手人であり、同じ部屋で寝ていたはずの慶はケロリとしており、頭痛を堪えながらそれを恨めしく思ったことまで思い出した。
たしか、あのときの慶の見舞い品は蝉だった。虫かごではなくポケットに入れられていた蝉が、頭の上に氷嚢をのせて唸るなまえの部屋に放たれて、バシバシと蛍光灯や窓ガラスにあたった挙げ句、カーテンにつかまって大音声で鳴き喚き、頭が割れるかと思った。
ろくでもない記憶のフラッシュバックとともに、どんどん具合が悪くなる。手足が冷えて酷く寒い。それなのに、冷や汗が湧き出してくる。
風邪薬はあっただろうか。それと、飲み物と、食べ物と。
一人暮らしの風邪は厄介だ。
この男に説教をする前に、まず、寝込む準備を整えなければ、となまえは思う。
「……センセ、なにか買ってくるものある? ポカリとか? ひえぴたは?」
慶が、なまえの顔を覗き込みながら訊いた。
記憶にない表情をしている、となまえは思った。
みょうじなまえが知っている太刀川慶は、まだ子供だった太刀川慶だった。太刀川慶が髭を生やしたおとなになってから再会したあとでも、なまえにみせる慶の表情は、当時と変わらない子供っぽくて、なまえを好き勝手に振り回す表情ばかりだった。
優しげな瞳は、まるで、おとなのようだった。図体だけではなくて、中身まで、かれは大人になったことを、なまえは知った。
「先生、」
ぽかん、と穴が空くほどに見つめるなまえに向かって、慶が戸惑うように首を傾げた。
「……ごめんなさい」
いつもと、オチは同じだ。
いつもこうやってこの顔で謝られるとゆるしてしまう。この謝罪と一緒に室内に蝉が放たれようとも、なまえはゆるしてしまう。
でも、何かがいつもと違う気がした。
何かの引っかかりを覚えながら、なまえは頭が痛い、と俯いて、慌てた慶が「忍田さんに相談する」とスマホを取り出した。
大事な仕事に忙殺されているだろう旧友に、少しだけ悪いと思いながら、なまえはそれらをすべて、彼に任せることにした。
みょうじなまえは、風邪ではない動悸について考察することに、忙しかった。




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