部誌13 | ナノ


世界が三度回ったら



 世辞にもわたしはまったくあまり勤勉などではないし、まじめでなければ誠実でもない。明け方まで起きていては夕方まで眠っているし。食事は九割コンビニだ。ここいくつかの季節の中では触れた覚えのないシンクに積まれた食器たちは色とりどりのカビでひどい有り様であるし、二年住んだアパートではついぞ一度として掃除機をかけることもなかった。長く続いたことなどそうそうなければ成し遂げたこともあまりない。小説の連載はいつでも三話程度で立ち消える。さして長い物語を書き上げたこともない。漫画なんて一枚も描けばたいしたものだ。イベント前の原稿はいつでも修羅場となって、ならば極限状態からの達成感が麻薬であるのかと言えばそうでもない。達成感と言うものをさして感じないのだから。おおよそなにをしたとして、成し遂げる喜びなどなく、そのくせ失敗することばかりいやで仕方がない。つらいことも一際いやだ。頑張ることや焦ることも。走ることも。必死にだってなりたくない。そもそも必死になれることが存在しない。そうしたものがある人は、うらやましい。うらやましいけれど、必死になりたくないのだからこれでいい。結局のところ、なにもしなければいいのだし、なにも望まなければいい。望んだところで得られない。努力したって、得られないものは得られない。二十年近くも生きればどの程度の望みが自分には相応で、たいして頑張らずとも得られるのかくらいはわかる。なにも得られない、などとは言うまい。ぼちぼちのそこそこには得られる。それでいいじゃないか。それでいいのだ。仮にほんとうに欲しいものができたとして、得られなければ苦しいだけだ。どんなものがほしくなっても、諦めることができる。諦めることができた。そうして諦めてきたものを、覚えていたり、忘れていたりするけれど、どうせわたしには得られないと手を伸ばすことすらしなかったとして、望んだことは確かであって、わたし自身はそれを知っているのだから十分だ。望んだことはわたしにとって確かなことで、同時に手を伸ばしすらしなかったのだから、得られないことも当然だ。結末はわかりきっていて、その確からしさがいい。諦念は甘く、怠惰は泥濘むまどろみにふさわしい。四畳半の部屋で、脛を齧った金で、足の踏み場のない部屋の布団で、昼を眠るのだ。世界を呪いながら。

 きらめく塵のような明かりが、ちらちらと瞬きぼんやりとあたりを照らしている。ただでさえ満天の星々の下で、空は幻想的に、青く、碧く、揺らめいている。もはや人の世は終わり、この地表を人のために覆っていたヴェールは綻んでいく。テクスチャは塗り替えられて、人の魂は新たに星幽界に生きるのだ。魂だけのいきものとなって。それこそが彼の理想、天草四郎の夢だった。
「ありがとう、貴女がいたから、私は」
 大聖杯の内部から漏れ出るあたたかな光に照らされて、彼が笑む。手を伸ばしても届かない、二メートルほどの距離。近いようで遠い、わたしたちの距離だ。
 長く遠い道のりを、それこそ世界を超えて会いに来た。それなのに、わたしにはこの最後の一歩が踏み出せない。踏み出せたところで、手は伸ばせないだろう。
 彼の微笑を、偽りであるとは思わないが、やはり彼の声色は優しげなのに温度がなく、わたしの胸を凍えさせる。けして誰にも触れさせない、触れられないという拒絶の音だ。きっとその肌もそう、触れれば指先が裂けるだろう。わたしはわざわざこの人に、世界を超えて会いにまで来て、情けなくも怖気づいてしまったのだ。
「いいや、わたしがいなくとも、きみは聖杯を手に入れていただろう」
 わたしの声は震えない。この人の前で、わたしは悲しまなければ怒りもしない。感情が揺らぐことはなく、もちろん泣くこともない。
 戦うことはできぬのだから、くだらぬ感情やその機微でこの人を煩わせてはならない。なによりそうした無様を晒したくもなかった。確かに想うこの人を、振り向かせてやりたくはあったし、そのためにここへ来たはずだ、けれどそこにある感情をなんと名づけるべきか、わたし自身判別もつかなかったから、色恋ではないように思う。この清廉な少年に、抱かれたいとは思わない。抱いてやりたいとも、あまり。触れたいのは身体よりも精神だ。その志であるとか、夢を追う心とか。ひたむきな魂をこそ飲み干してしまいたかった。向ける感情は愛よりも、むしろ憎しみに近いだろう。だってこの人はわたしの好意に、同種の好意を返してはくれないから。
「英霊の座は永遠だ。どれだけ時間がかかっても、私はここへ辿り着こうとしたでしょう。けれどそれでは、遅すぎる。わたしは一日も、一秒でも、一刻も早く、ここへ至りたかった」
「時間の短縮にはなった? それはよかった」
「はい」
 返す声に喜色と高揚が滲んでいる。長年の望みの到達には、この人の凍てついた心もいくらか昂ぶるらしい。読みかけのアポクリファにもそのような文面があったな、セミラミスの空中庭園でユグドミレニアの城塞から大聖杯を奪取しようとしていたとき。
 天草があたりを見回す。いくらか事故らしい音があったし、今もいくつか火の手が見えるがもはや世界は無人である。人の肉体は消滅した。肉体を失った魂は、やがて精神との結びつきも失われ、魂のみの生き物として星幽界で永久に生き続けるだろう。そこでどのような社会が形成されるのか、わたしには皆目見当もつかない。社会など形成されるのだろうか。どちらにせよ、ろくな結果にはならないだろう。それを見届けるのが、これを行った天草四郎の咎である。どのような感情か、内実はわからないながら喜びと充足と、けれどそれ以上の安堵に包まれているのだろうか、静かな瞳で街を見守る彼の、エーテルによって編み上げられた魂もまた、聖杯の成す第三魔法によって物質化された。エーテルで編まれたままの肉体を霊体化させてしまえば、彼の魂もまた、たちまち星幽界へと召し上げられるだろう。彼の勝手な願望で、勝手な方法で救済された人類たちの行く末を、とこしえに見守り続けるがいい。その果てを、見届けるがいい。狂うまで。あるいは自我の消え失せるまで。おそらくは、これがわたしの望む復讐だった。優しくあたたかな愛を、愛情に愛情が返される穏やかな奇跡をようやく信じることができたわたしに、わたし自身へはそうした奇跡の降りかからぬことを思い出させた、再び極寒の世界へと連れ戻したこの男への。
 彼は私のカルデアへ召喚されただけで、これはまるきりわたしの逆恨みであることは彼の名誉のために補足しておくとする。
 大聖杯の中では無数の冬の聖女の残骸たちが目を閉じて、新たな世界を作り上げるための機構のように魔力を解き放ち続けている。
 人は終わり、わたしたちの旅も終わりだった。わたしは適当なタイミングの冬木へと彼を連れてきただけで、特段戦ってもいない。ありあまる魔力で彼の胸の令呪を補充してやりはしたが、それくらいだ。対サーヴァントに特化した彼一人の力だけで七騎のサーヴァントの始末は済んだ。我々の存在はイレギュラーで、七騎は聖杯戦争を行っているのは自分たちだと思い、潰し合っているのだから事はあっけないほど簡単だった。単騎の天草が対サーヴァント戦においてどれほど強いか、FGOのプレイヤーであれば多くの方がご存知であることだろう。カルデアのレイシフトで座標を特定できるのは特異点の前後だけ、特異点でないここへと来るのは天草一人の力では不可能であっただろう。それを行ったのは確かにわたしの力だ。けれどここへと連れてきた、ただそれだけでは、協力したと呼ぶにはどうにもお粗末すぎるように思えた。
「この世界に、まだ人類は残っていますか?」
「いないと思うよ。人の肉体はすべて消したから」
 ざっくりと、地上すべての人類の肉体を消滅させたので、第三魔法が行き届いておらずそのまま死んでしまった人間もいくらかいるかもしれないけどね。そこまで丁寧な仕事はできない。わたしは仕事が雑なんだ。おかげで自分の肉体さえ消滅してしまった。精神のみのわたしが見えるのは彼がサーヴァントであるからか、かつての生で霊や悪魔を屠っていたからかは知らないが。
「では、私もそろそろ行きますね」
「うん。それじゃ」
 挨拶は、今日別れるだけのような簡素なものとなった。別れというのは何度体験しても苦手で、どのような言葉を放つのがよいのか、どう振る舞うのが適切なのか、未だによくわからない。
 わたしが行けないことは、彼には既に言っていた。わたしの魂があるのはこの世界ではない。ここにあるのは精神のみで、魂はないのだから物質化されようはずもない。その通りに告げたのではないが、とにかく第三魔法による魂の物質化はわたしには適用されず、天草の夢が叶えられたとして、わたしは彼の救える人類の範疇外だろう。そう話したところで彼はそうですか、と言うのみで、以降それについて話題にするようなこともなかった。それはわたしにはここでない、元いた場所があるからでもあるのだろうし、仮にそうでなくても、全人類が救えるのであればわたし一人を救えなかったところで、この人には切り捨てるべき小事である。救ってほしいわけでもない。救いであるとも思わない。彼にわたしを救えない悲しみなど、あるはずもない、とまでは思わないが、やはりさしてないだろう。そうした些事に、煩わされずに済むようにと、感情を捨てることにしたのだろうから。
 別れを告げればすんなりと消えるだろうに思われたその人は、逡巡しているのか、姿を消すことなく指先を口元へやって思案らしく虚空へ視線をやっていた。
「あなたに、こうも世話になりながら、なにもしないのは道理に合わない」
 道ゆきに対して障害でないのであれば、筋は通したいのだろう。わたしはああともうんともつかぬ相槌をぼんやりと漏らす。
「感謝しているんですよ、これでも」
「そう……」
 告げる声はやはり身も心も凍えそうなほど平坦だった。これもやはり嘘であるとは思わないが、感謝などと、そうした心が存在しているようにも聞こえなかった。
「私の願いを叶えてくれた、あなたの願いも、できることなら叶えたい。どうですか」
 一応頭はあるのだろうに、ずいぶんと、行き当たりばったりな言葉だった。人類の救済に比べれば二の次であるのだから仕方もないか。買い物に誘うような気軽さだ。最早レストランにシェフはなく、見る店に店員もない。遊園地でアトラクションを動かす人間だっていないし、電車も飛行機も動きはしないと言うのに。
「……本気でそう思うなら、もっと先に言うべきだと思うが」
「そうですね、すみません」
 謝意など感じられないが、別段構わなかった。彼の言うそうとは、先に言うべきであったことは確かだけれど、そうする気など毛頭なかったという意味だ。願いを叶えたいというのは人を救い終えて落ち着いた今だからこそ、可能であれば、と言う話だった。だとしても、わたしにとっては存外な提案であったし、彼と行きたい場所などありはしない。ともにしたいことだって、なにも思い浮かばなかった。できることなら一緒にいたい。けれどそれは叶わぬし、一緒にいてなにがしたいのか、どうしたいのかがわからぬのだから、叶わなくても別段構わぬようにも思えた。
 叶えたい、そのようなことを突然言われても困る。
 彼にこうして会いにきて、相対して、願いはその先にあったように思うのだけれど、わたしの足はここから先へ動くことがなかったし、その心をわたしへ向けることも無理だとわかった。ともにいることも、もう無理だ。叶わない望みは叶わぬのだから、望まないのが一番だ。届かない絶望に、もう打ち砕かれたくはない。絶望のぬかるみに還れば、楽だけれど、二度と立ち上がれないだろう。もうわたしは疲れたし、一刻も早く、こんなことはやめてしまいたい。ここまでこうして会いに来た、その一歩を踏み出した、それだけでわたしはよくやった、大きな成長じゃないか。一度目の挑戦で、成功するべくもない。また次があるだろう。絶望のぬかるみへさえ、あの昼の布団にさえ戻らなければ。また、歩くことができるのなら。次に、頑張ればいい。天草四郎を諦めて、いつかまた、誰かを好きになればいい。それだけのことじゃないか。
「願いか……」
 様々な考えが、深度を持たず頭の中をすべっていった。深みを得れば、届かない絶望に胸をすり潰されてしまいそうだ。わたしのように逃げたりせず、この人はいつでもまっすぐに夢を見据え、それを追い続けていた。であれば、それはいつか叶うことが道理だし、どうか叶ってほしい。これは目の前の彼が行ったことではないが、六十年だって頑張ってしまう人なのだ。遠坂凛の言葉を借りるのであれば、それだけ頑張ったのなら、報われなくっちゃ嘘だ。世界はそうでないけれど、そうでないからこそ、頑張れるこの人には報われてほしいと思う。報われることがないのであれば、わたしが報いたいと思う。それが願いであるのなら、やはり、わたしの願いは叶ったのだ。彼の願いは今ここに、叶っているのだから。
 答えを出さぬわたしを彼は見つめている。迷いのない、まっすぐな目で。彼はいつでも恐ろしかったが、この、澄み切った少年のまなざしが自身へ向けられるのを、いっとうわたしは恐れた。そのまなざしの奥にある感情がわからない。あまりに得体が知れなかった。ひとつ、その根底に敷かれるものはやはりわたしという人間への無関心であって、ただそれだけが確かな事実であるとともに、それさえわかれば十分だ。十分に、希望など持ちようのないことが思い知らされた。今までも、そして、今も。
 二人の間に横たわるたった数歩の距離を、わたしは踏み出すことができない。けれど彼に近づいてほしいとも思わなかった。彼が一歩近づけば、わたしは後ずさるだろう。だからこれでいいのだ。けれど、できることなら、指が裂けてしまうとして、あなたに触れてみたかった。
 たとえば。彼のかんばせを見る。ガラスの目。つるりとした褐色の頬。薄い唇。具体的に考えようとする思考を止めた。
「願いはいいよ。もう叶わないから」
 触れることのできる肉体を、わたしも既に、持ってはいないのだ。悲しみが、去来しそうなところをどうにか押しとどめた。わたしは悲しまない。彼はわずかに目を細めて、やはり、そうですか、と静かに言った。うん。そうなんです。わたしも自身へと言い聞かせる。
 人が滅びようと地球は回る。天の杯に覆われた地球は変わらず自転し続けて、冬木の町へも東の空に黎明の薄明りを齎していた。
「では、」
 短い挨拶を残し、彼の姿は金の粒子となって溶けていく。あさぼらけに、彼が願いを叶えた幸福に笑むのであれば、少しはステイナイトの凛ルートのようであっただろうか。彼の思う方法で人を救ったところで、彼は救われないだろう。安息など永劫ない。第三魔法で、人は確かに完成するのだろうけれど、それは救いではないだろうから。けれどまあ、わたしがそう思うだけで、彼の思うよう、人は救われるのかもしれない。どうだろう。そいうであればいいと思う。それがそう有り得もしない、思考停止のような希望的乾燥であると重々承知であるために、わたしはそう思っていないのだけれど。
 レプリカのように組み上げた世界の地上にただ一人残されて、無人となった町を見る。なにもかもすべて終わったのだ。もう彼の凍てついた心を、目を、声を前に、それらに晒されて、断絶に恐れることなどないし、開かれぬ悲しみに打ちひしがれることもない。わたしに心を寄せることのない彼と希望もなく過ごす日々に苦しむようなこともない。初めての挑戦にしてはそれはとても、すばらしい結末であるはずだった。


(終)



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